夢 桜



 「いらっしゃいませ。」ちょっとお上品に言う。私が今働いているのは、小さな宿。ここには毎日常連さんがやってくる。
「いらっしゃいませ。」仲居の私はまだ、十六歳。学校はどうしてるかって?そんなの、もう辞めた。都会を飛び出して、ここで冬の間だけ働かせてもらっている。
「ちょっと、なっちゃん。もっときびきび働いて!」私はのろま。昔からわかっていること。てきぱきとした女の人を目指してここに来た。でも人はそんなに早く変われない。めげた私を励ましてくれるのは人の言葉なんかじゃなくて、ここの温泉。住み込んでいる私は毎日温泉に入りながら夜空を眺める。田舎の夜は真っ暗だ。でもそんな地上に、星たちは眩しいばかりに光を灯す。



 「なんで同じ失敗を繰り返すの?」私はうつむいた。若女将はカンカンだ。私は働くことが向いていないのかという位、毎日毎日おんなじこと間違える。
「すみませんでした。」そう言うと若女将は、つんとして厨房から出て行った。そばに居た見習いの板前さんは「大丈夫か。」と言ってくれた。私は「うん。」と言って仕事に戻った。
 ゴミだしで外に出ると、寒いけれど真っ青な空が広がっていた。東京に帰りたい。家族にも会いたい。でも帰れない。帰りたいけど帰りたくない。あきらめたらそこで終わり。

  東京で痛い思いをした。私と同じナツメという名前の子に酷いことをされた。それ以来自分の名前に戸惑いを感じる。親がたくさん考えた末につけてくれたナツメという名が、あんなに嫌な事をする子と同じということが悲しかった。二年のクラスがえのときナツメと同じクラスになった。知らされたとき私は目の前が暗くなった。一人泣きながら帰った通学路には虹がかかっていた。


 次の日私は先生にクラスを変えてもらうようにお願いした。そして全部話した。すると先生は
「そうか。じゃあ青山ナツメに小畑と仲良くするように言っておくよ。」そうじゃないよ先生。そんなことをしてもらいたくて言ったんじゃない。先生という職業はこんなもんなの?
「もういい。」そう言って私は職員室を飛び出した。その三週間後、私は学校を辞めた。



 お母さんに「帰ってきたら驚くほどシャキっとした人間になってくるからね。」と言って田舎に逃げた。家族には毎週手紙を出してる。ほとんどは、強がった内容だ。それをわかっているのか、お母さんからは私が寂しがらないようにすぐ返事をくれる。電話もするけど泣きそうになるからあまりしないようにしている。最近心から笑ったことあったっけ。隠れて泣いてばっかり。どんどん弱ってく。



 昔からのお得意様がやってきた。でも今日はその息子。二十代半ば位で目鼻立ちがしっかりしている。部屋に案内して、お茶を出そうとしたとき「ばしゃっ。」どーしよう。その男の人にこぼしてしまった。
「すみませんっ。」慌てて着物の袖で拭いた。怒ってるだろうな、私くびになっちゃうと思いながらうつむいていると
「いいんだよ。」という優しい声がした。「えっ。」顔を上げると、
「そんなに謝らなくても大丈夫。」と言って笑った。私はその笑顔に安らぎを感じた。



 用があって厨房に入ると、見習い板前に
「市橋様にお茶こぼしたんだって?」と言われた。ああどうしよう、もう若女将の耳にも入ってしまったかもしれない。怒られる。顔を曇らせると
「大丈夫だよ、誰にも言ってないから。」少し安心した。でもなんでこの人だけが知ってるんだろう。そう思いながらも板前は続けた。
「あの人は、有名な書家の跡取だからな。この宿にとっても有益だから。」そう言って軽く私に注意した。
「すみませんでした。」そう言うと慌てて
「なんだか俺若女将みたいなこと言っちまったな。ごめんな。」と言った。私は「ううん。」と言って微笑んだ。


 一月十六日、今日は私の誕生日。朝からテンションがちょっと違う。でも「おめでとう。」と言ってくれる人は誰もいない。だから窓拭きをしているとき、曇った窓に「ナツメ十七才おめでとう♪」と描いた。もったいないからその窓は最後に拭くことにした。ちょっと嬉しくなった。はなうた交じりで雑巾を絞っていると
「おっ、誕生日なのか。」と言う声がした。後ろを振り返ると市橋さんだった。私は照れくさそうにうなずいた。
「そうか、おめでとう。」私は嬉しかった。
「ありがとうございます。」そう言うと
「まだ十七になったばかりなのか。もう二十歳ぐらいかと思った。」市橋さんは曇った窓をじっと見ていた。そして
「字、上手いなあ。」と言いながら感心していた。意外だったらしい。私はクスリと笑った。それを見て市橋さんも笑った。久しぶりに心が晴れる気がした。すーっと窓から入ってきた風は朝の匂いを連れてきていた。



 「なっちゃん、ちょっと。」私を一番かくまってくれる女将に声をかけられた。女将の部屋に行くと
「まあ入りなさい。」と言われた。そしてお茶をいれながら
「ここにきて二ヶ月になるけれど、なれましたか。」と聞かれた。私は「うーん…」とうつむいた。こういうときはっきり「なれました。」なんて言えればかっこいいのにな。そう思いながら
「まだなれないです。失敗のほうが多いです。」ちょっとおかしい日本語で素直に言った。すると女将は大声で笑った。
「そーう。どんどん失敗しなさい。」私はその声の大きさにびっくりした。そして言ってることにも驚いた。
「失敗は成功のもと。ねっ。」そう言って私の肩をぽんっと叩いた。私は女将に元気と安心をもらった。



 一日お休みを貰った。朝から曇り。雪でも降りそうだ。でも外に出て家族に送るお土産を探すことにした。橋を渡って、和菓子屋さんでゆっくりしていると「なっちゃん。」と声をかけられた。市橋さんだった。彼はこの先の滝を観に行くつもりらしい。
「なっちゃんも行く?」私はちょっと間を置いてうなずいた。
「そう、きれいらしいよ滝。俺もまだ見たことないんだけど。」そう言って一緒に店の外に出た。歩いているとだんだん水の音が聞こえてきた。そして滝のふもとについた。でも霧がかかっていて上のほうがよく見えない。


「あんま見えねーな。」市橋さんが言った。「うん。」私も残念そうに言った。すると近くで土産物屋をやっているおじいさんが私たちに喋りかけた。
「もしもしそこのお二人さん。諦めるのはまだ早いよ。こんな天気の日には、桜の神様が下りてくるかも知れんよ。」杖をついたおじいさんはそういって滝を眺めた。霧はもっと濃くなって辺りが真っ白になってきた。



 しばらく何も見えなくなった。そして市橋さんがやっと見えるくらいになった時、天空からふわりふわりと雪が降ってきた。そして季節はずれのピンクの桜の花びらもはらりはらりと舞い落ちてきた。冷たい雪が頬を刺して、柔らかい花びらがまぶたに触れた。そしてその綺麗さに圧倒された。白とピンクが混ざりあって無作為に落ちてくる。唖然としていると
「おおう。桜の神様が下りてきた。わしもそろそろ潮時かな。」というおじいさんの声が聞こえた。ふと市橋さんを見るとすごく驚いた顔をしている。霧が晴れていく。天の果てが見えていきそうだった。



 完全に霧が晴れると、雪も花びらも姿を消していた。幻だったのか。しばらくボー然とした。
「なっちゃん…。」市橋さんは静かに呟いた。そして私は聞いた。
「市橋さんは、見えた?」すると滝を見上げながら
「うん。」と言った。 辺りを見回すとおじいさんがいない。ただ杖だけが残っていた。
「不思議なところだ。」市橋さんが言った。
「ほんと不思議なところね。」
 私たちはそう言いながらしばらく滝を見上げていた。天からはおじいさんの声が聞こえてきそうだった。

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