37.Q 仏教では分別は「迷い」といいますがなぜですか?

 A <四図>のように根と境、因と縁によって六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)が起る。これを分別とか分別智とかいっている。意識が、「あるものを」推理したリ判断したり、また過去の記憶を追想したりする時は「言葉」を介してすることになる。意識は言葉と倶(もと)に起こってくる。言語化したものを意識といってもよい。言葉というのは「ある物」を説明するために設けられた仮設であり、あくまで「仮名」(けみょう)ということです。つまり意根と法境で起こってきた意識(心)は「仮」ということになる。この仮名による抽象的概念で推理や判断の分別をいくらおこなっても生じて来るものは「仮のもの」ばかりです。ですから真理・真如でないものを「悟り」に対して「迷い」と名ずけているだけのことです。
 また明瞭なる理性によって真理は得られるという人に対しては、真理は一つであり、真理は「言語化されない」からこそ真理であるという立場から、理性は思考や判断の作用としての分別(言語)だから真理に近ずくことはできたとしても、真理そのものにはなりえない、そこで分別は真理に到らないので「迷い」ということになる。
目次へ
38へ