45.Q 三宝帰依は仏教との証とよくいわれますがどのようなことでしょうか?
A まず帰依の帰とは、そこに向かうこと。依とは身をよせる、拠り所の意。つまり三宝帰依とは、仏教徒が心の拠り所となる仏・法・僧に救いの場所を求めるということ。同じ意味で帰命ともいう。仏の命令に従うとか、自己の生命をかけて救いを求めるということで、梵語では namas ナマス「南無」と音訳する。
一般に、救い、救済とは災害や不幸から人を救う、というように「助ける」との意味で使う。仏教では救いといえば、「度」「彼岸」や「悟り」を意味する。仏・法・僧の側からすれば、いつでも、どこでも、我々迷いの衆生(人)を、「救済しよう」「悟りへ導こう」としているわけですから、こちら側我々も、金儲けが大切だ。遊びや恋愛やセックスの快楽が人生だ。仕事や雑事で忙しくて。とばかりいってないで、三宝へ毎日毎日、帰依していれば、仏の導きに気づき、菩提心を発こす機が熟して、僥倖がある。思ってもみなかった真の幸福を手に入れることができる、ということです。
これは当たり前のことで、たとえば、学校の先生が一所懸命に目標の学校に合格させようとして、受験のノウハウを教えているときに、生徒の方も先生を全面的に信頼して、毎日毎日学習に励んだ。そして目標の学校に合格した。というようなものです。簡単にいでば、仏・法・僧に向かうこと、悟りの彼岸に目標を定めることが仏教徒ということになる。
では、我が国の「おたのみ信仰」「こじき信心」という、神仏に対してお金がほしい、マイホームがほしい、一流の大学に合格させてほしい。そのような人々は「仏教徒」といえるでしょうか?
仏の命令である悟りを目標にしていないのだから、仏教徒ではなく、信徒、壇徒、信者と呼ぶべきでしょう。目標が、「現世利益」なのだから。