58.Q 瞑想や苦行をするなかに、なぜ悟りがあるのですか?
A 放下(ほうげ)という言葉がある。捨て置く、手放す。両手でがっちりと握ってると、それ以上何も掴めない。捨てたらその分だけ掴めるという意味である。仏教で「捨身」(しゃしん)といえば、いのちを捨てること。釈尊が前世に餓えた虎に身を施した話や、Q&Aの19の雪山童士が法を開くために羅刹に身を与えた話は有名である。我々の日常は手に入れる「拾」があたりまえであるが、これでは事はうまく運ばない。まず「捨」がある。「拾」は自然に起こる。息はまず吐くのである。空気は自然に入ってくる。吸うばかりだと必ず死ぬ。
そこで、「捨」についてもう少し詳しく話す。仮に捨俗、捨心、捨身の三つの名で呼ぶことにする。一つめの捨俗とは社会的な生活を捨てること。仕事、金、地位、家族などを捨てること。二つめの捨心とは、生まれてより現在までの知識、観念、つまり己が知的財産を捨てる。これは目に見える金や地位以上に何々捨てずらい。なぜかというと、それらを捨てることによって、自分はなくなってしまうのではないか、という恐怖がある。アイデンティティもなくなるし、人間存在そのものを否定しなければならなくなってくるからである。
三つ目の捨身とは、生物として生きることに必要な食、空気。一般に言われる三欲求(食欲、性欲、睡欲)を捨てる。
このように三つの捨を実行すると、どれ一つとっても生命が無くなる。釈尊における出家は捨俗であり、瞑想は心捨であり、苦行は捨身である。このようにみてくると釈尊の苦行は出家からすでに始まっていたのだ。そして、捨身である苦行において、三つの捨が完結して、「悟りの法」を発見する。それは十二因縁でいったところの「無明」のことである。