59.Q 釈尊が三つの「捨」が完結して、「悟りの法」を発見したと言われましたが、釈尊の仲間や多くの修行者も同じような方法でやっていたと思うのですが、「悟る者」と「悟れない者」の違いはどこにあったのですか?

 A 同じことをやっていても、「意識」や「意志」に大きな差があったと思うのです。悟りに至る方法として、出家→瞑想→苦行と「捨」を断行していく、と先ほどいいました。苦行の最終段階においては、生と死の境界線(極点と呼ぶ)に近づく。極点に至ろうとする意志を「死力」と呼ぶ・・・@。極点から離れる意志を「救力」と呼ぶ・・・A。(下の図参照)
 @の死力とは「自分が地獄に落ちてもよいから悟りたい」「悟りの法を発見しなければ他を救うことができない」という強い意志です。仏教では「信力」とか「救道心」ともいう。
 Aの救力とは「出家の意志を固めた時からの大願であった、世の為・人の為・国の為に「真理の法」を弘めたい。」「たとえ悟れなくても大願は成しとげるぞ」という悟りの達成よりも、救済を優先する意志です。つまり、「悟りたい」という悟りそのものを「捨」する。悟りの否定です。
 そこで、「悟る者」は死力によって極点に至る。「悟れない者」は誤まった意識のため極点に至らない。「悟るもの」は極点に至っても救力(他救力)を優先する。「悟れない者」は極点に至っても、尚、自救力(自己の救済)を優先する。この者は「悟った」と錯覚するから始末に負えない。
 大乗仏教における菩薩の六度(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)の最初に布施がくるのもうなずけるでしょう。布施の極は捨身供養だ。「死力」と「救力」のことである。
 先に、悟りの法の発見には三つの「捨」といいましたが、正しくは、出家→瞑想→苦行→解脱(悟り)の四の「捨」です。尚、上の極点のことを仏教では「無明」といっている。

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