64.Q 瞑相によってブッダ(目覚めた人)となった釈尊が、真実の方を人に説くのをためらったという伝説は文献にあるのですか?
A 厳しい苦行の後に、神々の住処(すみか)とされるアシュヴァッタ樹(後の苦提樹)の下で成道した後、釈尊が説法をためらった心境が、(中村元訳「ブッダ 悪党との対話―サンユッタ・ニカーヤU」岩波文庫)あるので紹介します。
「わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。ところがこの世の人々は執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに 耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。さて執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに 耽り、執著のこだわりを嬉しがっている人々には、<これを条件としてかれがあるということ>すなわち縁起という道理は見がたい。またすべての形成作用のしずまること、すべての執著を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、やすらぎ(ニルヴァーナ)というこの道理もまた見がたい。だからわたしが理法(教え)を説いたとしても、もしも他の人がわたしのいうことを理解してくれなければ、わたしには疲労が残るだけだ。わたしには憂慮があるだけだ」と。(中略)
「苦労してわたしがさとりを得たことを、今説く必要があるだろうか。
貪りと憎しみにとりつかれた人々が、この真理をさとることは容易ではない。
これは世の流れに逆らい、微妙であり、深遠で見がたく、微細であるから、
欲を貪り闇黒に覆われた人々は見ることができないのだ」と。
尊師がこのように省察しておられるときに、何もしたくないという気持ちに心が傾いて、説法しょうとは思われなかった。(第Y篇 梵天に関する集成 第一節 懇請より)