65.Q Q64の釈尊が説法をためらった、という言い伝えから何を学べばよいのですか?
A もともと釈尊は前にも言いましたが、真理を求める動機に「救済の意志」があった。
(救済の意志とは、人類愛、慈悲心、後の大乗仏教の利他の意。)それにもかかわらず、
実際に悟ってみると、この悟りの法(悟りに到る方法)はあまりにも難解であるため、説
法を躊躇したという。一体、何が悟りに到る道を難しくしているのか。
その一つは「思考の域を超えている」からだと伝(いいつたえ)はいう。読者が推理小
説の中の犯人を推理して深めたり、学者が理性による思索の末に理論を完成したりするの
は、思考の域内である。我々が日常やっている情報を集め、考え、問題を解決していく
という行為も、やはり思考の域内である。もとより人は生まれた時から、親や教師や社
会から、思考することの大切さを何の疑いもなく受け入れてきた。それゆえに、仏教書を
読み学び、信仰に励んで仏教がわかったつもりでいるが、それら多くの人々は結局、思考
の域を超えていない。
今一つは、執念のこだわりを楽しんだり、嬉んだりしているからだと伝はいう。
執著のこだわりとは、我々が日常あたりまえにやっている、飲んで食べて、仕事をして、
金をためて、遊んで、寝る。家族の一員として、社会人として疑いもなくやっているすべ
ての行為のことである。このあまりにもあたり前すぎていることが、あまりにも無意識で
やっていることのゆえに、執著のこだわりを捨て去ることができない。つまり、あまり身近
すぎて執著している対象そのものを、捉えることができないということである。
以上のように、釈尊が説法をためらったというところに、さとりの法の「微妙さ」があるよ
うに思う。世間の常識や価値観に流されていては、「さとりの彼岸」は遠のくばかりである。
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