69.Q 苦が生じてくるすべての原因は「執着」にあたるという苦集聖諦とは、どのような教えですか?
 A 集(サダムヤ)とは生起の原因の意。苦集とは苦が生じてくる原因です。四諦の教えでは、その原因は渇愛にあるという。渇愛(トリシュナー)とは、あたかも咽の渇いた者が水を強く求めるように、欲望の満足を強く求める心のことです。渇愛は一切の煩悩の代表で、これを執着といっている。わかりやすくいえば「こだわること」です。
 私達は、朝目覚めた時から夜寝るまで、さまざまな欲が日常の中で起こります。一瞬一瞬「無意識」のうちに行為の判断をしているのです。ところが、これらの判断を誤まった情報や誤まった考えで意志・決定しているので、ここrが対象に執着して、苦が生じてしまうのです。では、無意識に行為の判断をしている中味、判断材料は一体、何なのでしょうか?それが貪・瞋・癡・慢・見の根本煩悩なんです。(Q&A39〜43)これらの煩悩は、六つの対象と六つの欲から生じてくる。(Q&A31・32参照)
 1、色や形の対象が視覚によって欲(眼識)を生じる。
 2、声や音の対象が聴覚によって欲(耳識)を生じる。
 3、においの対象が嗅覚によって欲(鼻識)を生じる。
 4、味   の対象が味覚によって欲(舌識)を生じる。
 5、触れられるものの対象が触覚によって欲(身識)を生じる。
 6、頭にうかんでくるもの、感覚された観念の対象が知覚によって欲(意識)を生じる。
 以上を図式にすると六つの対象(六境)←六欲(六根)→煩悩→執着(渇愛)→苦となる。
 欲の対象が金・借金・病気・不倫など、わかりやすいものもあれば、「心のむなしさ」や空虚や不安など、一体、何に執着しているのかさえ、はっきりしないものもある。いずれにしても、迷い、苦しみ、むなしさがあるということは、「自分尾考えが誤まっているから苦しむのだ」と、自らの内面に問いを向けることが苦から脱する第一歩であることは、まちがいないのです。
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