Nicholson Baker
| 『中二階』ニコルソン・ベイカー/岸本佐知子(白水uブックス) |
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> ミシン目! たたえよその名を! 本書は、ごくごくフツウのサラリーマンの昼休みにおける思考を追ったものである――と言うと正確ではないだろうか。靴紐が切れてしまったために昼休みに買い出しに行った主人公が、オフィスのある中二階へ向かうエスカレーターに昇るところから始まり、そのエスカレーターへ戻るところまで、を描いた作品である――と言ってもまだ正確ではない。エスカレーターに乗っている間に主人公がした推察、考察、思考を書き綴った――訳者あとがきの言葉を借りれば「極小(ナノ)文学」なのである。 その考察は、靴紐が何故左右同時期に切れたのかという問いから始まり、ストローが紙からプラスチックへと変わったことにおける推考、オフィスと自宅とのトイレの便座の差異性に関する考察、新時代を切り開いた〈ミシン目〉に対する考察とその考案者に対する賛辞――そんな生活の隅々にある何気ないモノたちに対して主人公は想いを馳せ、考えを重ねていく。 その脚注の多さに驚かないヒトはいないだろう。目に付いたものを片端から考えの俎上にのせていく主人公。それらは脚注で、事細かに考えられ書かれていく。脚注を追っていくとどんどん本筋から離れ、遠い遠いところへと考察は及ぶ。その考察は微に入り細を穿ち、しかしそれは読者も一度は思ったことがあるようなないようなことであって、読んでいて頷きながらも呆れつつ、脚注を読み終えさて本編へ戻ろうとすると、本編でもやはり考察が行なわれていてその考察は微に入り細を穿ち、しかしそれは読者も一度は思ったことがあるようなないようなことであって、読んでいて頷きながらも呆れるのだ。いや、そもそも本書において本筋なんてものはないのだ。いったい主人公がエレベーターにいたのかお店にいたのかトイレにいたのかオフィスにいたのか廊下にいたのか、脚注による脱線に次ぐ脱線によって読者はそれすらもわからなくなる。本書に本筋なんてものはなくて、そこには脱線しかない。いや、脱線がメインであるのだから、脱線が本筋なのか。いやしかし、それははたして本筋なのか脱線なのか――。 ――まあ、とりあえずは誰もいない部屋で読むことをオススメしたい。主人公の考察といったらそれはもう楽しい。「爆笑する楽しさ」ではなくて、「何処かからこみ上げてきて耐えようとするのだけど耐えることができずきっと今現在他人に自分の顔を見せることができないだろうなと思えるような顔になってしまうようなあのくすくす笑い」的な楽しさがそこにはある。 ちょっと反則かもしれないが、最後に引用をして終えることにしよう。ラスト近くの脚注。 ボズウェルも、レッキーも、その前にはギボンも、脚注が無類に好きだった。彼らは知っていたのだ。 真実の表面は、決してきれいに整ったパラグラフからパラグラフに継ぎ目なくつながった、滑らかな手触り のものではなく、引用文や引用符やイタリック体や外国語や、そしてさまざまな学者や編集者たちによる “同上” “参照” “見よ” などの皮膜に厚く覆われた、木の皮のようにごつごつした感触をしていることを。 そしてそれらが頭の中に間断なく割り込んできては、本論の澱みない流れを妨げることを。それに、ページを めくった瞬間に、小さな活字で書かれた例証や定義が、ページの下の方に灰色の帯となって待ち受けているのを 目の端でとらえたときの、あのわくわくするような喜びのことも、彼らは知っていた。 〈あのわくわくするような喜び〉を欲する方に是非オススメしたい1冊。
(2004年03月22日更新)
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