Steve Erickson
| 『黒い時計の旅』スティーヴ・エリクソン/柴田元幸・訳(福武文庫) |
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> それは世界を変えた。おれがおまえを見たことがだ。それは文字どおり世界を変えたのだ 某月某日 スティーヴ・エリクソンを読み始める。古川日出男が薦めていた10冊も徐々に片付いているのだが、エリクソンに関しては『真夜中に海がやってきた』の前に『黒い時計の旅』を見つけてしまったのでまずこちらから。生まれ育った島に居続けることもできず、さりとて都会へ出奔することもできず、渡し舟の上で家出し続ける男の話。はて、何やら裏表紙に書いてあった粗筋と違うっていうか、ここからどういう展開にしたらあんな粗筋になるんだろか、と不思議に思いながらも、何だか場面が変わるようなのでひとまずここまで、と。44ページ。 某月某日 場面が変わって――というか、一体何が起きたのかわからないまま語り手が変わる。いつのまに変わったんだ語り手っていうか、この男は誰だ。なんで幽霊が語り始めるんだ。この唐突に出てきた幽霊誰だ。語り手は、三人称から一人称「おれ」の話に変わる。破壊的と言うよりかは、あまりにも暴力的な物語にひどい違和感を覚える。昨日の物語はもっと物静かだったような気がしたんだが。気のせいだろうか。昨日はなんかもっと、こう、深い霧の中にいる感じがしたのだけど、語り手が変わってからなんだかすごくドライブしてる。 徐々に、その男――バニング・ジェーンライトの語り口調に慣れる。っていうか、自分自身がドライブしてる。108ページ。 某月某日 ペースが掴めてきたため、がしがしと読む。格好良いぜ、ジェーンライト。それにしても、物語が進んでゆくにつれて徐々に、一体何が起きつつあるのかわかるものの、一体何が起きているのかわからなくなってきた。「お前」って誰だ。そしてこのジェーンライトの物語は冒頭の主人公「彼」と一体どう繋がるのだ。よくわからない。169ページ。 某月某日 主人公がふたたび変わり、「彼女」へと移る。話が繋がり始める。なるほど、これがあいつで、そうなるわけか。で、粗筋もそういうことだったわけか。でもそれならばあれは一体どういう意味だ。 何はともあれ是非ともバニング・ジェーンライトのポルノグラフィーを読んでみたい。299ページ。 某月某日 一気に読んでしまう。主人公が「彼女」からの視点で語られているかと思ったら不意に現れる「私」。おいちょっと待てこれの語り手は誰なんだと思っていたら、不意に視点が「私」へと変わる。そこからラストまでは一息。一体虚構と現実とはどちらがどっちだったんだろうというのは無粋な質問なんだろうか。しかし、水上修道士へと語り手が変わった後のラストシーンはあまりにも幻想的だった。満足。 ――と言うことで、初スティーヴ・エリクソンとして『黒い時計の旅』を読み終えたわけなのだけれども、濃密で暴力的な描写には息が詰まった。長時間潜水をさせられている感じ。読み終わってようやく、水面に顔が出せた時、ようやく息が出来たとき、一体何が見えたんだろう。何かが見えた気がした。 本書は正直なところ、まるっと理解できた本ではないので感想を書こうとすると、多分ものすごくとっ散らかったものになっちゃいそうなので、ちょっとまとめて書いてみようと思う。まとめて書いてみるつもりなので、ネタばれを含みますので未読の方は要注意、要注意です。ひとまず、裏表紙にある粗筋の一行目、 > バニング・ジェーンライト。ヒトラーのために、ポルノグラフィーを書く男。 に惹かれるような人は、古本屋で見つけたら即げっと。 ここからはネタばれあるので、未読の方は引き返せー。 ということで、実は感想はこの後まだまだ続――けようとしたのだけれども、まとめきることができなかったので、ものすごく尻切れトンボで終わっているので既読の方も引き返せー。……その内、書き直しますので。 物語は三人称から一人称、「おれ」から「お前」「お前」から「私」そして一人称からまた三人称へ、と人称を変えながら、語られてゆき、点は線になり、線は面となってゆく。人称がどのように移り変わっていったのか、を書こうと思ったものの、それ書き始めたらものすごく長くなったので端折る。結局長くなっちゃってるけど。 読者さえも霧の中にいるかのような、本書を読んでいる間世界から時間も空間も切り離されているかのように思える、最初のパート、水上修道士「マーク」のパートは、読み終わった後で読み直すと、ものすごい量の伏線がはってあって、しかも一部では謎が解けていたりもする。まあ伏線が張ってあるっていうか時系列をきちんと並び替えたら、後の方なので伏線も何もないんだけど。(しかしこの物語、時系列順にきちんと並び替えることが果たして可能なのだろうか)。 渡し舟が島と本土とを往復する途中にある地点にくるとマークが感じる「時間と空間がすべて彼の舟に帰属し、行き先も出発点も消滅するあの瞬間」が読み始めた時は何だかよくわからないものの、読み進める内にそれが一体何のことだったのかがわかった時(理解はできないけれど)、読者は驚愕するに違いない。 正直なところ、マークの物語は物語に入り込むのが難しい。マークの物語は霧に包まれているからだ。なんだか曖昧であやふやなマークの話は「男」が現れて唐突に終わる。 「男」は突如現れて突如消え、語り始める。 > それは世界を変えた。おれがお前を見たことがだ。それは文字通り世界を変えたのだ。でもまあそれは別の話だ。 その「男」=バニング・ジェーンライトが語り始めるのが「おれ」の物語だ。そして、「おれ」が語り始めると、物語はドライブする。舞台も第二次大戦前のアメリカへと跳ぶ。そこで語られる「おれ」の物語はひどく暴力的で、濃密だ。家族殺しから始まる「おれ」の物語は、変わることがなく暴力的なまま続くかのように思える。アメリカを追われ、ウィーンへ飛んだ時に、「おれ」が「お前」を見た時から、「おれ」は少しずつ変わってゆく。「おれ」の語り口調は、ものすごく粗野で乱暴であるのだが時々に知性の煌きが見える。そして、生来の暴力性の中から、「おれ」は二十世紀を垣間見る。それは直感なのかもしれないし直観なのかもしれない。どっちがどんな意味だかきちんと把握してないけど。 しかしそんな「おれ」も妻を得、かわいい娘を得、楽しい日々が始まる。が、幸せな日々は一瞬の内に終わりを告げ、五年後、「おれ」であったバニング・ジェーンライトは「私」に変わる。「私」パートでは、空ろな「私」が映し出され、暴力的であった「おれ」は鳴りを潜める。暴力性が内に秘められる。 > 三年後、上りゆく月がバニング・ジェーンライトの二十世紀からもうひとつの二十世紀へとひそかに移動する。 ここから、視点はくるくると移り変わる。まず船を操る「男」が出、次は五十六年後に飛び、「生まれた日以来ずっと髪の白かった男」へと視点が変わり、最後に一九一七年へと遡り、「馬に乗った男」がクローズアップされる。 「馬に乗った男」は革命軍の兵士たちい追われている。「自分の時間から脱出し、その時間を越え、つねに一時間離れているはずの一時間に到達」し、汽車に飛び移って難を逃れ、そこで未来の妻に出会う。 そこから始まるのが「馬に乗った男」の娘、デーニア=「彼女」の物語だ。様々な男に愛され、翻弄されてゆく「彼女」を追ってゆく。天性の才能による踊り続ける「彼女」。「彼女」がひとたび踊ると、男が一人ずつ死んでゆく。死に彩られた「彼女」の物語は官能的だ。しかし、「彼女」の官能的は「おれ(=バニング)」のパートでの官能的とは違う。徹底的に違う。それは何に由来するのだろう。 彼女がウィーンを出る瞬間、唐突に「私」が現れる。驚かされる。そういえば、この「彼女」の物語を語っていたのは誰だったなのか。ただ単に技術的な問題で、三人称にしていたと思っていたのだがそうではなかったのか。あくまでも「彼女」の物語を語るのはバニングだったのだろうか。読み終えた後もそこはわからなかった。いや、そもそもバニングなる男は存在したのだろうか。語り始めたのは「彼女」の頭の中にいるバニングだっただろうか。それならば――? その後、物語は終末へと収斂してゆき、最初の島にして最後の島、ダヴンホール島にて二つの二十世紀はリンクする。収束し、収斂し、一つに纏め上げられる。 それにしても、虚構の二十世紀と現実の二十世紀は一体何処で分岐したのだろうか。「つねに一時間離れているはずの一時間に到達」してしまった時であろうか。それとも、「そして通りの上の部屋の窓辺に、おれを見つめているお前の姿を見」た時だったのだろうか。そして虚構と現実はどちらがどちらだったのだろうか。 わからない。きっぱりさっぱりわからない。
(2003年3月30日更新)
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