古川日出男
| 『砂の王 (1)』古川日出男(ログアウト冒険文庫) |
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古川日出男のデビュー作。 デビュー作だ。だから荒削りではある。しかし、後に「アラビアの夜の種族」という名の物語を完成させた、古川日出男という小説家の荒削りな原石が、ココにはある。確かにココにそれは見出せる。 荒削りなデビュー作でありながら――いやデビュー作であるからこそ、か――その言葉選びの卓抜したセンスと、抜群のストーリーテリングの巧さ、そして緻密な設定を活かした構成、その全てがここにはギュギュと詰まっている。街の風景、寺院の、訓練所の、そして巨大で無限に拡がっているかにも思える異様な地下迷宮の緻密な描写。その広大無辺の地下迷宮に顕現する魔物、ヒトとは全く異なる存在である人外の者の描写、圧倒的な戦闘シーンの描写――そう、本書は「ウィザードリィ」というゲームをベースとしたゲームノベルなのである。 Wiz関係のゲームノベルはたくさん出てるし、私自身もベニー松山が著したゲームノベルの金字塔「隣り合わせの灰と青春」「風よ。龍に届いているか」は読んだし「ウィザードリィ小説アンソロジー」も読んだ。でも、ゲーム自体はやったことがない。「ウィザードリィ」は現在に至るまで外伝含め何作も出ているが「ウィザードリィ」をやったことはない。そういうと友人から、名作だからやっておけと言われたし、時間があればやりたいと思ってはいる。思ってはいるのだ。しかし、その一方で、それらのゲームノベルで満足した部分があるのも確かだ。それは作者が意図したものとは違うかもしれない。ゲームが面白いから、ゲームをやっているヒトのためのノベライズを、ゲームをやっていないヒトにそのゲームが面白いことを紹介するためのノベライズを、そう作者たちは意図しているのかもしれない。いや、もちろんそれは確かに届いている。前述したゲームノベルは確かに面白かったし傑作だったしヒトに薦めたくなるし、ゲームもやってみたくなった。やってみたくはなったが、でもまだ、今すぐにやらなくてもいいかなと思うのだ。暫くはそれでいいかなと思っている。そしてそれは多分、本書がスゴイからだ。 〈ゲーム〉の設定を活かして、〈小説である〉ことを活かして、〈ゲームノベル〉であることを十二分に引き出している。緻密な設定に対する精密な咀嚼と、それを言葉にした時に現われる文章の繊細な強さとが、ここにはある。
(2004年04月04日更新)
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| 『13』古川日出男(角川文庫) |
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「色彩」に関する物語であり、かつ、「神」に関する物語である。 > 「一九六八年に東京の北多摩に生まれた橋本響一は、 > 二十六歳の時に神を映像に収めることに成功した」 色覚異常の天才少年・響一は、彼の従兄である関口に連れられて日本を訪れたザイール人の少年ウライネと出会い、意気投合する。響一はやがて中学を卒業とともに、関口とザイールに移住し、フランス人のガルニエ夫妻や関口が勤務する「国際霊長類研究センター」のピグミーチンパンジー観察プロジェクトを手伝う一方、ウライネの出身部族であるジョ族とも交流を深めていく。狩猟部族と農耕部族、中央政府と各部族、土着の信仰と欧州渡来のキリスト教とが、それぞれの世界観を賭けてしのぎを削りあうザイールで、響一はワツァ族の少女ローミと邂逅するが――。 一九九八年、古川日出男は本書『13』をひっさげて、颯爽とデビューした。もとは演劇畑の人であったらしい。本書で注目を浴び、満を持して刊行された二作目、皆川博子が絶賛し、「プログレッシブ・ミステリ」と帯に銘打たれて出された『沈黙』で一躍有名になる。その後、猫の写真が目を惹くジャケットの『アビシニアン』は前二作のボリュームを疑うような薄い作品であったが、濃密さは増しており、古川日出男ファンを満足させた。そして、二〇〇一年冬、満を持して上梓された『アラビアの夜の種族』は好評を博し、日本SF大賞と推理小説協会賞とをW受賞した。 本書は、第一部「13」、第二部「すべての網膜の終り」とに分かれている。第一部では、原色鮮やかな舞台ザイールでにおいて、響一の物語とローミの物語が交互に語られていく。二つの物語は邂逅し、交叉し、また別れていく。第二部では十年後に話が跳び、舞台も華やかなアメリカの映画界へと移る。南米系の女優であるココ・ココを中心とし、ある作品が作られていく過程を描いていく。そしてラスト――。 「色彩」と「神」という、言語化が非常に難しいと思われる二つのテーマを中心において進められる本書でも、古川日出男の力技は顕著である。すなわち、言語化しづらいものに対して言語を用い、ねじ伏せていく。しかし、一概に「ねじ伏せる」と言っても、そのやり方は荒々しいものではない。異常な色彩感覚を持つ響一が「色彩」を求め、かつ「神」を求めていくこの物語、かつ偽りの「神」が描かれたこの物語の最後には、ある意味「らしい」ラストが待っている。 その濃密な第一部と比べ、突如ポップになる第二部に違和感を受ける読者もいるかもしれない。しかし、そのギャップこそがこのラストを生み出す元になるものだろう。ただ、第一部に比べ、ローミの話のボリュームが少々足りなかった気もするのだが……。 作者の他作品と比べ、荒削りの観が否めないが、その後に期待させる何かがあるし、何よりも勢いがある。言葉に関してここまで自覚的な作家が、昨今の濫発されている出版界の中では少ないことは嘆かわしいことである。しかしまた、その濫発されている本の山の中から、このような作家の作品が読めるのは嬉しい限りである。 『13』『沈黙』と読み、『アビシニアン』『アラビアの夜の種族』では良い意味でかなり期待を裏切られた。偉そうな言い方になるが、一読者として現在成長が非常に楽しみな作家の一人である。注目していきたい。逆に作者にはそれがプレッシャーとなるだろう。古川日出男的作品を待ち望みながらも、期待を裏切られることを暗に望む。その期待をどう裏切ってくれるか、注目していきたい。
(2002年8月1日更新)
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| 『沈黙/アビシニアン』古川日出男(角川文庫) |
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古川日出男は記録する。 第一部「獰猛な舌」は、仏が滅した二四八八年めの八月に大瀧鹿爾がビルマからシャムへと入るところから始まる。全部で370ページほどのこの物語は四部構成で成り立っている。その第一部はたかだか30ページしかない。しかしその30ページの中に確かにある、この密度。残りの三部に比べても劣らないだけの圧倒的な存在感がここにある。獰猛な舌と純然たる悪との会話にはそれだけの密度があり、濃度がある。その、圧倒的な存在感。圧倒的な密度。 古川日出男の作品は2003年8月現在5作出ている。それらは一見して全て作風が違うように見える。しかしそれは表面的な作風の問題であって、古川日出男が作品に書き綴っているそのコアは同じなのではないか。そう思う。 古川日出男は記録する。色を記録し、音を記録し、顔を記録し、物語を記録し、自分を記録する。記録されたものは過去となる。実際にその場にあったオリジナルを、最早そのオリジナルに触れられない形で記録するという行為は、オリジナルを過去のものにする行為だ。 しかし一方でまた、その記録そのものがオリジナルたりうる。コピーして作られた記録は、それ自体がまた他のものによって記録されうるオリジナルとなる。 第二部「カモフラージュ/モンタージュ」は第一部「獰猛な舌」から時間も空間も跳躍し、20世紀末のトウキョウを舞台に進んでゆく。冒頭、主人公が保健所を襲撃するシーンから話は進んでゆく。この保健所襲撃が後の『アビシニアン』へとまた違うストーリーへと続くわけだが、それはまた別の話。第二部は、幻の音楽【rookow】を追う物語だ。主人公は2人。薫子が語り、大瀧修一郎は語られる。そして――。 記録する一方、古川日出男は色をなくし、音をなくし、顔をなくし、物語をなくし、自分をなくそうとする。すべての「記録」をなくそうとする。 第三部「受肉する音楽」――第三部のコアとなる部分を書くことはできないため省略。 古川日出男作品の一つのコアとなるのは多分「記録」だ。そのコアを中心にして、古川日出男は「迷宮」を作り上げる。そう、古川日出男作品のキーワードの一つが「迷宮」だ。『アラビアの夜の種族』はそのものずばりの迷宮譚であるので顕著だが、他の作品においても実質的に「迷宮」そのものが出てこずとも、何らかの形で「迷宮」が出てきている。本書では薫子は【rookow】史という迷宮に足を踏み込み、ヤケルは闇という迷宮に足を踏み入れる。 ラストの第四部「ルコ」で物語は冒頭へと繰り返し、音楽が悪と対峙する。 本書『沈黙』初読の時、正直なところ第二部の印象が強過ぎて、第四部での悪との対峙は唐突に始まり尻すぼみに終わってしまった感じがしてしまった。これは『13』の初読時に、第一部の印象が強過ぎて、第二部はあまりにも軽い感じを受けてしまったのに似ている。しかし再読してみて、古川日出男はこれらの作品を別物として書いているのではないかなという考えが頭をよぎった。 『沈黙』という一冊の本の中で、第一部から第四部まで物語としては一連の流れがあるけれども、例えば、第二部のrookow史の部分と第四部の音楽が悪に対峙する部分とでは別のものとして書いているのではないか、と。構造が違うのではないか、と思ったのである。 そういえば『13』の場合は、ジャングルでの第一部と、ニューヨークでの第二部はストーリーの流れはあるけれども、別物として書いたのではないか。非常に濃密な世界を醸し出していた第一部に対して、全体的にポップになった第二部とはまったく雰囲気が違った。あたかもそれぞれが別の作品であるかのように。 それを読者にわからせるために、『沈黙』と『アビシニアン』という一見まったく違う作品だったものを文庫化するに際して合本にしたのではないだろうか。 『沈黙』と『アビシニアン』。片方は純然たる悪に関する物語でありもう一方は純粋な愛に関する物語であって、また、片方は音に関する物語であってもう一方は文字に関する物語であり、また、片方は非常に拡げられた時間と空間の中で語られる物語でありもう一方は限られた時間と空間の中での物語だった。まったく別のものが語られるこの二冊は、しかしある事件に端を発した同じ時間軸空間軸の物語でもあって――純粋さという面ではまったく同じ物語であったとも言えよう。 全く別の作品であるかのように見える『沈黙』と『アビシニアン』がその実、非常に近しい物語であるように、沈黙の中の第一部、第二部、第三部、第四部は非常に近しい物語であるかのように見えてその構造は全て違うように作られているのではないだろうか、と再読してようやく気付いた次第である。いやはや。 【rookow】という音楽をテーマとした本書であるが、タイトルは「沈黙」――。本書を読み終えてから、このタイトルから皆は何を考えるのだろうか、と思いながら再読し終えてみた。今後も折にふれて古川日出男作品は再読していくだろうと思う。 本書を薦めてくださったDragonさんに多謝。
(2003年8月18日更新)
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| 『アビシニアン』古川日出男(幻冬舎) |
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ああ、世界を爆破させるにはたった一つの単音節で十分だ。 なのに 今夜はそのたったひとつのことばのための場所さえない。
オクタビオ・パス(田村さと子訳)
本書『アビシニアン』は三部構成となっている。 > I 二〇〇一年、文盲 > II 無文字 > III 猫は八つの河を渡る 第一部「二〇〇一年、文盲」は、一匹の名前のない猫「アビシニアン」を追って森に入った少女「わたし」の物語だ。「わたし」は森に入り、森に生きる。無人島のような聖域で。そして、「わたし」がほんとうのことばを識るまでの物語。その物語が語られる。 第二部「無文字」の主人公は、大学生「ぼく」の物語だ。大学の語学専攻でいっしょになった級友たちに連れられて行ったダイニング・バーで、「ぼく」は彼女を知る。そのダイニング・バーの経営者「マユコさん」の「妹」である彼女。「ぼく」は、文字非所有者である彼女に、自分が書いているシナリオ「顔のない少年の物語」を語って聞かせる。 そして、最終部である第三部「猫は八つの河を渡る」では、また「わたし」の視点へと戻る。「わたし」が「ぼく」に語る物語は、「わたし」が森を出た後の物語であり、名前のない「わたし」と「『わたし』の姉となる人」との出会いを描いた物語であり、「わたし」に名前がつけられるまでの物語であり、その「わたし」の姉の物語でもあり、「ぼく」に出会う物語である。 本書『アビシニアン』は恋愛小説である。「ぼく」と「わたし」の不思議な恋愛小説。「純粋」な恋愛小説。とても薄い作品、原稿用紙404枚、というひどく短い長編であるにもかかわらず、読み終わるのにひどく時間がかかったのを憶えている。読了後、どこか遠いところへ連れて行ってもらった感覚が残った。 古川日出男の作品を読むとふと思うことなのだが、作者は非常に純粋な人なのだろうな、と思う。特に本書『アビシニアン』ではそれが顕著だ。そういう意味では、非常に読者を選ぶ作品だと思う。受け付けない人もいるだろう。 本書『アビシニアン』は、言語化され得ないものを言語化した作品だ。文字が失われていくことを文字によって書き起こしていく。 古川日出男はそのデビュー作『13』では色彩に関しての物語を語り、皆川博子に絶賛され世に出た『沈黙』では「音」に関しての物語を語った。そして、本書では「ことば」に関しての物語が書かれた。古川日出男は一体何処へ向かっているのだろう。 本書『アビシニアン』は、変容の物語である。「ぼく」と「わたし」、そして「わたし」の姉となる「マユコさん」の変容の物語。そして再生の物語。 本書『アビシニアン』は猫を描いた物語である。猫を追って森に入った少女は、猫になって森から出て行く。しかも、装丁がこれまたいい。猫好きにはたまらない。いや、私は猫好きじゃないんだけど。 しかし。 だがしかし、本書『アビシニアン』では物語は一切語られていない。壮大な物語を予感させながらも、その序章となるところ、物語への入り口の一歩手前で本書の物語は終えられている。 「ことば」が好きで猫が好きで恋愛小説が好きで、古川日出男の小説が好きな方は是非。
(2002年8月1日更新)
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| 『アラビアの夜の種族』古川日出男(角川書店) |
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『アラビアの夜の種族』というタイトルの本がつまらないわけがないではないか。 ということで、読み始めた本書は予想通り、予想を裏切ってくれた。古川日出男らしい作品と言えば、非常に古川日出男らしい作品であるし、しかし、その一方で、古川日出男がこのような作品を上梓してくれる、とは思いもしなかった。 物語を語るのは語り部の役割だ。だから、『アラビアの夜の種族』に関してはどんな書評・どんな感想を読むよりも、その本を読んでほしい。その物語に耳を傾けて欲しい。だから、ここに、私はどう読んだとかどう思ったとか書くのはやめておこう。物語を紹介するにとどめよう。 時は聖遷暦1213年、舞台はカイロから、物語は始まる。ナポレオン率いるフランス軍がカイロに迫った時、アイユーブはイスマーイール・ベイに、フランス軍に贈り物をして撤兵させるよう、進言する。 > 「――ひとことで説けば、これは稀代の物語集でした。 > 古今東西における、もっとも稀代の。 > またとない玄妙脅威の内容を備えた一冊であったのです。 > さながら魔術的な媒体の書物でした」 > > (中略) > > 「その書物には名前はないのか?」とアイユーブにたずねる。 > 「正式な題号は、残念ながら」とアイユーブ。 > 「その書名が記載された公文書、あるいは史書や年代記はございません。 > これは公式の歴史ではありませぬので。 > しかし、非公式の歴史においては、 > これは一部の年代記編者らの一門や賢者たちの師資相承、 > 組合に属さぬ物語り師たちの口伝などによって、 > ふさわしい名をあたえられております。 > すなわち『災厄の書』です」 > 「『災厄の書』――」 > > (中略) > > 「――美しい一冊が、時、至れば敵将軍に献上され、 > これはだれの目にもとまらぬ刺客、不可視の暗殺者となって、 > カイロに攻めいろうとする異教徒の愚者どもを滅ぼすでしょう」 > あきらかにほほえんでアイユーブはいい添えた。 > > 「軍勢を破滅させるのです」 > > (中略) > > 「ズームルッド……」とアイユーブは感に堪えないように漏らす。 > 「……夜の種族よ、語り部よ」 > 「あなたもです」ズームルッドがいう。 > 「わたしも?」 > 「あなたも夜の人間です」 > 「そうなのか?」 > アイユーブは純粋なまでに愉しげだった。 > > では、はじめましょう。ビスミッラー。 > 奔放な空想はご所望ですか? ――この後、アーダムによる武勇譚であり奇奇怪怪な幻想譚であり史譚でもあり、悪徳のすすめとなる無道の寓話ともなる話が語られ、古今東西でも屈指の、稀代の迷宮譚である『美しい二人の拾い子ファラーとサフィアーンの物語』が語られることになる。粗筋を知ってもらうために断片的に引用させてもらったが、この作品は引用したいところだらけだ。前述した部分も、六百ページを超えるこの物語の五十ページもいかない部分の引用に過ぎないし、目の留まったところの引用でしかない。 さあ、このあたりで道化は姿を消すことにしよう。これほどまでの物語の前に道化は不要だ。必要なのは語り部の語りと、聞き手の想像力だけだ。 そう、最後に一つだけ忠告したい。本書を読まれる前に出来るだけたくさん本を読んでおくことだ。筆者はこれを読んだ後、あまり本が読めなくなった。これ以上に満足できる物語は中々見つからない。
(2002年8月1日更新)
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| 『中国行きのスロウ・ボート RMX』古川日出男(角川書店) |
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村上春樹の短編で「中国行きのスロウ・ボート」というのがある。 いや、正確に言うと、村上春樹がそういう題の短編を書き、 同じタイトルの短編集を中公文庫から出している、 いうことを先日僕は知り、今日僕はそれを買ってきた。 買ってきて読んだ。 一体それをどうして知ったかと言うと、 ちょっと前の本の情報誌「ダ・ヴィンチ」で村上春樹特集が組まれた時に、 古川日出男がレビューを書いていたのを読んだのが最初だったと思う。 この古川日出男という作家は今僕が好きな作家の一人だ。 フィジカルな言葉を扱う作家の一人だと思う。 その古川日出男のインタビューを読むと、 村上春樹の名前が出てくることがけっこうある。 古川日出男は村上春樹の影響をとても受けたんだそうだ。 しかしそれがどのくらいの影響だったかと言うと、 村上春樹の作品をモチーフとして若手作家がリライトする、 「トリビュート小説集」を作ろうと企むくらいの影響だったようで、 先日、村上春樹トリビュート作品が一気に四作刊行された。 その中の一冊が、村上春樹「中国行きのスロウ・ボート」に対しての、 古川日出男「中国行きのスロウ・ボート RMX」だったってわけだ。 さてここからは「中国行きのスロウ・ボート」と 『中国行きのスロウボート RMX』をきっと読む!というヒトは なるべく読まない方がいいかもしれない蛇足だ。 読まないヒトにとってはもっと蛇足になるかもしれない。 まあ僕にとっては蛇足ではないことなんだけど他のヒトには蛇足になる。 物事ってそんなもんだと思う。 古川日出男ファンが読むのだから「RMX」が先だろう、 と先に「RMX」を読み終える。 うん、いいね。 いい。 村上春樹をトリビュートしながらも、 今までで一番、古川日出男らしさが出ている作品だと思う。 いや、トリビュートしたから、かな。 まあ、そこの違いはあんまりないようで、確かにあるような。 果たしてどっちだろう。 > 僕は徹底的にリアルさを追及しなければいけない。 > 僕にとってのリアルを、だ。 リアルさを追及した結果、 今までで一番古川日出男らしい、 いやそれは古川日出男そのものなのかもしれないし ただ僕がそう感じているだけかもしれないが、 でもやはり“古川日出男”が作品になっている、 そういう作品に仕上がっている。 これは主人公「僕」の物語だ(当たり前だ、主人公は僕に決まっている)。 これは「僕」が三度トウキョウを脱出しようとする物語、 それと同時に、三度脱出に失敗する物語。 そしてこれは「僕」が三人の女性と出会う物語、 それと同時に、三人の女性を失う物語。 「僕」は明らかに作者だ。 これは古川日出男が「僕」であるのか「作者」であるのかは関係なくて、 「僕」が主人公となる、この物語の作者は「僕」そのものなのだと思う。 作者が「僕」と同じ体験をしたかどうかは知らない。 でも、作者が書き出していった自分が「僕」になっているのだと思う。 「僕」は三度トウキョウを脱出しようとし、三度世界に阻まれる。 そしてラスト――まあどんな物語であってもどんな結末であっても、 それは物語を読んだヒトだけのものだと思う。 結末を言うのは控えよう。 というわけで、これが「RMX」だ。 「中国行きのスロウ・ボート」のリミックス。 リミックスはこれなんだ。じゃあ、オリジナルは――? 村上春樹が書いた「中国行きのスロウ・ボート」は 「僕」が三人の中国人に出会う物語。 三人の中国人と出会い、別れ、「僕」は思う。 中国人たちと出会い、気付かされる物語だ。 中国人たちは「――――」と思うと言う。 そして「僕」は「――――」だと思う。 しかし、中国はあまりに遠い。 上記の中国人と僕が思った「――――」に何が入るのかは 是非「中国行きのスロウ・ボート」を当たってみて欲しい。 本短編を読むと、 村上春樹が古びておらず、 今でもまだ多くの若者たちの共感を得ているのがよくわかる。 いや多分、村上春樹が好きなヒトたちに 共感を持っているかとか聞くと、 多くのヒトは否定するんじゃないかと思う。 それは僕も否定する。 僕は否定しよう。 でも、うーん、なんかいい、のだ。 まあ、ラスト一文で胸の奥に何かくるものが あるかどうかってことだと思う。 いや違うかもしれないけど。 でもこれがオリジナルだったのか――? 古川日出男の「RMX」を読んでいると、 「中国行きのスロウ・ボート」なるものは実は "on a slow boat to china"なる曲の日本語名であるということが出てくる。 Sonny Rollins というヒトが演奏したCDが作中に出てくるのだ。 Sonny Rollins ってヒトを私は知らないのだけど、有名なヒトらしい。 そしてこの"on a slow boat to china"も Sonny Rollins が演奏して以来、 様々な歌手が演奏している。らしい。 じゃあこれがオリジナルなのか――? でも、"on a slow boat to china"という曲を作ったのは Frank Loesser というヒトなんだそうだ。 作詞・作曲 Frank Loesser。 こんな歌詞。 > I'd love to get you > On a slow boat to China, > All to myself alone. > Get you to keep you in my arms evermore, > Leave all your lovers (lovelies) > Weeping on the faraway shore. > > Out on the briny > With the moon big and shiny, > Melting your heart of stone. > I'd love to get you > On a slow boat to China, > All to myself alone. こんな曲。 http://www.rienzihills.com/SING/onaslowboattochina.htm で、 大体こんな訳になるらしい。 > 君と中国行きの船に乗って長い旅をすれば > きっと君の心は私に向くだろうけどね。 > でもそれは夢の中でのお話 > > http://jazzvocal.tripod.co.jp/reportF/report2.html 12月21日参照 当時のアメリカから見た中国はもうむちゃくちゃ遠くて 中国行きの船に乗っての旅ってのはむちゃくちゃ時間がかかる っていうイメージがあったんだとか。 古川日出男は、この Frank loesser の"on a slow boat to china"を 村上春樹がトリビュートした「中国行きのスロウ・ボート」を トリビュートした「中国行きのスロウ・ボート RMX」を書いたってわけだ。 この曲をあんな風にトリビュートの仕方をした村上春樹もすごいけど、 そんな作品をあのようにトリビュートした 古川日出男もすごいんじゃないかなと思う。 少なくとも僕はそう思う。 ところで―― 「オリジナル」って何だろう――?
(2003年7月21日更新)
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| 『サウンドトラック』古川日出男(集英社) |
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古川日出男はトーキョーを幻視する。 読み始めてすぐに思う。これは何だ。これは一体何だ。古川日出男の作品だ。そう、一番新しい古川日出男の作品のはずだ。しかし――いや、だからこそ、か?――いったいこれは何なんだ。 サバイバル技術を父親に叩き込まれた少年が荒天による高波で父親を失い、同時に絶対的な音楽の死を経験するパートから始まる。そして嵐の海の中、母親に無理心中させられた少女が奇跡的に助かり無人島に流れ着く。少年と少女は無人島で邂逅する。東京の遥か南、東京で。 一体これは何だ何だ。古川は一体何を始めるつもりなんだ。 そして、無人島で少年と少女が邂逅し成長していく一方、神楽坂/レバノンを拠点に少年/少女が活動する。生き延びるために。しかし、ある一つの事件を境に少年/少女は生き延びるため、ではなく闘うために活動する。行動を起こす。銃を手に取り、shootする。少年/少女は映像によって闘う。 書物との出会い、作家との出会いは、往々にして一期一会のものであって、多分ある一つの時期を逃すとよほどの僥倖がない限り、生涯で出逢える可能性は非常に低くなるのではないかなと思う。一体いつ、どの時点で出逢えるかは個々人のもつ偶然性に依拠するけれど、しかしきっとそれはある時期に手にとるか取らないか、一度きりのものなんじゃないだろうか。なんて思う。 古川日出男の作品に出会うヒトは、もしかしたら十年後、二十年後にもいるのかもしれない。多分、きっと、いるだろう。まあ、そんな未来のことは誰にもわからないけれど。でも私は今、20世紀が終わる直前に古川日出男に出会い、21世紀が始まった今、古川日出男の作品が出た今、それを読んでいる。読んでみる。 古川日出男は、現在、たった今、この一瞬にある、トーキョーを幻視する。『サウンドトラック』の作品世界は2009年のものだが、しかしこのトーキョーの姿は古川日出男にとってはきっと未来のトーキョーではなく、今のトーキョーなのではないだろうかと読みながら思う。古川は、今のトーキョーをフィジカルに書き出していく。鮮明に、克明に古川自身の中にあるリアルなトーキョーの姿を書き出していく。トーキョーの地図を、むせかえすような空気と雑然と群立したビルの谷間に住まうヒトビトを、スピード感溢れる描写で克明に書き出していく。それは多分きっと古川の目に映る、古川が幻視するトーキョーなのだろう。そう思う。スピード感溢れる文章で、古川は自分が幻視するトーキョーを再構築していく。加速する。 そして古川は、自分で再構築したトーキョーを自ら破壊していく。構築の速度を増すスピードで。加速する破壊。神楽坂を破壊し、西荻窪を破壊し、首都高を破壊し、明治神宮を破壊し、東京を破壊する。破壊はスピードを増していく。しかし一方で、破壊されたトーキョーは新たなトーキョーの姿でもあり、それはトーキョーを再構築することに繋がる。破壊と再構築が再加速される。 2003年にトーキョーの構築と破壊と再構築とをリアルタイムで行なっていく古川日出男と同じ時間に同じ世界で共有できるのは、それが発行された2003年9月5日のトーキョーを生きる者として幸せなことなのか憂うべきことなのかはわからない。ただ、古川日出男が今此処に、21世紀ニッポンの我々の眼前に、世界を現出していく限り古川日出男の作品を読んでいきたいと思う。古川日出男が幻視するこのトーキョーを、まだまだもっと、読んでみたい。古川日出男が切り取った【今、此処にあるトーキョー】を。
(2003年9月7日更新)
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| 『gift』古川日出男(集英社) |
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> 太陰文月七日 > ぼくは都会を脱出する ここでちょっとフルカワヒデオの話をしよう。日本の作家だ。日本語で小説を書く、作家。彼は物語を語る。妖精の足跡を捕えようとする男の物語を彼は語る。雨の中で踊る少女の物語を彼は語る。観覧車が独立国家となる変遷を綴った物語を彼は語る。――数多の物語を、彼は語る。 > 疑いなく 一つの狂気詩篇が我々を襲っている 本書は類稀なる現代の語り部フルカワヒデオの傑作掌編集だ。そう、フルカワヒデオはまさに現代の作家だ。今/此処を生きて、今/此処を描写する。もちろん、彼はいろいろな物語を語る。歴史を語るかもしれないし、近未来について語るかもしれない。しかし、フルカワヒデオのスタンスは常に今/此処にある。その立ち位置は、ぶれない。その視線は、常に揺らぎ続け、まったくぶれない。 > 映画館ハ古代ノ静寂ヲ保存スル フルカワヒデオは強烈に保存する。強烈に今/此処に在り続ける、鮮烈な――存在そのもの、行為そのもの、想いそのものを、保存する。言語で、日本語で。都市で廃墟で砂漠で山の中で街の中でベトナム・レストランで世界の至る処で彼は保存する。現実を幻視し語ることにより、保存する。アンリアルの中にあるリアルを語り、リアルの中にあるアンリアルを語る。それは正確で明確で簡潔にして明瞭だ。だって視たままを語ればよいのだから。――でも、「視たままを語る」ことができるヒトっていったいどのくらいいるのだろう。 > おお 狂気は永遠にひた走る、 > 文明にあとおしされて、 > 笑いながら、 > 泣きながら フルカワヒデオの強烈さは強烈だ。強烈にして強烈。どうしてここまで強烈なんだろう。どの作品もドラスティックでラジカル、スピリチュアルにしてフィジカル。なんだろう、なんて言えばいいんだろう、これを。ああ、自分にもボキャブラリィがあれば。――いや、ボキャブラリィがあれば今の自分がフルカワヒデオの作品に対しての感想が書けるんだろうか。他にもまだ、足りない。まだまだ足りない。フルカワヒデオの作品に対抗するためには、ぼくにはまだまだ何かが足りない。足りない。ぼくはまだ語れない。 > ぼくは夢の中で夢をみる。 フルカワヒデオは祈る。 祈り、語る。 ぼくはただ、それを聞く。 フルカワヒデオが語り続けるその物語を。 今、此処で。 聞く。 そして。 物語を聞き終えたら、祈ろう。 物語を、祈ろう。
(以上、引用は全て吉増剛造の詩から)
(2003年11月10日更新)
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| 『ベルカ、吠えないのか?』古川日出男(文藝春秋) |
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これはイヌたちの物語。 イヌを中心に据えた視点から語られる、第二次世界大戦以後の世界。日本ではいわゆる戦後と呼ばれる時代の話。でもそれはイヌからすれば戦後などではない。これは戦争の話だ。イヌたちの、戦争の話。本書ではイヌによる戦史が語られる。第二次世界大戦から始まり、冷戦、ベトナム戦争、朝鮮戦争、アフガン戦争、湾岸戦争――ヒトたちが20世紀に起こした戦争にイヌたちは従事する。これはイヌによる戦史――ただしその戦争はヒトによって起こされた。だから21世紀になってイヌたちは宣戦布告する。イヌたちは、彼ら自身の戦争を起こす。21世紀に対して、宣戦布告をする。うぉん、うぉん、うぉん。 フルカワヒデオは徹底的に再構築する。ヒトによる20世紀を徹底的に解体し、イヌによる20世紀へと徹底的に再構築する。ヒトによる20世紀をイヌ紀元へと再構築する作業を、徹底的に。20世紀は戦争の世紀であるとともに、イヌによる時代の始まりを告げる世紀でもある。それはライカ――ヒトに先駆け宇宙へと旅立ったイヌにより告げられる。ライカは吠えた。うぉん、うぉん、うぉん。そのイヌの声は宇宙に響き地球に届く。イヌよ、イヌよ、イヌたちよ。我らが戦争を起こせ興せ熾せ。うぉん、うぉん、うぉん。 フルカワヒデオの作品は宣戦布告ものが多い。時代に対して世界に対して社会に対して自身に対して、彼らは宣戦布告する。宣戦布告をし、彼らの物語はそこから始まる。始まる、はずだ。しかし本自体はそこで終わる。それは、その後の物語はまだ語られていないからだ。未だ来ぬ出来事は語れない。それを語るのはフルカワヒデオの役割ではない。彼は現代の語り部だからだ。では、次の語り部は――? イヌよ、イヌよ。我が同胞たるイヌたちよ。さあ、ヒトの時代は終わった。古川日出男は語り終えた。次はお前たちが語る番だ。お前たちの言葉で。さあ。 うぉん、うぉん、うぉん。
(2005年4月25日更新)
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