花田一三六

「花田一三六の復活に」

 熱い。

 一読してそう思った。この作者は熱い。何かが熱い。それがいったい何なのかはわからないが、この作者――花田一三六は信念を持ってその何かを書いている。そうに違いない。そう思った。

 初めて意識してファンタジーを読もうと思ったのは高校1年の時だった。当時は、バーナビー・ロス『Yの悲劇』からミステリを読んでいる真っ最中だったのだが、そろそろ他のジャンルにも手を出してみよう、そう思ったのがきっかけだった。ちょうど友人にライトノベルで何か面白いものはないかと薦めてもらった高畑京一郎の『タイム・リープ』がかなり面白かったので、『タイム・リープ』と同じ版型の『八の弓、死鳥の矢』を図書館で見つけた瞬間に手に取っていた。
 表紙には米田仁士の絵で鎧かぶとに身を包んだ剣士、これは多分ファンタジーだろうと思って借りて読み始めた。

 そこで手にとった『八の弓、死鳥の矢』は、「大陸シリーズ」と呼ばれる架空歴史ファンタジーのシリーズ第一作の短編集だった。架空歴史ファンタジー。架空の「大陸」を舞台に、そこに生きる人々の群像劇を描いたファンタジーだ。

 熱い。

 そう思ったのには理由がある。オムニバス形式で描かれた各短編はプロットもしっかりしていて、淡々とした筆致はそのストーリーに非常に好ましいものになっている。一作に含まれている一つひとつの挿話それ自体がまた別の物語として一本の小説を書けるんだろうなと思わせるもので、作者の窺い知れぬ力量を見せつけている。しかし、当時の私が熱いと思ったのはそこがメインではない。この「歴史」からは、その地に生きる人々の息吹が感じられる――。
 「大陸シリーズ」は「大陸」の歴史を後代に生きる「作者」が振り返り、物語を掘り起こしていく形をとった作品である。そして、この「大陸」の設定は、面積、人口密度、気候、宗教、言語、農業、工業、身分階級――ストーリーには直接出てこない部分にまで及んでいるのだろう、読んでいてそれがわかる。その「大陸」に生きる上で、その地に住む人々はどのような人生観を持ち、哲学観をもつであろうか。それらが考えられた上でその地に住む人々がその立場によってどのように考え、何を悩み、憂うのか――。

 もちろん、デビュー作であるからこその粗削りな部分や、影響を受けている部分がはっきりと出ている、がそれは多少の瑕に過ぎない。熱い。花田一三六は熱い。それで十分だろう。 

 今後この作家の後を追うことにしようと決めたのは読み終えてすぐのことだった。「大陸シリーズ」は結局3冊刊行され、やはり花田一三六はいいなあと思っていた――しかし、99年に4作目を出してから、ぱったりと花田一三六の名前を聞かなくなってしまう。それ以後毎月、新刊情報が出るたびに目をさらにして花田一三六の名前を探したものの、まったく見つからない。他の仕事に就いてしまって忙しくて書けないのだろうか――そう諦めた頃、インターネットで作者のサイトを見つけた。仕事の進捗状況だけが載っている非常に簡素なサイトだった。このシンプルさは花田一三六らしいなあと思って覗いたそこには、新刊を書いている旨が載っているではないか。毎日毎日少しずつ進んでいく原稿の進み具合に、新刊はまだかまだかと待ち続ける日々がしばらく続いた。しかしそれは以前のように花田一三六が執筆活動をしているのかどうかわからない日々とは違い、確実に新刊が出るという仮定の上でのカウントダウンだった。

 結局、最後の新刊から4年半。2003年9月25日、中央公論新社のC・NOVELS FANTASIAから『黎明の双星 1』が刊行される。

 期待で弾む気持ちを抑えながら、新刊を開く。

 > 男は、俳優であった。

 ――花田一三六のファンにしかわからないと思う。が、多分花田一三六の新刊を待ち続けた皆が同じ思いを胸にしたと思う。――ああ、花田一三六の文章だ。

 淡々と、そして飄々としている、花田一三六の独特な文章と言い回し。緻密な作品世界の構築と、そこに生きる人々たち。語られる物語は決して突飛なものではないにもかかわらず、その雰囲気は非常に独特な印象をもっていて。

 正直なところ、今の私には『黎明の双星 1』を客観的に評価することができない。世間では本書が面白いのか面白くないのかがよくわからない。多分、再読、いや三読か四読すればわかるかもしれないのだけれど、今は全然わからない。そういうわけで、本書を絶賛してみたり誰かに薦めてみたりはできない。
 ただ、

 今はもう、花田一三六復活を心から喜びたい。

 そして今後、隔月で出されていく2、3巻を心待ちにしたいと思う。

 花田一三六、万歳。

(2003年9月25日更新)

離れ茶房<書斎>へ