伊井直行


『濁った激流にかかる橋』伊井直行(講談社)

> もちろんその拍手が、橋を征服した伝令に与えられる報奨のすべてだったのである。


 激流に分断された街。
 街は激流によって右岸と左岸とに分断され、そこにただ一つ架けられた巨大な橋により辛うじて繋がれている。度重なる増水と幾多の洪水、その度に右岸と左岸の堤防は大きくなり、右岸と左岸との距離は次第に遠くなっていく。人々は激流に対抗しうるために増改築を繰り返し、橋はその都度巨大化し複雑化していく。
 濁った激流により右岸と左岸とに分かたれた街――そこには橋が架けられている。人々がその激流に対抗しうるために生み出した、たった一つの手段である異形な橋が。

 ――ダメだ。この設定だけでもうダメだ。やられてしまう。クラクラとやられてしまった。しかもこれが舞台背景でしかなく、なおかつ背景でしかありえないこの設定こそがこの小説の中心に据えられているだなんて。ダメだ。もうダメだ。やられた。してやられた。伊井直行にしてやられてしまった。こんな設定を思いついてしまう伊井直行はスゴイ。そして思いつくだけでなくその小説が書けてしまうからもっとスゴイ。

 激流に分断された街では、様々な人々が様々な生活を送っている。右岸と左岸、山手と下町。右岸と左岸を人々は行き来し、いがみ合い愛し合う。激流によって分断された街に生きる人々の何とも現実的で何とも非現実的な生活を、様々な文体によって織り成された九篇の短編の中に多層的多重的多声的に織り込んでいく。分断された街に住む人々は九篇の短編の中であちらこちらに顔を出し、その関係性は読み進めていく内に勢いを増す。あの人は先の短編に出てきたこの人で、あの場面に出てきたのはあの人の親戚で、そういえばこの人は前の短編に端役で出てきたような――濁った激流のようなこの群像劇の中で人々と街とを繋ぐのは一つの橋だ。人々は多種多様なその九篇の短編の中で、激流に押し流され、橋によって繋がれ、そして六十年に一度の大逆流とともに一気に迸る。

 ――そう、伊井直行の巧さは設定だけではない。典型的なキャラクタとして作りつつも型にハマりきらないキャラクタの造形、そしてどこか懐かしくどこにもありえない地方都市の形成、九篇の短編をそれぞれ様々なジャンルから成り立たせるための多種多様な語り。それらの要素が交差し絡み合い、街を立体的に浮かび上がらせていく。立体的に、ホログラフの街が浮かび上がる。それは目には見えるものの掴みどころがなく、あやふやだ。
 どこか懐かしい架空地方都市を作り出し、その架空の街で生まれ育ったヒトビトが織り成すドラマを描き出していく巧みさには舌を巻いてしまう。あくまでもホログラフ的な、あやふやな部分をあやふやなままにして掴みどころがないこの群像劇を、おもしろく提示できる伊井直行は巧い。伊井直行はスゴく、巧い。

 まあ、そんなことはいい。そんなことはどうでもいい。「濁った激流にかかる橋」というタイトルにさえ惹かれれば、それでもういい。後は読むだけだ。そして濁った激流に対抗できるか、橋を征服できるか、はたまた大逆流に飲み込まれてしまうのか。それはあなた次第だ。

 私は飲み込まれてしまった。

(2004年12月24日更新)

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