小林恭二


『ゼウスガーデン衰亡史』小林恭二(ハルキ文庫)

 【工事中】
 荒唐無稽。
 多分、フィクションの面白さの一つの規準は、荒唐無稽さ、だと思う。
 そして多分、本書はその荒唐無稽さのある一つの頂点へと向かった作品だと思う。
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『半島記・群島記』小林恭二(新潮社)

 いやはやこれだから小林恭二の作品は感想に困る。恋愛小説ということでもきるし、「自分」探しということもできるし、『ゼウスガーデン衰亡史』外伝ということもできるし、いやまあどれにしたって小林恭二。はちゃめちゃな作品であることは間違いないのだけれども。

 まず「半島記」で出てくるおっさん、藤島宙也が述べていることを引用してから話を始めることにしよう。

 「半島っていうのは、言ってみれば『半世界』なのだ。そこが、なんとも言えず面白い――たとえば島は『世界』だ。島にあっては、すべての因果律が完結しうる。それに大して大陸は『カオス』。大陸にあっては、ものごとは永遠に完結することはない。なぜなら常に新しい要素がどこかで発生し、古く安定した要素を駆逐しようとするから――」

 『半島記・群島記』と名付けられたこの作品において、「島」と「大陸」、そして「半島」に関してはそう定義付けしているが、作者は「群島」に関しての定義付けはしていない。「群島」は「島」であり、その「島」ではすべての因果律が完結しうるのかもしれない。しかしまた一方では群島は、個々の「島」は因果律が完結しているのかもしれないが、相互から見れば新しい要素がどこかで発生し、ものごとが完結していない、と見ることもでき、そういう意味においては準「大陸」と考えることもできうるかもしれない。はたして「群島」は「島」と「大陸」のどちらなのか。

 「半島記」において自然発生するその問いについての作者なりの回答が「群島記」なのではないだろうか。個々では完結している綿ノ島群島に対しての新しい要素は、主に「侵略者」たちである。明国、日本国、アメリカ国、大遊戯場ゼウスガーデン、犯罪結社ダイヤモンド・ファクトリー、そしてトンビ率いる宗団。これらの新しい要素が、綿ノ島群島をカオスに陥れる。「カオス」はまた新しい要素を生み出し、綿ノ島群島はあたかも「大陸」のようにものごとが完結することはないかのように思われる。
 しかし、物語半ばで出てくる「野球島」が前述の問いの鍵となる。生まれつき「自分がない」人々が暮らすこの島はあくまでもこの島内においてのみすべての因果律が完結する。しかし、そこに他所からの「侵略者」であるトンビたちが介入することにより、その因果律も崩れてしまう。ただし、その因果律が崩れるのは「野球島」島内だけの話であり、ここでトンビが出会う少女ウムヤーグヮーの登場とにより、物語及び綿ノ島群島は収束していくことになる。
 つまり、群島では外界からの新しい要素が介入することにより物事が完結しないように思われるが、その新しい要素を逆に群島は取り込んでしまい、その因果律を全て群島内においてしまい、群島内において完結させてしまうのである。物語のラストにおいて、ダイヤモンド・ファクトリーならびに宗団、ひいては綿ノ島群島全域を、綿ノ島群島においてもっとも完結している島「野球島」出身のウムヤーグヮーが支配することを予想させつつ終わることによりそれを匂わせている。結局のところ、群島は新しい要素を取り込み物事を完結させることはないが群島内において因果律は完結する、という「半世界」であったのではないだろうか。

 簡単に本書の題名『半島記・群島記』に関して書いてみたものの、本書は多層的であるため問いは先述の1つだけではないし、その問いに対する回答も複数個あるだろう。トンビの「愛」に関する問題篇が「半島記」回答篇が「群島記」と考えることもできうるし、「自分がない」事に関する問題・回答として読むこともできるというか多分本当はこちらがメインなのだけれどもそう読むこともできうるし、あくまでもゼウスガーデン衰亡史の外伝と読んでしまっても良いだろうし、もっと他の読み方があるのかもしれない。
 しかし、そこは小林恭二の作品であって、何と言ってもあとがきがひどい。作者はどれほど記憶力がないか、ということを強調して終わる。これはひどい。今、小林恭二に対して、『半島記・群島記』のことを聞いても、韜晦されて終わってしまうのではなかろうか。今、というよりも出版された当時でも。物語の作者が取る姿勢の一つであることはわかるつもりだが、何とも悔しい気持ちでいっぱいである。しかしまあ、これだから小林恭二の作品を読むのはやめられない。

 ということで、『ゼウスガーデン衰亡史』(ハルキ文庫)を読んでいると一段と楽しめる本なので、是非とも『ゼウスガーデン衰亡史』を読んで頂きたい。いや、先に本書『半島記・群島記』を読んでも問題ないのだけれども。いやしかし、『ゼウスガーデン衰亡史』は読んどけ。これほどの作品読まずに死ぬのは勿体無い。読んどけ。開眼しとけ。

 ちなみに、ハルキ文庫版の『ゼウスガーデン衰亡史』についていた「ゼウスガーデンの秋」は「後・ゼウスガーデン衰亡史」という感じだったけれども、本書の「群島記」は「ゼウスガーデン衰亡史・外伝」といった感じ。読めばわかる。

(2002年9月15日更新)
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『瓶の中の旅愁 小説の説く移転をめぐるマカロニ法師の巡礼』小林恭二(福武文庫)

 > この物語の主人公はわしだけだ。この世界はわしだけの世界なのだ。


 小林恭二は別格の人なので、語り始めるとすごく長くなるっていうか、実は前に一度『ゼウスガーデン衰亡史』の感想を書こうとしたことがあるのだけれども、あれよあれよという間に小林恭二論のようなものになりはじめてしまい、A4で5枚を超えたところで収拾がつかないことに気付き、それ以来たまに思い出した時にそのデータを開いてはちょこちょこと手直しをしたり大幅に削ったり付け加えたりするものの全然収まらなくて何がいけないんかなあやっぱりテーマ決めずに書き始めたのがいかんかったかなあと思いながらも結局ひとまずしまっとこ、としまっておいてほったらかしにしてしまい、一体あれはいつになったら書きあがるんだろうと思いながらも今日に至ってしまったりするわけなのだ。今現在、A4で7枚。まだまだ終わりそうにない。

 そんなことだから、今回も『瓶の中の旅愁』について書き始めたらそうなるだろうなと思ったら予想に違わずやっぱり収拾がつかなくなってしまいひとまずいっぺん全部消してもう一度書き直していたりする。

 一応は、卒業するまでには小林恭二の諸作品とは一度決着をつけておきたいのだけれども、まあ今はそこまで時間に余裕がないので、そんなこんなでとりあえず何となくな感想を書いてみることにした。いやまあ、ここにアップされている感想ってどれもこれも「何となくな感想」に当たるわけなのだけれども。

 しかしまあ、こんなことから書き始めるから長くなるのはわかっているものの、やはりここは書いとかないといけないと思うからちょこっとだけ書かせてもらうと、小林恭二にはひとまず、「初期・小林恭二」ってのがある。まあ、その後、「中期・小林恭二」「後期・小林恭二」「真・小林恭二」「小林恭二 ]-2」「またまた小林恭二」「やっぱり小林恭二」「さっぱり小林恭二」と続くのかどうかは定かではないのだけれども、「初期」ないし「第一期」ってのがあるのは確かで、本書『瓶の中の旅愁』は作者の意図はどうだったかわからないけれども客観的に見れば、第一期を締めくくる作品になったのだと思う。より正確に表現すると、締めくくる作品になっているんじゃないかなあと思う。いや、自分の思っているところをより正確にはっきりと言い切ってしまうならば、締めくくる作品になっているのかもしれないないやなっているといいなこれで間違いだったら恥ずかしいからなっていてほしいな、と思う。

 一体どう締めくくっているかと言うと、小林恭二の初期作品は、一言で表現するならば「言語化」に関する物語を書いていたと思うのである。もちろん、小説なんてものは言語でないものを言語にする作業とも言えるだろうから、小説家は皆が皆言語化について書いているとも言えようが、初期小林恭二は言語化に関して特に意識しながら物語を紡いでっている節があったのではないか、と思うのだ。
 『ゼウスガーデン衰亡史』が最たる例で、「快楽」のアミューズメントパークであるゼウスガーデンでの出来事を通して書かれた『ゼウスガーデン衰亡史』では、「快楽の具現」が主題となって書かれていると思うのだけれども、しかし結局「快楽」の言語化は不可能である、快楽を言語化してしまった時点でそれは単なる言葉に陥ってしまい、「快楽」そのものを表現するものではなくなってしまう、と大体まあ、そんなことが書かれていた。のだと思う。多分。っていうか、あの作品最初に読んだ時はとりあえずすっげーよこれすっげーよなんかよくわかんないけどすっげーよっていう感想しか持てなかったんだけど、後で読み返している内にそんなことが書かれているんかなと思うようになった、という程度の話なんだけど。他の初期の作品、例えば『小説伝』やら『電話男』なんかにもそういうのが見えると思っているわけなのだけれどもそれも書いてたらどうしようもなくなるっていうか『瓶の中の旅愁』の話にたどり着くのが大変なので省略させてもらうことにして。

 さて、本書『瓶の中の旅愁』はどうだったのかと言うと、物語における言語について書こうとしたらしい。正確に書くと「物語について」と「物語における言語について」を書こうとしているような気がする、のだ。物語を言語化するとはどういうことなのかを考えるために、主人公マカロニ法師を登場させて、「最高の言葉」を求めさせ様々な国を訪れさせて、ドタバタ騒ぎを起こさせる。と書くとマカロニ法師に怒られそうなので、主人公マカロニ法師が最高の言葉を求めて旅に出る、としておこう。

 そんな感じの、小林恭二風の寓話だったりするわけなのだけれども、いやまあ「風」っていうか小林恭二の寓話だったりするわけなのだけれども、本書で語られるのは――と実はここからは本書に関するある種のネタばれになってしまうので、未読の方はご注意願いたい。――と言っても、実は私自身本書の内容を咀嚼しきれてはいなかったりするので、厳密な意味でのネタバレには当たらないのだけれど。まあでも、一応ご注意。以下、微妙なネタばれ。

 本書では、主人公が自分は主人公であるという意識をもっているため、かなりご都合主義に物語が進んでいったりするのだけれども、それもこれも主人公が主人公であるからなのだ。実際、主人公マカロニ法師一行が向かう国も、東パンジー国→大狂言国→絶対真理追究国と、段階を踏んで順序良く三つの国が出てくる。まあ、ひとまずその途中経過は端折ってしまって(端折るなよ)、本書のラストで登場人物の一人が「現実」について語り始める場面があるわけなのだけれども、そこで、言語化不可能な世界とは夢のことである、と言う論旨のことを述べている。すなわち、夢の最大の特質は言語化を拒否することであり、そのため、言語化し終えた後の「夢」の残骸は既に夢の、その最大の特質を失ってしまっているため、それは既に夢ではない。夢は言語化されることができないことが初めから定められているものである。と言う。そしてその一方で、現実は言語によって成り立っている、と言う。世の中の現実にあるものは総て、自然から人の身体から何から何まで総てが、言語から成り立っている。さて、ここで一つの疑問が出てくるわけなのだ。
 それではその言語を発したのは誰なのか?
 でまあ、実はその言語を発したのは誰なのかという問題が本書を通してのメインテーマとなっていると思われるのだけれども、それがラストの一行で、ほへ?と思わされてしまった。何やらラスト付近は小林恭二に韜晦されたまま終わる感じがとてもするのだけれども、しかしその実、本当は韜晦しているわけではなく目の前に答えを突きつけられている気もする。ううむ、もう一度読み返さないとだめか。というのが実は今回の正直な感想だったりしたりもする。

 ちなみに、マカロニ法師が求めた「最高の言葉」は一体何だったのかにはきちんと答えがある。
 マカロニ法師が見つけ出した最高の言葉。それは――

「あんこう」


 ……「あんこう」か。なるほどなあ、「あんこう」かあ。まあ確かに響きもそれっぽいもんね、「あんこう」。「あんこう」、か……。へー、そっかー。そっか、「あんこう」か。これだけ長い本読んで答えは「あんこう」か……。

 ――もう一度読み返そっと。

 人を食ったような小説が読みたい方にはオススメです。

(2003年3月20日更新)
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『モンスターフルーツの熟れる時』小林恭二(新潮社)

 東京都、渋谷区猿楽町。そこでは、秩序が破壊されていた。「私」の周囲には、かつての友人が次々と現れ、そして彼らは、住人たちを煽動し、秩序を破壊し、街を混乱と狂気へと導いていく。全ては「彼ら」の二十七年前の【約束】を果たさせるために。かつての少年少女たち【モンスターフルーツ】が、エロティックに、そして暴力的に熟れはじめ、やがて「彼」が覚醒する――。

 本書は、現代のおとぎ話だ。

 執拗なまでに書き込まれていく猿楽町の街並み、そのリアルな書き込みは、それは逆に本書が飽くまでもフィクションであることを際立たせている。

 > 「おまえ、本当に人間か」
 > 「人間以外の何に見える」
 > 「俺には怪物に見えるよ」


 本書は壮大な物語の壮大なプロローグである。書かれることがない物語の序章となるべき物語。書かれない、と言ってもそれは小林恭二が、多分今後書かないのであって、他の誰か、かつて「少年」だった者たちが、その物語の続きを、書き、または歌い、または謳歌するのだろう。

 ……しかし、冒頭の君枝の表現は本当に凄まじいものがあるので、それをひとまず読んでみてもいいかもしれない。大抵、本書の書評見ると「無軌道に不特定多数の男どもと性交を繰り返す美少女、君枝」みたいな紹介のされ方をするんですが、「どこが美少女だっ」と言いたくなるから、いやホント。あ、でも美少女ってのもホントです。読めばわかる。わかれ。

(2002年8月1日更新)
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『本朝聊斎志異』小林恭二(集英社)

 まあ説明するだけ野暮ってもんだが、一応ちょっと端書程度に書いてみると、そもそも中国に『聊斎志異』っちゅう本がある。細かい話は私もよく知らんので、知ってることだけ話すと、中国の清だか明だかあたりにいた蒲ショレーっちゅう科挙に落ちまくったじいさんが書いた大量の短編を集めた短編集が『聊斎志異』なのである。ちなみに聊斎ってのはその蒲じいさんの書斎の名前で、『聊斎志異』は「聊斎で書いたヘンな話」くらいの意味だったような気がする。あんま自信ないし、まあGoogleででも検索すればわかるんだろうけど、まあメンドくさいので、詳細を知りたいヒトは自分で確かめよう。

 ほんでまあ、その本家本元の『聊斎志異』には、狐だとかアヤカシだとかまあいわゆる狐狸妖怪の類がいっぱい出てきて、で、そいつらが婀娜っぽくて艶っぽいすっごい美人になって善人な男を誘惑し、男は金持ちになって子孫代々繁栄しましためでたしめでたし、っちゅう話がものすごい数入っているのである。数百とかそのくらい。まあ別にそれ以外の怪異譚もたくさん入っているんだけど、まあ何はともあれそんな感じの怪異譚が兎にも角にもたくさん入っていたんである。たしか。そんな気がする。読んだのがもう何年も前の話な上にあまりにも大量にあったから大概覚えていないのだけれど。私は平凡社の中国文学大系っちゅう、あの、ものすごい「ド黄色!」って感じに「ド牡丹!!」っていう表紙のヤツで読んだものの、岩波文庫あたりから出ているはずでお手軽だし安いし、気になるヒトはそっちで読もう。

 まあそういう『聊斎志異』っちゅう中国の怪奇短編集があるわけで、本書『本朝聊斎志異』はタイトルどおり、本朝ニッポンが舞台になった「聊斎志異」なのである。ほんでまあ「聊斎志異」のタイトルどおり、狐か鬼(ゆうれい)が美人になって、善人なオトコがそれに捕まって、色々あるけど結局めでたしめでたし、っちゅう話が本家同様ギュギュギュッと詰まっているのである。

 しかしそれにしても、そういえばなんだかストーリーはどっかで読んだことがあるようなのがいくつかあって、これが一体、1)本家『聊斎志異』の舞台を日本に移しただけのアレンジなのか、もしくは2)日本に昔からあるような民話を寄せ集めてアレンジしたものなのか、はたまた3)小林恭二が全部自分で書いたオリジナルなのか、それが全然わかんないのである。とりあえず最初の選択肢に関しては本家を読めばわかることではあるんだけど。それはさておけ。
 んでまあ、西園寺公望だとか西郷従道だとか北条早雲だとか真原合歓矢だとかも出てくるわけで、とりあえず私は、上記の3点つまり、1)本家聊斎志異のアレジ、2)日本の民話のアレンジ、3)小林恭二オリジナル、の三つをごちゃ混ぜにしたものなんじゃないかと推測するんだけれど、さて真相は如何に。
 まあもし全部アレンジだとしても、日本に関しての広範な知識がないと「舞台を日本に移してアレンジ」なんてことができるわけもなく、そもそも「聊斎志異」は数百篇とちょっと多すぎる感じがする短編集なので(それはそれでいいんだけどね)それの髄の髄の部分をギュギュッと54篇に絞っちゃう、というアクロバティックな曲芸をするあたりが小林恭二の小林恭二たる所以であって、ホントこのヒトはすごいなあと思ってしまうのである。好きな作家はたくさんいるものの、やっぱり私にとってお師匠さんにしたい作家ナンバーワンが小林恭二である理由がそこらへんにちょっとあったりする。

 まあでもやっぱりこういう民話っちゅうか囲炉裏端でちょっとするような「お話」ってのは、なんだかんだどうのこうの考えたりするのは野暮ってもんで、ちゃちゃっと読んでおおオモロイなあ、と思えればそれでいいんじゃないかと思うわけだ。っていうかまあどんな本もそんな読み方しかしてないけど。特にこういう話は軽い気持ちで寝る前とかに数篇読んで、ああ今日も一日の最後におもろいもんが読めたさ寝よ寝よ、とかいうくらいがちょうどいいと思う。

 それにしてもちょっと思うのは、これって男性にとっては、うはうはな話ばかりで世の男性たちはうはうはーと思いながら読むと思うんだけど、狐が美人に化けてオトコを誘惑しつつでも私じゃ血筋絶やしちゃうから人間の奥さんももらいなさいよって言ってなおかつその狐と奥さんとが仲良しっていう妻妾同居で妻妾の仲がいい、その上出世して家も栄えてめでたしめでたし、っていうのがたくさんある短編集ってのは女性的にはどうなんでしょうね、しかし。まあ斯く言う私は世にいる凡夫の一人なので、うはうはーと思いながら読み終えたのだけれども。

 そういうわけで、「聊斎志異」好きにはオススメ。あ、でも「聊斎志異」読んでないヒトも楽しめる、っていうより「聊斎志異」読んでないヒトにこそオススメするべきなのかもしれない。コレ読んだら、オレ「聊斎志異」読んだことあるぜーって言えます。ただ「聊斎志異」を読んでいることが自慢できるかというと、まあ前述のような内容なので自慢できないけど。

(2004年1月30日更新)
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『宇田川心中』小林恭二(中央公論新社)

 柝が入り、幕が上がる――。

 登場人物たちはあがく。あがいて、もがいて。それでもまだ落とされて、堕とされて。不条理な、それは何とも不条理な運命に翻弄されて、悲劇へと――カタストロフへと向かわされる。それは恋する二人であっても小悪党であっても、不条理な運命の前では矮小な人間であって、翻弄されることに変わりはない。その不条理な運命――その〈因果の闇〉から逃れることは矮小な人間にとってはとても困難なことだ。不可能と言っても良いのかもしれない。しかし、そのもがいた先にある何かを掴むために――その可能性が数パーセントしかないかもしれなくても、いやソレが故に――ヒトはもがく。もがき、あがく。

 そして不条理な運命に翻弄されるヒトビトの、その対照にいるのが敵役の道玄である。いや、不条理な運命に翻弄される点においては他の登場人物たちと道玄との違いはない。しかし、不条理な運命によって二人の娘を亡くし家名を落とされた道玄は、不条理な運命に対してあがきもがくだけでなく、抗おうとする。「恋」という不条理な運命によって二人の娘を亡くした道玄は、「恋」を恨む。「恋」を恨み、「恋」を憎む。徹底したエゴイズムと強烈なバイタリティによって、その圧倒的な憎悪は「恋」をする他の人間に対して向けられる。不条理な運命に対して足掻き続けそれでもまだ翻弄されてしまうほかの登場人物とは違い、彼は不条理な運命に対し徹底的に抗戦する。抗い、戦う。弓をひき、刀を揮い、戦い続ける。そして不条理な運命に抗うが故に、不条理な運命に翻弄されるほかの登場人物に対しても、その矢は刺さり、刀は斬り付けられる。その所業は悪辣で残酷で残忍で狡猾で、悪鬼羅刹の如く目に映る――しかし、その悪辣さも元を辿れば、不条理な運命に抗うためであり、道玄もまた悲劇の主人公であることが読者にはわかる。そこが何とも哀しい。永遠の闇の中で一体道玄は何を思うのだろう――。

 そして一方、その不条理な運命に対してもがきあがき続けた“はつ”と“昭円”の二人は清らかなまま終わりを迎える。いやそこにあるのは終わりではない――不条理な運命に翻弄された人間たちが敗北感とともに迎える〈死〉ではなく、〈心中〉という名の勝利だ。不条理な運命に対してあがき続けた人間たちの勝利。本書の言葉を借りるとすれば、〈愛とはつまるところ約束なのだ。それも再び逢うという、ただそれだけの約束なのだ。〉そして、“はつ”と“昭円”は数百年という時を経て――。

 不条理な運命にあがき、あらがうのは、時代の変革期特有のものなのだろうか。例えば幕末の歌舞伎作者である黙阿弥は、激動する時代の中で――いや激動しようとしている社会の中で一体何がどう変わりつつあるのかわからないけれどもその雰囲気を肌で感じていた庶民たち、時代に翻弄されるヒトビトを描き出すのが非常に上手かった、と言われている。
 現在において、本書を書き上げた――〈因果の闇〉を蘇らせた、小林恭二は今いったい何を見ているのだろう。黙阿弥が活躍したような幕末の、時代が変革する雰囲気を――その雰囲気に呑まれ破滅へと向かっていきかねないヒトビトの無意識を、今の世に見出しているのだろうか。もうしばし小林恭二を追いかけることにしよう。小林恭二が今の日本において何を幻視しているのか――。

 ――幕を引くのはもう少し後にしよう。あともう少し、小林恭二を追いかけてみたい。

(2004年3月31日更新)
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