Weschler Lawrence

『ウィルソン氏の驚異の陳列室』ローレンス・ウェシュラー/大神田丈二(みすず書房)

 カクノゴトク驚異ハ世界ヲ席巻シ、驚異ハ世界ニ満チ溢レテイル。

 本屋で初めて見つけた時に、「これはきっとおもしろい」と思いながらもちょっと高めの値段に負けてしまい、それからは毎回本屋で背表紙を見つけるたびにきっとおもしろいだろうけどなあとタメツスガメツしてはため息をつき、でもちょっとこの値段で冒険はできないからなあと読む機会がない本――ってのが、結構ある。本書もその一冊で、最初に本屋で見つけてから、かれこれ3,4年経った。

 そして。
 最近、機会に恵まれたので買って読んでみた。

 頭にオレンジ色の釘のような突起物が生えた巨大な蟻、
 鉛の板に永久に閉じ込められた、物体を貫通する蝙蝠、
 精巧に作られた模型のイグアスの滝に架かる巨大吊橋の光学的幻影、
 穿孔された頭蓋骨の漆喰の鋳型、
 梅毒に罹った舌の蝋模型、
 イギリス人女性の額に生えた角――。

 本書の冒頭で陳列される展示物は、非常に奇妙で珍奇なものばかりであり、ホントにこんなものがあるのだろうか?といった疑問を読者に抱かせる。作者によれば、世にも珍しいこれらの品々はロサンジェルス郊外の〈ジュラシック・テクノロジー博物館〉という名の個人経営の博物館に展示されているのだと言う。動物・植物の標本、化石や鉱物、各地の民族学的な標本、美術品など、世界中にある〈驚異〉を蒐集し陳列する博物館。この〈ジュラシック・テクノロジー博物館〉に陳列されるその基準は、〈事実/虚構〉ではなく、あくまでも〈驚異〉というその一点のみにある。

 そう、この博物館に陳列されている品々は〈事実/虚構〉によって分類されているわけではない。だから、もしかしたら博物館で最初に見たものは実際にあるものかもしれないし、次に見るものは模造されたものなのかもしれない。しかしそれらは全て〈驚異〉なのだ。作者はそのように言う。しかし、読者にとって、『ウィルソン氏の驚異の陳列室』という本にのめりこんでいる読者にとってどれが事実でどれが虚構なのかはわからない。全然わからない。だって物体を貫通する蝙蝠なんているはずがない。そしてそれをどでかい鉛の中に捕獲しようとする実験だなんてまともな科学者がやるだろうか――いやそれを言うならば、アフリカの奥地で頭から釘状の突起物を生やして硬直して死ぬ蟻ってのも眉に唾して読まないといけない話な気がする。
 しかし、作者はそれらの実験・調査のいくつかは実在したことを突き止める。が、それは大筋としては事実であったが、発見者の名前も昆虫たちの学名も違うものだった――。しかし、それらの〈驚異〉は確かに存在する。作者が突き止めたのは「事実が模造された」モノだった。しかし他の陳列物は、「事実が模造されたのか」「模造されて事実となったのか」はわからない。いや、大体、模造された事実というのは、それは事実なのか虚構なのか――。

 しかし、この〈事実/虚構〉という区分を関係なく展示しているこの博物館は存在する。その一点の事実によって〈事実/虚構〉という問いかけはその意味をなくす。というよりも、その博物館の中では〈事実/虚構〉という区分自体が、その境界線そのものがなくなっているのだ。その博物館に展示されているものは〈虚構/事実〉が問題となるのではなく、〈驚異〉が展示されているのだから。そうだ、〈ジュラシック・テクノロジー博物館〉ひいては本書自体が〈驚異〉をテーマとしたものなのだ。だから、〈ジュラシック・テクノロジー博物館〉において、ひいては本書において〈虚構/事実〉の区分は関係ない――。

 ――いや待てよ。そもそもこの〈ジュラシック・テクノロジー博物館〉そのものがこの作者ローレンス・ウェシュラーによる虚構の産物なんじゃないか。本書は、〈事実/虚構〉の区分を考える読者にそんな思いをよぎらせる。よし博物館そのものが虚構だったとしよう――しかしそれならば、じゃあどれが事実でどれが虚構なんだ。もし博物館そのものが作者による虚構であるならば。それならば、物体を貫通する蝙蝠を捕獲しようとした実験や突起物を生やす蟻というものは本当に存在するのか。そして本書に書かれている〈驚異の部屋〉の歴史、博物館の歴史は本当に史実通りなんだろうか。

 ――いや、そもそも、だ。そもそもこの作者ローレンス・ウェシュラーという人物自体存在するんだろうか――。

 本書を読んでいる内に頭の中はごちゃごちゃとしてきて、そして〈事実/虚構〉の境界線上にある狭間、ゆらめきの中で宙吊りの状態にさせられる。この何とも不確かで、何とも覚束なく、そして何とも心地良いその世界には何度でも来たくなる。そこを表現するには多分一言で十分だ。〈驚異〉。その一言で。

 本書は、そんな〈事実/虚構〉の狭間にあるような作品であり、博物館をテーマにした作品であり、そして〈驚異〉を主眼に置いた作品である。そうだ、本書のメインテーマは〈驚異〉なのだ。ここで語られているのは数々の〈驚異〉と、それらの〈驚異〉がこれまで一体どんな数のヒトビトに驚異を与えてきたか、なのだ。ここで語られるのは〈事実/虚構〉などではなく、まぎれもない〈驚異〉という事実――いや、まぎれもない〈驚異〉という虚構そのもの、なのだ。

 訳者があとがきで述べている通り、〈驚異〉とは感情の奔流である。讃嘆から始まり、猜疑、不安、疑心、そしてその間にも絶えず湧き出る驚嘆の念――。是非、本書を読むことによって、作者とともにウィルソン氏の驚異の陳列室〈ジュラシック・テクノロジー博物館〉を訪ね、現代に現われたこの〈驚異〉を実感して欲しい。

 最後に、ローレンス・ウェシュラーが作中で述べていることを引用して締めくくりたい。

 > ジュラシック・テクノロジー博物館を訪ねた人は絶えず自分が
 > (自然の驚異を)見て驚くことと、(こんなことがありうるか)
 > どうかいぶかしく思うこととの間でゆらめいていることを知るのだ。
 > そしてウィルソンはときどきほのめかしているように見えるのだが、
 > 人間であることのもっとも恵まれた素晴らしいことは、
 > まさにそのゆらめき、そのように楽しく錯乱しうる能力なのだ。


 そう、人間であることのもっとも恵まれた素晴らしいことは、まさにそのゆらめき、そのように楽しく錯乱しうる能力。そのゆらめきは多分、〈驚異〉によっても得ることができるし、書物によっても得ることができる。ヒトによってはそれは登山で得られるかもしれないし、スポーツによって得られるかもしれないし、将棋によって得られるかもしれない。〈驚異〉は世界中に散らばっているのだ。マイケル・ファラデーが言う通り、〈真実とはどこまでも驚異的なものである〉のだから。我々の身近にあるものは〈真実〉であり、なおかつ〈驚異〉とは真実の別名なのだ。斯くの如く、〈驚異〉は世界を席巻し、〈驚異〉は世界に満ち溢れている。今、ただ今この瞬間にもアナタは錯乱することだってできるかもしれないし、それは人間であることのもっとも恵まれた素晴らしい能力なのだ。



 最初に蛇足。
 ちなみに、私は〈事実/虚構〉にしてしまったけれど、もう少し柔らかい物言いにしたくて、虚構と贋物の中間くらいの言い方はないかなあと考え思いつかず、やっぱこういう時はカタカタに逃げようと、フェイクを使おうと思ったものの、今度はフェイクの対義語がわからず、困ったときは英語系のヒトに聞こうとそれっぽい先輩に聞いたところ、

 > 形容詞としてのfakeに鋭く対立する言葉は、
 > realと並んでgenuineらしいんですが。
 > 「この作品はフェイクじゃない、リアルだ」
 > と書いてあったら、その書評はちょっと汗臭い気がします。
 > 「この作品はフェイクじゃない、ジヌーインだ」
 > と書いてあったら、なんか気持悪いです。


 と返信がきて、うーんその通りだなあと思ったので、あきらめて〈事実/虚構〉にしましたが、そのへんは何となくニュアンスを読み取ってもらえると助かります。

(2004年01月04日更新)

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