中沢新一
| 『僕の叔父さん 網野善彦』中沢新一(集英社新書) |
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> さあ跳べ、ここがロドス島だ。 本書は追悼文だ。そう中沢は最初で謳っている。これは別に卑下でも誇張でもなく実際そのとおりで、本書は網野善彦が歩んできた道程やその業績を綴ったような伝記ではなく、叔父−甥の関係であり学者同士であった2人の会話を通じて、網野善彦がどうやってあのような考え方を持ったのか膨らませていったのかを垣間見、そして同時に2人の仲のよさを垣間見ることができる、とてもユニークな追悼文だ。 そして中沢はその追悼文の中に、歴史学者・網野善彦が、天皇制というもの/百姓というもの/日本人というもの/人間というものに対してどのような思考を経て、あの著作群を書くようになっていったのかをトレースする作業を埋め込んでいく。新書という文字数が限られた媒体ということもあり、その作業はあくまでも大雑把な――非常に大雑把なものだが――ずばり本質を突いている。それが大雑把なものであるにもかかわらず本質を突いていてしかも読み応えがあるのは、やはり中沢新一が書いたからなのだろう。独創的な宗教学者にして哲学者である中沢新一による、〈野生の異例者〉網野善彦を見つめたその記録。独創が独創をトレースする、その作業を再度トレースできる我々が楽しめないはずがない。独創的な2人の思想家によるセッション、そして同時代に網野と同じものを見て共に考えてきた中沢による当時の網野善彦がどうしてそのような考えに及んだのかという思考のトレース。その2つが、とても、とてもおもしろい。 宗教学者にして哲学者である中沢新一が、新しい歴史学を作り上げた網野善彦を見るその視点はなんともユニークだ。そして網野と中沢そして中沢の父の3人が激烈な議論を展開させるシーン、そのシーンを魅せる手腕はなんともお見事。気軽に読めて気軽に網野史観の根本がわかっちゃうというなんとも良い新書。
(2005年6月27日更新)
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| 『アースダイバー』中沢新一(講談社) |
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大学の先輩で「下から見上げる」構図に弱いというヒトがいる。その話を聞いたとき、ふと気付いた。そういえば自分も「下から見上げる」構図に弱い――いや、見上げるのが好きなのではなく、「下に行ってから見上げる」のに弱い。今現在立っているポジションで見上げる構図に弱いのではなくて、「下に潜ってから見上げる」というシチュエーションに弱い――たぶん弱いことに気付いた。 深く深く潜行する。息を止めて、深く深く。潜って潜って潜ったその先から、ふと自分が辿ってきた来し方を見あげる。遥か彼方に見える、上を。潜るという感覚に弱く、潜ってから見上げるというそのシチュエーションにたぶん、弱い。 その潜行は水中だけではなく、地上でも地下でも宇宙でもどこでも「潜る」という感覚は全てそうだ。思わず息を止める。きっとそれは本来、生きているヒトがいてはいけない場所だからなのだろう。生きたままでは辿り着けない地中へ水中へ宇宙へ、ヒトビトは潜る。でも本能的に知っているのだ。ここは生きたままのヒトが来てはいけない場所だ、と。だから思わず息を止める。 だから。 だから、中沢新一の『アースダイバー』という本が出ると聞いた時、これは読もうと思ったのだ。縄文地図を持って東京を散策する――トウキョウへ潜行する、アースダイバー。しかも、ママチャリで。ママチャリで私たちの案内人・中沢新一は東京/トーキョーを潜る。 自転車という道具は人類が考え出した素晴らしい発明品の1つだ、あるSF作品でもそう語られていたがホントにそう思う。自分の二本の足で推進力を作り出し、二本の腕で舵を取り、その身体だけでバランスを取る。その道具を使いこなす方法さえマスターすれば、どこへでも行ける。遠くへも行ける。いくらでも遠くへ、遥か彼方だって行ける。そう、縄文時代へだって自転車があれば行けるんだ――。 そして中沢新一は地図を片手に自転車に乗って東京を散策する――潜行する。今の東京と縄文時代のトーキョーとを結び付けていく。中沢新一の文章と、大森克己の写真とで、あたかも自分が散策しているかのような気持ちになる。トーキョーを――新宿、四谷、赤坂、銀座、浅草、下町、皇居を――自転車で滑走し散策し、その想像力は地下の縄文時代へ潜行する。とても興奮させられて。息もつかぬほど興奮させられて。一気には読めなくて。毎晩毎晩少しずつ少しずつ潜ってみた。やはりダイブは楽しい。 とてもとても愉快な東京論。無粋なことは何も言わない、ただひたすら潜ることにしよう。
(2005年8月21日更新)
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