Vladimir Navokov

『青白い炎』ウラジミール・ナボコフ/富士川義之・訳(ちくま文庫)

 まったくもって小説ってヤツにはいろんなジャンルがあるわけで、それはまあミステリーだったりSFだったり純文学だったり、まあホントにいろいろとあるわけなんだけど、その中にキチガイ小説っていうジャンルがある。

 いやまあ、「ある。」と断言したものの世間一般でそんな名称のジャンルがあるかどうかは寡聞にして知らないのだけれど、私の中にはそういうジャンルがある。あるのだ。他のヒトがないと言っても私の中にはあるのだ。
 
 どんなジャンルかっていうと、そのまんま、キチガイが出てくる作品が含まれるジャンルである。キチガイ――キ印、狂人、気狂い、妄想狂、まあ何でもいいのだけれども、キチガイが書いた作品なり、作品内にキチガイ的なヒトがメインとして出てくるなりすれば私の中にあるキチガイ小説ボックスっていうジャンル箱に入れられてしまう。それは作品で言えば、『ドグラ・マグラ』だったり『人間以上』だったり『グルーム』だったりジム・トンプソンのあの作品だったりその作品だったりする。まあ、キチガイが出てくりゃいいんだからかなり幅広いジャンルだと思って頂いてけっこうだ。ちなみに「キチガイが書いた作品」の方に関してはきっと、多分、けっこう、ほどほどに、いろんな問題があるので省略。ていうか作家って大概キチ――。いやいや。まあ何ていうか、話を戻して。

 って、いやまあ、何やら偉そうに言っているけれど、まあそういう感じなんだなと思っていただければいいかなという程度の話。そして、今回その私のキチガイ箱に入ったのが本書『青白い炎』である。ああ、ようやく「青白い炎」の話にたどり着いた。
 本書は四部構成で成り立っている。 
 すなわち、

 > 前書き
 > 詩篇
 > 注釈
 > 索引

 本書はその目次からもわかるとおり、アメリカのジョン・シェイドという詩人の遺作となった999行の〈長詩〉に、シェイドの友人であるチャールズ・キンケイドという人物が〈注釈〉をつけて成り立った〈詩の注釈書〉という形式をとっている。この、シェイドが付けたその長詩のタイトルというのが――〈青白い炎〉。

 私は詩の注釈書なんてものを読んだことがまったくないが、冒頭は確かに詩の注釈書っぽい感じで書かれている。ていうか、このシェイドの詩である〈青白い炎〉自体がそこらへんの詩人でも書けないような詩になっているのがホント、ナボコフのスゴイところなのだけれど、もひとつホントスゴイのがそれに対しての注釈もやっぱりそこらへんの注釈者じゃ書けないような内容のものになっているところだろう。

 ――ということで、詩の注釈書としてフツウにスゴイ本っぽいのだけど、途中から何かがおかしくなる。何かよくわかんないけどこれはおかしいなあと読み進めていくと、徐々に「注釈者キンボートが狂人である」ことが読者にもわかりはじめる。キンボートは、自分のことを北方にある架空の国〈ゼンブラ〉の国王であると思い込んでおり、〈ゼンブラ〉において革命が起き監禁された後に、現在暗殺者の手から逃れるための逃亡生活を送っている――という妄想を抱いているのだ。そして狂人キンボートは逃亡した末に移り住んできたアメリカで、シェイドと同じ大学で教鞭をとっているのである。キンボート的には。そして、同僚であるシェイドには、〈ゼンブラ〉のことを打ち明けており、そのため、きっとシェイドは長詩〈青白い炎〉の中には〈ゼンブラ〉という国に関して言及してくれているはずだ――そう考えたキンボートは〈青白い炎〉を読み進め読み込み読み下し、注釈の中に緻密に綿密に詳細にそして偏執的に〈ゼンブラ〉の風土、言葉、歴史を読み込んでいく。詩の一行一行に対して、読み込まれ書き込まれていくその優美にして華麗なる妄想。

 ――で、まあ、さすがにラストまでは明かせないけれど、キンボートの注釈の中に〈ゼンブラ〉での歴史と現実での出来事がごっちゃになりながら進む中、狂人キンボードの妄想による〈注釈〉のスゴさと、その妄想に呼応するように読者の前に出てくるのシェイドが実際に書いた一人娘の死に対する999行の長詩〈青白い炎〉に含まれた悲しみ(これまたスゴイ)と、そしてわれわれ読者による小説『青白い炎』に対する解釈――これらが入り混じって浮かび上がってくるモノ、それらをかき分けて辿り着く場所、というか、そもそも辿り「着く」ことができない――宙吊りのような状態なことからくる快楽みたいなのが何とも嬉しくて愉しくて、深夜に一人読みながら頭を振りつつうーんそう、そうそう、そうなんだよなあ。コレ、コレだよなあとわけのわからない感覚で悶えてしまうのだ。

 ――なんて読み方をすると、佐藤亜紀に『検察側の論告』で「スノビッシュだ」なんて言われちゃうのかもしれないのだけど、英語が読めない自分にはそこでナボコフが創り出した詩〈青白い炎〉の凄さ、その詩の〈言葉の純感覚的な美しさ〉てのはやっぱりいまいちピンとこないわけで(何となくスゴイなとは思うけど)、とりあえず今の自分はスノビッシュに読まざるをえないのかなと思う。まあ切磋琢磨したいとは思っているけれど。

 そんなわけで、キチガイ小説として読んでもスゴイし、スノビッシュに読んでもスゴイし、その言葉の純感覚的な美しさに酔ってもスゴイ、と他にも多分いろんなスゴさが味わえるいろんな読み方があって多層的に楽しめる――というよりこう、多分、読み方ってのは縦に積み重なっているものじゃなくて、ものすごくたくさんの泡が重なり合っている感じになっているものであって、そしてその重なり合っている泡の深奥に――たどり着けないとしても、そのより近くへ、奥へ奥へと進んでいくその感覚、それが読書の愉悦なのかなとちょっと思ったり思わなかったりとりあえずそんなこと思わなくても本書は楽しめたり。オススメです。

 ということで、オススメくださった西山たちさんに感謝。うーん、スゴかった。さ、次は『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』だ!



 あ、そうだ。
 最後に。日本には、ナボコフ狂(ナボコフキチガイは略すとやっぱりナボキチなんだろうか)とでもいうべき若島正っちゅうおヒトがいるのだけれど、そのヒトが『乱視読者の帰還』でナボコフに関してこんなことを言っている。ホントは前後の文脈ないと誤解される、っていうか前後の文脈を読んでいるとそこまでおかしい部分ではない気もするのだけど、今回パラパラッと読んでいてちょっと目に留まったらやっぱりこの部分はおかしいよなというか、やっぱこのヒトはおかしいよなと思ったので引用。

 > あるとき、人から「若島さんとナボコフという組み合わせはぴったりだね」
 > と言われたことがある。これはお世辞として素直に嬉しい言葉だったが、
 > よく考えてみるとそれは当然で、わたしがいささかばかりの自己を
 > すっかりナボコフに譲り渡してしまっているのだから、
 > ただその言葉は「ナボコフはナボコフだ」という恒等式を意味しているだけなのだろう。
 >
 >          若島正『乱視読者の帰還』(みすず書房)


 こんなことが言えるヒトは世界でもあんまりいないと思います。
 ――て、それとももしかしてナボコフ読者ってこんなヒトばっかなんだろか。

(2003年11月23日更新)

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