Winfried Georg Sebald

『アウステルリッツ』W・G・ゼーバルト/鈴木仁子・訳(白水社)

 アントワープ中央駅で、私はウェールズの建築史家アウステルリッツと出会った。アウステルリッツは語る。帝国主義の遺物である駅舎、裁判所、監獄などの建物を巡る、ヨーロッパでの遍歴を。アウステルリッツは語る。膨大な知識に基づいたヨーロッパの歴史を、小さい頃に失った記憶を。アウステルリッツは語る。ある駅の廃絶された待合室に入った瞬間にアウステルリッツが幻視したもの――それは巨大な空間と大勢の人影だった、そうアウステルリッツは語った。

 本を読んでいると、深い海の中に引きずり込まれている感じを受けることがたまにある。あれは多分私だけが受ける感覚ではないと思うのだけれど、どうなのだろう。読んでいる間は特に感じないのだけれど、ふと気づくと、それまでずっと息を止めて物語世界へと潜っていたんじゃないかと思わせる、あの感覚。本書『アウステルリッツ』はそれが深海へ潜る感じなのではなくて、深い森の中へ手を引かれて行く感じだ。読者はアウステルリッツを案内役として、鬱蒼とした木々が生い茂る深い深い森の奥へ奥へと連れて行かれる。
 しかし、作者ゼーバルトは、読者を深い森の中へと連れて行きながらも、唐突にアウステルリッツの語りから読者を現実に引き戻す。深い森の中を歩んでいる自分と現実世界で本を読んでいる自分とが瞬時に切り替わる。無理やり切り替わらせる。ゼーバルトは、一旦読者を突き放して距離を取らせる。それが読んでいる間に、二度、三度、そして何度も何度もそれを繰り返し、そしてその先には、いっそのめりこませてくれた方が楽だと思えるくらいのその距離によってもたらされる重苦しさと、その距離によって味わえる非常に暗い甘美さ、がある。それを可能としているのは、ゼーバルトの文章が強靭な芯を持っているからだ。ある個人の物語でありながら、客観的な語り口を可能としているその文章が。
 そして、場面場面で挿し込まれる幾葉もの写真。古びた町並み、消印が押された切手、翼が欠けた天使像、大量の蔵書が収められた図書館の一室、記念碑的に壮大な大伽藍の如き駅の天蓋、そして若かりし頃のアウステルリッツ写真――様々な描写が写真となって表出される。これはフィクションではないのか。いや、しかし。だが、これは。この写真はいったい――。
 その力のある文章と何とも形容しがたい不可思議な雰囲気を醸し出しているな写真とによってもたらされる、虚構と現実との間の揺らぎ。これはフィクションなのかノンフィクションなのか。いや、そもそもそんな区切りは必要ないのか。けれど、そうだ。確かに私は、まさにそれ、その「揺らぎ」を求めて、小説を読む。でも、しかし。いや、それでも。本書は――何なんだろう。

 アウステルリッツは観察する。綿密に、入念に。詳細をスケッチし、そして思索を繰り広げる。広がりつつも絞り込まれていく思索は観察へ還元される。語ることによって過去をスケッチし、観察する。過去を観察しながらアウステルリッツは失われた記憶を辿る。主人公とともに深い記憶の迷路へと誘われた読者は、アウステルリッツの記憶を経糸とし、深い歴史の闇を緯糸とした織物をそこで見ることになるだろう。そこにあるのは個人の記憶であり歴史である。しかしそこに生み出された織物は――語りによって再現される過去は微細で緻密な絵が編み出されているにもかかわらず、しかしその中央だけは埋まっていない。綺麗に再現された過去の中心には、空虚な穴が残る。

 アウステルリッツの思索と共に、読者は鬱蒼たる森を越えた深遠な闇の中へと連れて行かれ、そこで空虚な歴史と向き合わされる。「そこ」が何処なのかはわからない。だが、多分。たぶん、そこは狭間だ。事実と虚構との間の揺らぎの空間だ。そして、その揺らぎへと連れて行ってくれる作品は本当に稀少だ。何もかもが覚束ない「揺らぎ」ばかりの本書の中で、それだけは揺ぎ無い事実だ。そう思う。

(2004年1月7日更新)

離れ茶房<書斎>へ