塩野七生

『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』塩野七生(新潮文庫)

 歴史でもなく、伝記でもなく、小説でもなく、しかし同時にそのすべてでもある――というのはあとがきの沢木耕太郎の言であるが、そうだそうだと納得した。
 読んでいる間、ずっと疑問だったのだ。本書は一体何だろうか、と。小説にしては歴史的な状況説明などが多すぎるような気がするし、それでは歴史解説書かと言えばあまりにも魅力的なエピソードが魅力的な筆致によって描かれている。強いて言えば――あくまでも強いて言えば伝記だろうか。などと思いながら読んでいたのだけれども、本書を読み終えてあとがきを読み始めたら、沢木耕太郎があとがきの冒頭で代弁してくれていたのだった。歴史でもなく、伝記でもなく、小説でもなく、しかし同時にそのすべてでもある――と。

 ということで、本書は「塩野七生の本」である。

 昨年『ローマ人の物語』 が文庫化され、古本屋で出たら買おうかなと失礼なことを考えながら探していたら先日ようやく一巻目「ローマは一日にして成らず」が見つかったので読んでみて。おおやっぱりおもしろいと思ったということで今度からは新刊で買いますごめんなさい塩野さん。

 で。そういえばウチのどっかに塩野七生の本はあったよなと姉の本棚から本書を拝借してきて、読んでみた。

 やはり「チェーザレ・ボルジア」の名前が有名なのはマキャベリによる『君主論』によるものが大きいだろう。フィレンツェの歴史家、政治理論家として名高いマキャベリは、チェーザレのことを『君主論』の中で、優れた規範を示した新しい君主像であると位置付けている。本書では、チェーザレはまさしく狐のように狡猾で、獅子のように周囲の狼どもの度肝を抜いている。

 第一部「緋衣」において地所を固め、第二部「剣」で駆け上がっていき、そして第三部「流星」ではまさしく流星のように一気にそして無残に落ちていく。ミラノの間諜の報告によれば「人間が見ることのできる最高の美と富の結合」とまで表現されている魅力的な素材チェーザレを作者は非常に巧みに書いている。数箇所を除き、作者はチェーザレの内面を覗き込むようなことはせず、あくまでも周囲の人々の言葉を借りて、チェーザレを取り巻く人々や事件の様子を語っていく。一体、その時チェーザレは何を考えて動いていたのか、それは「一応」読者の手に委ねている。歴史的な背景の解説の中に含まれる、各エピソードの小説的な描写は作者の筆が冴え渡っており、もはや言うことがない。

 本書と『ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず』を読んでみて、共通して見えたものは、政体に対する考えである。『ローマは一日にして成らず』では、同時代の都市国家であるアテネやスパルタなど政体と比べつつ、徐々に変化していく共和制ローマの政体が描かれていた。一方、本書『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』では、チェーザレのもつ国の形が第2部「剣」第11章(新潮文庫版 P.246〜247)で示される。それまでは、読者にとってもチェーザレの行動はあまり定かではない。あくまでも父親の法王領の支配を強め、自分の地歩を固めているだけなのだろうか、と思わせる。しかし、この1シーンにおいて塩野七生はチェーザレの行動の基本原理とも言えるものを提示している。このエピソードこそが、本書を通じて書かれるテーマの一つだろうし、またクライマックスでもある。それにしても、チェーザレが見つめたその国の政体とはどのようなものだったのだろうか。野望半ばにして夭折した彼が考えていたことは記録には残っていないようである。

 ということで、本書は「塩野七生の愛が詰まっている本」である。塩野七生のチェーザレ・ボルジアに傾けられる愛情を読みたい人は是非。

 追記:
 副読本には川原泉『バビロンまで何マイル?』(白泉社文庫)をオススメ。どちらから読んでもオッケーですが、どちらから読んでもどちらにしろチェーザレが格好良いです。『バビロンまで何マイル?』だと、ドン・ミケーレも格好良いです。しかし、ミケーレも『あるいは優雅なる冷酷』の冒頭だと、普通の好青年っぽいのになあ、あんな人になっちゃうとはなあ。

(2003年3月5日更新)

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