巽孝之

『日本SF論争史』巽孝之・編(勁草書房)

 いったい本書を買ったのはいつのことだったか忘れてしまったものの、確か半年くらいかけてちびちびと読んできた。半年間ぐだぐだーと読み続け、ようやく全部読み終わった。うーむ、満足。

 まあでも別にそれは本書が他の本と比べて取り立てて難解というわけではなく、「SFとは何か」「日本SFの指向するものとは」といった考察、評論、批評、エッセイの類を収録したアンソロジーであったため、ちょっとモノを考える時に一篇一篇をぽつぽつと読んでいったからだ。「SFとは何だろう」と自分でも考えながら。

 昔、SFをあんま読んでないと言うヒトから「SFってよくわかんないんだけど、SFとは何なのか」みたいなことを聞かれたことがある。当時ちょうど「SF」というジャンルを説明するのが「サイエンティフィクション」だとか「サイエンスフィクション」だとか「スペキュレイティブフィクション」だとかいろいろ論争があったらしいってことを聞いていたので、うーん何と言えばいいのかなあ何かこうこんな感じの作品がSFだからそれを読んでみてくれればわかるんじゃないかと思うんだけどそんなことしてたら時間かかるものなあうーむ今ここで一言でいうならば何じゃろなあ難しいことを聞くなあむにゃむにゃと思いながらも、しかし話の流れ的にこのヒトはそんなもんを聞いているんじゃないんだろうなあと思い、SFってサイエンス・フィクションの略だからスターウォーズみたいに宇宙が出てきたり未知の機械が出てきたりサイエンスっぽい感じの話だったらSFだと思えばいいんじゃないスかねえみたいなものすごい投げやりな回答でその話は終わってしまい他の話題へと移ったのだけれど、それ以来、それでは私にとって「SFって何だろう」と考えているものの、今でも「SFとは何か」はうまく説明できない。

 まあでもとりあえず今はもし一言で「SF」を片付けるのならば、「『センス・オブ・ワンダー』があるのがSF」でいいんじゃないかなと思っている。しかし、SFをあんま読んでないヒトに、それではその「センス・オブ・ワンダー」とは何なのかって聞かれるとちょっと困る。うーん、「センス・オブ・ワンダー」って何だろう。まあホントはこういう話をする時はいろいろと定義づけないといけないんだろうけど、とりあえず二つだけ前提を置くことにする。一つ目は「SFは小説だけに限られるジャンルではないが、ここでは小説の話題に限定して話を進める」というものだ。まあこれはここのサイトでの話なのでその辺は了承済みで読んでもらっていると思うんだけど。そして、もう一つが「なんだか偉そうに書いているけど私はSF読みじゃない」ってことだ。冊数も全然読んでいないし、たぶんSF読みとして必要なSFに対する愛とかはあんまないんじゃないかなと思う。だからSF読みじゃないヒトにはあんま鵜呑みにはしないで欲しい。SF読みのヒトにはそこは違うだろ、ってとこがあったら突っ込んで欲しい。なので以下の文を読む時は、断定している部分であっても「と私は思う」というものを付け加えながら読んで欲しい。そんな前提を二つ置いた上で話をもうちょっとだけ前に進めてみることにする。

 一応、「センス・オブ・ワンダー」の本質は「説明できない何か」だ――とは思うのだけれど、それだと全然わかんないと思うのでがんばってもう少し書こう。「センス・オブ・ワンダー」というもの自体は、SFを数冊読みこなしていく内にそのヒトの中に、ああこれが「センス・オブ・ワンダー」なんだろうなと思えるような感覚が出来てくる、まさしくそれだ。だから、「センス・オブ・ワンダー」っぽいものがわかるためには多分いろいろSFを読まないといかんのだろうなとは思う。しかしまあ、ここで結論を「本を読め」で終わらせるのも寂しいものの、「センス・オブ・ワンダー」ってヤツを私の言葉だとうまく説明できないので、とりあえずふたつ例を挙げる。

 一つ目は『日本SF論争史』に収録されている川又千秋のコラム「明日はどっちだ!」で引用されているコリン・ウィルソン『夢見る力』。つまり孫引き。まあ本来孫引きはしちゃいけないんだけども。そこは目をつぶってください。

 > 化学実験を見守っている十一歳の少年が感じるのと同じ種類の驚異の念


 もうひとつは『SF入門』(早川書房)に収録されている梶尾真治「SF短編の書き方」から要約。と思って要約しようと思ったら全然短くならなかった。ま、まあいいか。



 梶尾は山歩きが好きだそうで、よく山を歩いているらしいのだが、そんな山歩きをしている中で会ったヒトから「にた場待ちをしちゃいかん」という話を聞いたんだそうだ。「にた場」ってのは猪が山中に作った泥風呂みたいなもの。そこで猪はリラックスして身体についたダニやらを落とすため、一番無防備な状態になる。だから、そこで待っていれば猟師は猪を確実に仕留めることができる。んだそうだ。

 昔々、猟師がその「にた場」を見つけ、こりゃシメタと思いながら木の上で待ち伏せしていた。しかし、なかなか猪はやってこない。まだ来んかなあとぼんやり待っていると、猟師はその「にた場」で何かが動くのを見つける。そしたら泥の中からでっかいミミズが出てきた。でっけえミミズだなあと猟師が感心していると、近くの茂みがガサゴソと動いた。何だと思ったらミミズが大好物の、大ガマ。こりゃまたでっけえガマだなあと思って見ていたら、その大ガマがペロッとでっかいミミズを食ってしまった。しかし、次の瞬間、今度は別の茂みからガサゴソとでっかいヘビが現れ、大ガマもペロリと食べられてしまう。腹がいっぱいになったのか、ヘビはそのまま寝そべってしまった。そのまま猟師が見ていたら、そこに猪が帰ってきて、ちょうどいいとこに獲物が寝てると思い猪は大ヘビを食べた。満腹になったし「にた場」だから気持ち良いし、と猪は無防備に寝始めてしまう。
 よしよしシメタと思った猟師が銃を構えた瞬間、猟師はいやあな予感がする。自分の後ろで大きな正体のわからない何かが、にやりと笑った気がしたからだ。遂に猟師は引き金を引く気になれず、そのまま山から逃げ戻ったということだ――。

 ――だから、にた場待ちはしちゃいかん。




 コリン・ウィルソンの言葉と梶尾真治の話はまったく違う種類の話だと思われる方もいるかもしれないけど、この二つは私の思う「センス・オブ・ワンダー」をうまく表している話であり、それは多分私にとっては同じもの、同じ種類の「説明できない何か」であってそれこそが「センス・オブ・ワンダー」なのではないだろうか。それが書かれている作品が「SF」なんじゃないかな、と現時点での私は思うのだ。もしかしたら、もう少しSFを読み続けたら意見が変わるかもしれないけれど。

 そして、「センス・オブ・ワンダー」はSF的にはもう定着している言葉なので今はそれを使っているけれど、横文字嫌いなヒトのために言い換えるならばそれは〈驚異の感情〉だ。〈驚異〉とは眩暈にも似た一連の感情の奔流。読んでいる最中(それは読み終えてからかもしれないけど)、そんな感情の奔流をもたらしてくれるのがSFなのだ。そんなこと言ったら、世間的にはSFっぽくない作品じゃなくてもSFというジャンル内に入っちゃうじゃないか、と思われる方がいるかもしれないけれど、私はジャンル分け好きではあるけれど、1冊の本がひとつのジャンルのみに納まるとは思っていない。だから、それでいいのだ。1冊の本を読んだ時に、それは、私の中にあるジャンル箱のSFにも幻想文学にもミステリーにも入ることもある。だいたいどうしてジャンル分けが好きかっていうと――とジャンルの話をするとまた長くなるのでそれはまた別の話。

 さて、本書の話をまったくしてこなかったけれども、「SFとは何か」を考えるヒトには是非読んでみて欲しい。いったい過去のSF者たちは何をどう考えて「SFとは何か」「日本にとってSFとは」を考えていったのか。それは、自身が同じ問いを考える際の一助に、最良の手助けになるはずだ。

(2003年12月30日更新)

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