飛浩隆


『グラン・ヴァカンス 廃園の天使T』飛浩隆(ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

 これほどグロテスクでこれほど残酷なSFは。

 ネットワークのどこかに存在する、仮想リゾート〈数値海岸〉の一区画〈夏の区界〉。南欧の港町を模したそこでは、人間の訪問が途絶えてから、1000年のあいだ、取り残されたAIたちが、同じ夏の一日をくりかえしていた。だが、「永遠に続く夏休み」は突如として終焉のときを迎える。謎のプログラム〈蜘蛛〉の大群が、街のすべてを無化しはじめたのである。こうして、わずかに生き残ったAIたちの絶望にみちた一夜の攻防戦がはじまる――仮想と現実の闘争を描く《廃園の天使》三部作、衝撃の開幕篇。

 英題は「BIT-SEIN BEACH」。最終章のタイトルは「微在汀線」。もうこの辺で私のツボにはきますがきませんか皆さんは。しかも、〈流れ視体〉だとか〈数値海岸〉だとか。〈夏の区界〉だとか〈蜘蛛〉だとか。ネットワーク上での攻防戦だとか。きませんか皆さんは。

 冒頭の天国的な〈夏の区界〉が、〈蜘蛛〉の登場によって地獄へと急転直下一転するのだけれども、特に〈ランゴーニ〉が登場してからは阿鼻叫喚の地獄絵図に変わる。それ以前もかなりハラハラする展開が続くのだけれども、〈ランゴーニ〉登場後は特に、次から次へと起こる怒涛の展開にページを捲る手は一層早くなる。次に何が起きるか予想ができず、しかし一旦「何か」が起こると眉を顰め苦痛に口を歪めざるをえない。グロテスクなのだけれども、清新で。そして、残酷故の美しさと、ある種の耽美さと。

 何とも作り物めいたお話で、何とも作り物めいたキャラクタで、何とも作り物めいたガジェット。しかし、この作り物めいた感じが作品世界にしっくりきていて。

 三部作ということなので、完結するまで評価は保留せざるをえない。しかし、とりあえず二作目、三作目も買わずにはいられないことは確かである。
 しかし、日本でもこういう作家がいたのだなあ。

(2002年10月14日更新)

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『象られた力』飛浩隆(ハヤカワ文庫)

 飛浩隆は刺激する。

 たとえば。
 たとえば小説を読んでる時に、その文章から、その言葉から視覚的酩酊を得ることはけっこうある。けっこうあるのだけれど、それがいったい何なのか/そして何故なのかはよくわからない。小説を読むことにより与えられる視覚的酩酊ってのは実質的・具体的な映像ではなくて、それはたぶん視覚的酩酊という言葉を使うよりも言語的な酩酊といった方が正確かもしれない。そういった種類のものだ。他のみんなはどうなんだろう。

 ……うーん、何が言いたいかっていうと。
 
 たとえば。
 また「たとえば」の話なのだけど、コニー・ウィリスの『航路』っていう作品がある。病院を主な舞台とした臨死体験に関するお話だ。コニー・ウィリスの風景描写は何とも読みやすくて、登場人物たちもけっこう典型的で、あたかもハリウッド映画でも見てるかのように頭ん中に、その病院の中で走り回る登場人物たちが描き出されるのだ。そうなのだ、『航路』に関しての私の感想はずばり「ハリウッド映画を見ているかのような感じ」。それはたぶんきっと、コニー・ウィリスが書いた文章が一度頭ん中の「映像フィルタ」を通ってから、脳内に再現されちゃっているんじゃないかな、と思う。――そして、それならば小説じゃないメディアで体験してもいいかなとちょっと思ってしまう。
 ただ一応書いておくと、コニー・ウィリスってヒトの作品はリーダビリティが高くて読みやすいし、テクニック的にも非常に上手い作家さんであって、私はそう読んでしまうというだけで違う意見のヒトもいるかもしれないので、コニー・ウィリスファンの皆さんにはちょっと謝っておかないといけないのかもしれない。ごめんなさい。

 それで。

 飛浩隆は直接、刺激する。

 たとえば、本書『象られた力』に収録されている各中篇に見られるように、その言葉、その文章がそのままズガガーンと直撃する。言語中枢を刺激する。「死臭」と書いてあったらそのまま「死臭」がズガガーンと脳内五感を刺激し、「おお、し、死臭だ!!」って感じになるのだ。死臭を嗅いだことはないのに。

 その言葉、その文章から与えられる言語的な視覚嗅覚聴覚味覚触覚の刺激、そしてその強烈さ。言語的五感への刺激からは、陶酔と爛酔がもたらされる。「デュオ」における天才ピアニストが奏でだす圧倒的な感情の振動、「夜と泥の」での熱帯雨林のねっとりとした空気と匂い、「象られた力」の魅惑的なイコノグラフ、飛浩隆は言葉で読者の五感を刺激する。その言葉と、その文章によって。脳内の五感を直接刺激する。それは映像フィルタも通さず、芳香フィルタも通さず、直接、脳内の言語的な五感を刺激する。

 いや、もちろん作者は映像的に組み立てているのかもしれないしこの文章を読むことでその強烈な悪臭を「鼻で」感じ取れるヒトがいるのかもしれない。ただ、私にはその言葉がそのまま言語的五感を刺激する。

 それはもしかすると私があんま映画を見ていなかったりするために映像的経験=映像のサンプルが少ないから言葉や文章から映像が思い浮かばないだけであるのかもしれないし、その代わりに読書ばかりしてた=文字的な経験が多いせいで文字から受けるインパクトが強いのかもしれないし、まあそうじゃないのかもしれない。

 でも、これは小説にとって当たり前のことなんだと思うわけで、いや、たぶん、そうなんじゃないか、そうであればいいなと思うという話なだけなのど、そう思うわけで。ただ、それが当然のことだと思うと言っておくことと、そして、それが感じられる飛浩隆という作家の巧さと、その二つを明言しておくために(もちろん自分のために)こんな感想を書いてみようかなと思ったのだ。

 何はともあれ、2005年度版「SFが読みたい!」国内1位有力候補だと思う。オススメ。

(2004年10月9日更新)

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