山田正紀


『エイダ』山田正紀(ハヤカワ文庫)

 本格SF。

 語れ、あまたの世界の物語を。
 19世紀の詩人バイロンの娘にして、天才的な数学の才能を持つエイダ。彼女が世界初のプログラマーとして開発協力した階差機械は、幾多の世界を改変していく…。

 コンピュータの原形である<階差機械>の生みの親バベッジと、彼の協力者であり詩人バイロンの娘でもある天才的な数学の才能を持つエイダ。メアリ・シェリーの前にフランケンシュタインの怪物が姿を現し、コナン・ドイルはシャーロック・ホームズに遭遇する――。さらに、物語は現代にまでも浸食する。自らが作り出した体感シミュレーション・システム<宇宙船“虚数号”>にはまりこんでしまったイベント・プロデューサー、物語が仮想現実偏移を起こす中で物語を取り戻すために、量子コンピュータ“エイダ”を破壊しようとする作家。物語が現実を浸蝕し増殖してゆく様を、虚実ない交ぜの多彩な登場人物の綾なす並行世界を見事に描いた本格SF 。

 「物語」を物語る作品である。メタフィクションというヤツに当たるのだろうか。「物語」という壮大なテーマに相応しいこれまた壮大なスケールで描いた本作が「このSFが読みたい!」で90年代SFの1位をとったことも頷ける。

 本書では、「現実」から生まれた「物語」が徐々に現実に影響を与え、侵食していき、「現実」と「物語」は区別できなくなっていく。「現実」から「物語」が生み出されたのか、はたまた、その「現実」こそが「物語」なのか。生み出された「物語」は作者でさえ止められず、一度語られてしまえば、自己増殖し、「現実」への侵食を始めてしまう。最早それは誰にも止められず、真実と虚構の境界が曖昧になり、「物語」は拡散されていく。

 山田正紀の諸作品をさほど読んでいないので偉そうには語れないが、極めて山田正紀的な「神」解釈が前面に押し出されている。そして、もう一つが、ディファレンス・エンジン、「階差機械」も非常に魅力的なガジェットだ。歯車機械である。

 「その機械は、人間の替わりに計算をする機械で、いってみれば人間の頭脳を機械に移し替えるようなものだとか−わたくしの『フランケンシュタイン』の怪物のようですわね」

 『エイダ』が「物語」をめぐる物語の中でも特筆すべき作品であることは間違いない。ササン王朝期のゾロアスター教から始まるこの物語は様々な断章から成り立ち、各断章を複雑に絡み合わせながら、現実と虚構を拡散させつつ、重層的に描き、それらが最後には一つに収斂されていくテクニックにはシャッポを脱ぐしかあるまい。読み応え十分の作品。

(ここからネタバレご注意)

 ただ、残念ながら、ラストの一捻りが足りない感じが強い。「SFマガジン」にて長期連載をしていたために作者が息切れを起こしたどうかは定かではないが、二元論から脱出しきれず、スパイラー対4人、になってしまっているのは非常に陳腐な感じが拭いきれない。というか、何故あの登場人物がああなってしまうのか、甚だ疑問が残るのだが……。

(ネタバレ終了)
(というか、この程度の改行でネタバレ防止の役に立つのか)

 ところで、鏡明がこういうことを言っている。

 鏡明「瀬名秀明の『八月の博物館』と非常によく似ている。ただ、瀬名秀明は『エイダ』を読んでないかもしれないな。読んでればあの小説はもうひとつ先にいったような気がする」
 大森望「著者自身が出てくるところ、物語論をやってるところはすごく似てますよね。『エイダ』と同じところで終わってる気もするけど」
     (『このSFが読みたい! 2001年版』所収「1990年代SF座談会」より)

 これには納得。確かに瀬名秀明が『エイダ』を読んでいれば『八月の博物館』の到着点は別の場所になっていたと思う。もう一度、瀬名秀明に『八月の博物館』を書いてみて欲しい。いや、無理だろうけれども。

 ちなみに『このSFが読みたい! 2001年版』の「1990年代SF座談会」では山田正紀、鏡明の昨今のSFに対する考えが載っているので、で読んでみても良いかもしれない。立ち読みでよいと思うけれども。

 最後に。
 まあ、上記の文章って同じことしか繰り返していないのだが、そういう作品なのです。ちとこういうのは他人の感想読むとかえってうまく伝わらないかも。ここまで読んで頂いた方には申し訳ないが。
 『エイダ』が気に入った方は川又千秋『幻詩狩り』(中公文庫)、瀬名秀明『八月の博物館』(角川書店)がオススメ。逆にそれが気に入った方は『エイダ』を読んでみては。「物語」の物語、が好きな方は読んで損はないか、と。

 蛇足。
 物語の物語、と言えば最近では出色の出来の古川日出男『アラビアの夜の種族』(角川書店)が一押し。ちょっと毛色が違うが。

(2002年3月21日更新)

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