銀のクルス(12)
 しまったっ! 
 次ぎの瞬間十河は全速力で走っていた。
 司祭の居宅に入るのは初めてだ。
 一階のドアを入った所は簡素な集会場で、土間にテーブルと椅子が並んでいる。このテーブルは園児達のおやつや食事をする場所でもあるらしい。
 今もおやつを中断させられて、食べかけのクッキーとミルクがテーブルの上にこぼれている。
 そのテーブルに司祭を押さえつけるようにして、背中を向けた男がわめいていた。
 十河はその様子を見ただけで、頭にカッと血がのぼったが…、待て、ここには小さな天使達が大勢いる。暴力シーンを見学させるわけにはいかない。
 奥の保育室では四十過ぎのシスターが、怯えている子供達を一ヶ所に集めて、男の目から庇いながら、自分も震えていた。
 十河がシスターに保育室の戸を閉めるようにジェスチャーで伝えると、そっと男の後ろから忍びよった。
 精一杯の強さを見せてがんばっていた司祭が、十河の顔を見たとたん一瞬泣きそうな表情をした。
 男が気づき振りかえろうとしたところを、素早く左腕を男の首にかけて引きつけておいて、右手で司祭の襟首を掴んでいる腕を、背中の方へぐいと捻じり上げた。
 くぐもった悲鳴をあげて暴れる男を、捻じり上げた腕を強く後ろに引っ張り投げると、椅子を巻き込みながら派手に壁際まで飛んでいった。
 司祭が青い顔をして固まっている。
 やがて、むくっと起きあがった男は、昼間から酒を飲んでいるのか、赤い顔をして目がすわっている。
「お、俺の子供よこせって、何度言わすんだよっ。お前、神父のくせに、女房と結託してやがるのか」  
 男は身を乗り出すようにして、司祭に向けてまだわめいている。
「おい酔っ払い。司祭に酒臭い息をかけるな」
「うるせー、てめえは誰だっ」
 男は充血した目を十河に据えた。
「俺は、十河組の者だ」
「十河組? ああ、聞いたことがある。このへんのヤクザだろ。ヤクザが何で教会にいるんだよ」
 打ちつけた後頭部が痛むのか、さかんに頭を撫でながら凄んでいる。
「十河さんは、洗礼も受けておられる、とても熱心なクリスチャンなのです」
 司祭が酔っ払いに真面目に説明している。
「ヤクザがクリスチャンだぁ、ハハッ、笑わせるぜ」
 この野郎っ、失礼な酔っ払いだ。酔いがいっぺんに醒めるほどぶん殴ってやろうかとも思う十河だったが、司祭の手前できるだけ暴力は控えるように努力した。
「洋子のやつ、俺がきのう店を探して訪ねていったら逃げ出しやがって、アパートで一晩中待ったって帰ってきやしねえ。アパートの大家から健太がここに預けられてるって聞いたんだよ。健太だけでも連れて帰るから出せって言ってんだ」
「だめですっ。あなたは何かというと奥さんに暴力をふるっていたらしいじゃないですか。健太くんをそんな父親にお渡しするわけにはいきません」
 司祭が毅然と酔っ払いに向かって言った。しかし、胸の十字架を握りしめている指先は、小さく微かに震えていた。 
「なんだとっ、そんなことまで洋子のやつ言ってるのか、やっぱりお前と洋子は…」
「なにを言いたいんだっ! この酔っ払いがっ」
 腹に据えかねた俺が拳を固めた。
「この、ありんこ学園は、ここにおられる十河さんのお力とシスター達の奉仕のおかげで、どうにか運営していくことができるのです。それぞれのご家庭の事情を、ある程度把握しておく必要があるのです」
 誠意を持って司祭が理解してもらおうとしているが、こんな酔っ払い野郎に説明するだけ無駄だ。
「おい、酔っ払い。お前、仕事は?」
「…一年前、人員整理でクビになった」
「それで、自棄酒を飲んで、弱い女房子供に当たってうっぷん晴らしか? 逃げられるの当然だろう」
「お、お前に何が分かるっ」
「分かるさ。このアリの町にはそんな男の暴力から逃げてきた女が大勢いる。強引に連れて帰ってもまた同じことの繰り返しだ。やめとけ」
 少しの間酔っぱらいは、落ち着いた表情で見下ろしてくる十河の顔を睨んでいたが、
「……今日は、帰る」
 ここでゴネても仕方ないと思ったのか、それとも少しは酔いが醒めたのか、のろのろと立ちあがった。
「お前、そうやって現実から逃げても何の解決もしないぞ。…もし仕事する気があるなら、十河組へ尋ねてこい」
 出て行きかけた酔っ払いが足を止めた。
「お、俺にヤクザになれってのか?」
「今のお前はヤクザ以下だ。女房子供といっしょに暮らしたいなら、とにかく、働け」
 やつはドアノブに手をかけたまま、じっと足元を見ていたが、分かった…、と呟いた。
「いいか、俺は十河省吾だ。事務所で俺の紹介だと言えばいい」
 ヨロヨロと出て行く後姿に声をかけた。
 ホッと緊張を解いた司祭の身体がフラリと揺れた。
「司祭…、だいじょうぶか?」
 倒れそうな司祭の身体を慌てて片手を回して支えた十河は、その僧服越しでも分かる細い腰に、ドキリとする。
「…本当に、ありがとうございました。私一人でしたらとても…」
 安堵し、上気した頬とうす紅い唇がやけに目につく。
「…こんなことは、よく、あるのか?」
 司祭と二人きりになったとたん、十河の言語中枢と心臓が異常をきたし、言葉はスムーズに出てこないし、ドキドキと胸はやたらと騒がしくなる。
「いいえ、…このようなトラブルは初めてです。これも十河組の庇護のおかげだと、心より感謝しております。それから…、今日は偶然十河さんが通りかかられて、あの…、とてもうれしかった…です」
 間近から少し潤んだ黒い瞳に見上げられた十河は、偶然などではなく陰から覗き見ていた後ろ暗さから、つい目を逸らしてしまった。
「…十河さん、には、ご迷惑でしたよね」
 司祭が少し表情を硬くして、俯いた。
「迷惑なんかじゃない」
 十河はたまらずに、司祭の腰に両手を回し自分の方へ引き寄せた。
 ビクッと身体を震わせながらも、司祭の顔に嫌悪の表情が見えないことに、十河は勇気を得た。
 最初は固かった司祭の身体が、ゆっくりと十河の腕の中で柔らかくたわみ、ホッと小さな吐息を一つこぼした。
 この若い司祭はきっと、毎日一人で気を張って生活しているのだろう。そう思うと愛しさが込み上げてきて、十河は思わずやわらかな髪をかきあげ、額にそっと唇を押し当てた。
 十河のがっしりとした胸にもたれるように身体を預けた司祭が、スーツの衿を両手でギュッと握り締める。
「司祭…」
 ささやきながら片手でそっと頬に手を添えて、伏せられた薄い瞼の上、細い鼻梁を辿って、唇にそっと唇を触れ合わせた。
 ああ…、司祭の唇だ。なんてやわらかな唇…。
 三十の男が、キス一つにこんなに感動するなどとは…、考えてもいなかった。
 突然隣りの保育室から、むずがって泣く赤ちゃんの声が聞こえた。
 二人同時にビクッと身体を離した。
 そうだ…、隣りには天使達がいたんだ。
「あの…、本当に…、ありがとうございました」
 司祭は我に返ったように頭を下げると、赤くなった頬を僧衣の袖で押さえるようにしながら、保育室へと入っていった。
 十河はその場にしばらくボンヤリと立っていたが、懐の携帯がプルルと震えて、仕事の合間であったことを思い出し、大急ぎで教会を後にした。
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