銀のクルス(2)
 歓楽街を通り過ぎて少し広くなった通りの南のはずれに、周囲とは趣を異にする緑におおわれた閑静な一画が見えてくる。
 落葉樹がやわらかく色づき、秋らしい彩りの庭に白い柵が映えている。
 一年を通じてささやかながら色花を絶やさない庭には、今は赤いつるバラがアーチ形のフェンスを彩っており、その狭いアーチを通り抜けると、小石を敷き詰めた短いアプローチがドアへと続いている。
 普通の家よりも少し背の高い木製のドア。その上部に小さな十字架がついていて、《カトリック教会 アリの家》と書かれてあった。
 色数は少ないが一応ステンドグラスの窓があり、急な傾斜の青い屋根の上には、白い木の十字架がほんの少し左に傾いて立っている。
 この十字架はいつのころからか傾き、二、三度直したがまた知らないうちに傾き、もう見なれた今では何となく愛着さえ感じている。
 十河は帽子を脱ぎ、黒々としたオールバックの髪を無造作にかき上げた後、濃いサングラスを外して、薄暗い教会内へとゆっくり踏み込んだ。
 入り口に置いてある陶器の聖水盤に指先を浸し、額に指を当て、次に胸そして両肩へと十字を切り、最後にその指を軽く唇に当てた。
 質素な木の長椅子が左右に並ぶ間を正面の祭壇へと貫いている『身廊』と呼ばれる床の上を、大股で歩いて行く。
 薄暗い教会内で見ると、仕立てのいい高級なスーツに包まれたがっしりとした体格の良さが、キリッと彫りの深い男らしい顔立ちと相まって一種独特の雰囲気を纏い、十河を近寄りがたいものに見せている。
 十河は、祭壇の正面で十字架にかけられたキリスト像を見上げ、それから左側の壁の聖母マリア像を見つめながら、祈りの言葉を呟き、心を落ち着せ、
《ご用の方はこれを押してください》
 と書かれた壁際の小さなボタンを押した。  
 二、三分ほど経ったころ、うす暗い祭壇の奥、通称『内陣』のドアが静かに開き、若い司祭がゆっくりと姿を現した。
 ほっそりとした身体に白い僧衣をまとった、中性的で不思議な魅力を漂わせている若者だった。
 少しカールした髪が、細い首筋を飾り、笑みを浮かべた頬はやわらかな線を描いている。淡い色の唇と、光りを秘めた黒い瞳とのコントラストがきれいだ。
 十年近く務めた先代の吉井という老司祭は、他県の大きな教区へ司教となって赴任していき、この若い司祭が半年前に修道会からこの教会に派遣されてきた。
 司祭とは何度かこうして会っているにもかかわらず、十河にとって、この瞬間だけは慣れることのない軽い眩暈を覚える。
「十河さん、こんにちは、神の家にようこそ」
 やわらかなテノールが静かな教会内に反響した。
 ステンドグラスを通した太陽の光は、床に微妙な明かりの色模様を映して不思議な空間を作り出し、その中にたたずむ司祭の姿を何か幻想的に見せていた。
「今日は何か……?」
 この司祭の癖なのだろうか、話す時、胸にかけている質素な木の十字架をそっと細い指が握りしめる。
「司祭…、ああ、…いや」
 十河は、ここで、いつも口ごもってしまう。
「…もうお祈りは…、お済みですか?」
 ああ、と頷き黙ってしまった十河に、司祭は少し落胆したような、そんな表情を一瞬見せた。
「あの、シスターが今クッキーを焼いています。よろしければ、子供達とご一緒にお茶でも…」
 司祭は、ボタンを押して呼び出したものの、何も言い出さない省吾をそれ以上追求することもなく、やさしく微笑んで隣に建っている別棟を指した。
 内陣の奥の方でつながっている二階建ての司祭の居宅は、一階が小さな集会場と乳幼児達を預かる保育園になっている。
 アリの町で働く女性のために、シスター達の手を借りながら、幼い子供ばかりを預かっている『ありんこ保育園』である。
 預かっている子供達の大半が外国人女性から生まれ、日本人男性を父に持ちながら日本国籍を得られないでいる不幸な子供達だ。
 十河は別に子供が嫌いなわけではないが…、常に強面で通している自分が、幼く無垢な者に対してどう接すればいいのか、どんな顔をすればいいのか分からず、不安であり苦手なのだ。
 それはこの司祭を前にした時にも言えることであり、その姿のあまりにもやさしく清らかな姿につい気後れしてしまい、結局は何も話し出せずにそそくさと帰ることになってしまう。
 今日もせっかくお茶に誘ってくれたのに…と自分自身を歯がゆく思う。
「司祭…。また今度、時間がある時に」
 結局口から出た言葉は、こんなもので…。
 十河は振り切るように司祭の顔から目を逸らすと背を向け、椅子席の後ろに常備されている献金箱へ、懐から取り出した紙封筒を落とし込んだ。
 アリの家教会の教区はそんなに広くなく、決して財政豊かとは言えない。
 その教会が無料奉仕に近いかたちで、保育園を維持していくのは大変なことなのだ。
 そこで、月々ある程度のまとまった金を十河組が献金して、陰から支えている。
 そのかわり、と言ってはなんだが、十河組の縄張り内であるアリの町で営業している店からは、『見ヶ〆料』なる経営内容に見合った料金を月々徴収している。
 まあ、体よく言えば管理監督料。平たく言えば用心棒代である。
 毎月きっちり徴収するかわりに、いろんな団体からの圧力や、店への嫌がらせなどがあれば、十河組の威信をかけてことに臨み、責任を持って解決した。
 だから、十河組の懐深く護られているという安心感は、アリの町の住民達を心穏やかにして、信仰心も篤く諍いも少ない。
 特に最近は外国女性が多いせいもあるが、新しい神父の人気の負うところが大きいのだろう。
 アリの町の、住民と、教会と、十河組。
 この三者がいつの頃からか深く結びついて、この小さな地域でそれなりの統制を保ちつつ生き延びてきた。
「いつものお心遣い、心からお礼申し上げます」
 司祭が礼を述べながら頭を下げた。
 十河は軽く手を上げ、去りがたい気持ちをいからせた肩で隠して、ゆっくりと出口へ向かった。
 ドアを開けると、落日の黄色い光がパッと薄暗い教会の床に射し込んだ。
 振り向くと十河の黒く長いシルエットが、スーッと司祭の足元まで伸びている。
 一瞬それは…、黒い悪魔が白い天使に襲いかかるようにも、また、すがりつこうとしているようにも見えた。
「神のご加護がありますように…」
 やわらかな司祭の声が、閉まろうとするドアの隙間から聞こえてきた。

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