銀のクルス(3)
十河省吾は十河組の看板を張る一家の長男として生まれたが、生まれて間もなく洗礼を受けているクリスチャンでもあるのだ。
大天使ミカエルの英語名である、マイケルという洗礼名も当時の神父よりつけられている。
敬けんなカトリック系クリスチャンの家庭で育った母親は信仰心が篤く、その母に連れられて、もの心ついた頃からずっとこの教会に通っていた。
ミサの時、黒いレースのベールをかぶった母親は清楚で美しかった。
十河は聖書を読む母の横顔を眺めながら、いつもその対局にある父、源三の姿に嫌悪を感じていた。
父親は任侠を重んじる典型的なヤクザだった。大きな身体で気が荒く力も強かった。荒くれの男達を、その上をいく力で押さえつけ従わせた。
組の者から恐れられている父親も、母にだけはやさしかった。
母がこの家に嫁いできた時には、十河がすでに腹の中に入っていたらしい。
荒くれのヤクザと清楚で美しい聖女が、どうしてそうなったのか…、清純な母にも強面で通っている恐い父にも聞けるはずがなかった。
しかし、父親は、自分は朝に夕に神棚に手を合わせてはいても、妻の信仰心を尊重していて、近くにカトリック教会がなかったために、自分の縄張り内の一画に教会まで建て、以来、金銭的にも運営の面でもずっと協力をしてきた。
それが、『カトリック教会アリの家』である。
夜、十河は久しぶりに、見回りがてらアリの町へと出かけた。
若頭一人ではこのところ何かと物騒だからと、組幹部の片岡がつけてよこした部下二人に小遣いを与えて追い払い、馴染みのスナックで一人グラスをかたむけた。
グラスの中で揺れている琥珀色の液体を煽りながら、どうしても昼間のことを嫌でも思い出してしまう。
十河組が抱える雑多な事業の中でも一番精神的に参るのが、金融の仕事だ。
負債者が素人であればよけいに後味が悪く、いつまでも加害者的な気持ちが残る。
今日、返済期日を過ぎ、一ヶ月待った小さな町工場の明渡しを宣告してきた。
亭主の腕にすがり、哀願するように十河を見ていた細君。柱に隠れるようにして顔を覗かせていた兄弟達の脅えた目。
兄は中学校へ上がったばかり、妹は小学四年生、末っ子のわんぱく坊主は一年生だ。
明日から、あの兄弟達の住む家は無くなる。
あの兄弟達にとって十河の顔は、生涯忘れられない恐いヤクザとして、記憶に残ることだろう。
十河には相手が大人なら、どんなに凶悪なヤツが相手でも、例えどんなに地位の高い人間が相手でも一歩も引かないだけの自信があった。しかし、子供が相手だと…ダメだ。
酔えそうにもないグラスを重ねた。
先ほどからチラチラと濃厚な眼差しを送ってきていたアジア系の美女に、店で一番高いカクテルをマスターに頼んだ。
空虚な心とささくれた気持ちを面の皮一枚奥に隠して、作り笑顔での口説き文句はただ上滑りするばかりで、我ながら白けてしまう。
ホテルのベッドの上で抱きしめる手には優しさなどあるはずもなく、荒んだ心を抱えてするセックスは動物的な本能のみで、ただ身体だけが荒々しく猛っていた。
充足感も何もない快感だけのセックスを、女の肉体にぶつけた。
「ソンナニ…、ランボウ、シナイデ…」
マスカラが黒く滲んだ目元を拭いながら、俺を見る女の脅えた目に、町工場の子供達の目が重なる。
「クソッ」
苦いうめき声を上げる十河に、ビクッと震える女。
財布から出した厚めの札を掴んで、女の手に握らせた。
シャワーを浴びる十河の胸で、母の形見である銀の十字架が鈍く光っている。なにか胸の奥の方でツキッと痛んだ。
十河は身繕いもそこそこにホテルを後にした。
虚しさとやりきれなさがいっそう増して、たいして寒くもないのに、トレンチコートの衿をかき合わせる。
夜中の零時過ぎ、アリの町はまだケバケバしいネオンに包まれていて、どの通りも賑わいを見せている。十河にとってもまだこの時間は宵の口だ。
しかし、もう飲み直す気にもならず、夜風に吹かれながら、足は自然と南の方へ向かっていた。
ネオンと嬌声が闇夜に遠ざかり、静寂が支配する一画。
木の柵越しに眺めた教会は、三角屋根と少し左に傾いた十字架が黒いシルエットとなって、アリの町のネオンでうす赤い夜空に浮かびあがる。
まだ司祭は起きているのだろうか。
奥の方を窺うと、窓に暖かなオレンジ色が揺れて、人の気配がする。
十河はその暖かな光りに誘われるように、教会のドアをノックした。
少しの間があり、ドアが開いて顔を覗かせた司祭は、燭台の明かりで十河を確認すると、驚いたように目を見張った。
「十河…さん?」
戸惑ったような表情を見せながらも、司祭の顔に警戒の色がないことにホッとする。
「……司祭」
何をしたいのかも分からず、玄関先に立ちつくす十河に、司祭はさらにドアを大きく開け、
「どうぞ、中へ…」
と、明かりで奥へ促され、救われる思いがした。
「夜分に、申し訳ない…」
足を踏み込みながら、詫びを口にする。
「神を必要とされている方には、いつでもここは開かれております」
やさしく包むような声の響きに、心が温まる。
身廊を司祭と並んで歩きながら、十河は自分の肩くらいの位置にある柔らかくカールした髪や、額から鼻筋にかけてのきれいな線、正面からでは分からなかった濃く長い睫などに、つい見惚れてしまっていた。
ゆったりとした僧衣の上からでも分かる、華奢な肩やきれいに伸びた背中の線。この腕に抱き締めたなら…どんなに心地いいだろう。
そんなとんでもない事を考えた自分に、まだ俺は酔っぱらっているのか、と十河は苦笑を漏らした。
司祭は祭壇の前へ燭台を置くと、胸の十字架を握り、少し緊張した面持ちで俺を振り仰いだ。
「あなたのために…、何をお祈りすればよいのでしょうか」
澄んだ黒い瞳に正面から真っ直ぐに見上げられ、ほんの一時間前までの自分の狂態を見抜かれたようで、十河はそのきれいな瞳を見返すことができなかった。
「ああ、司祭…」
ぶざまに言葉につまる。
「…はい」
やさしい微笑みに促され、十河は言葉を探した。
「司祭…遅い時間に来て、申し訳ないが…、告解を、お願いしたい」
司祭ともう少し話をしていたい、司祭のやわらかな声を聞いていたい…。せっぱ詰まった揚句の…、セリフだった。
「…はい。すぐにまいります。あちらで少しの間お待ちください」