銀のクルス(5)
 きれいな天使、背中に白い羽が見えそうな、そんな錯覚を起こしそうな清らかな姿。
 自分とはまるで異世界に住む人のように思っていた。その司祭が親から捨てられた子供だったことに、十河は少なからず衝撃を受けていた。
 親に捨てられた子供なら十河の周囲にはたくさんいる。十河組の組員など、八割までが何らかの形で親に捨てられたか、親を捨てたかの人間だ。
 性格がねじくれているのもキレやすいのも、目つきが悪いのさえも、一番身近な人の庇護を受けられなかったからだと思った。
 やさしさや慈しみの感情が欠如しているのも、愛された記憶がないから仕方がないのだ、と思っていた。
「…司祭、親を、怨んだことは?」
 少しの沈黙のあと、十河が重い口を開いた。
「いいえ、怨んではいません。…むしろ、殺さずに教会の前に捨ててくれたことを感謝しています。そのおかげで今の私があるのですから」
 格子越しに見える白い手が、祈るように組まれた。
「十河さんは…、ご両親に感謝していますか?」
 とっさに答えることが出来ず、十河は空を睨んだ。
 いままで父親に感謝というような気持ちを持ったことはなかった。
 大きな屋敷に住み大勢の人間に囲まれて育ち、金にも物にも不自由をしたことはなかった。しかし…、幸せだった記憶もまるでない。
 母親には…、生み育ててくれたことへの感謝よりも、自分が生まれてきたことによって、ヤクザの妻としての道を選んだのではないか。そんなふうに、自分の出生に負い目みたいなものを感じていた。
「…分からないな。俺は、生まれてきたこと自体に感謝の気持ちを持ったことがないから」
 十河の正直な気持ちだった。
「………」
 司祭の手がぎゅっと握り合わされた。
「どうか…、ご自分の存在を、否定しないでください」
 司祭の声が少し震えているように聞こえる。
 十河は目を閉じた。
 いま、司祭はどんな表情をしているのだろう。
 顔を見たい…。
 俺の顔を見て、言葉を聞かせてほしい。そう思う反面、汚れのない清らかな司祭の目を、正面から見返すだけの自信が十河にはなかった。
 目を開けて、邪魔な格子越しに司祭の白い手をじっと見つめた。
 薄暗い明かりにもだいぶ慣れた目に、左手薬指の爪の下に、小さな小さなホクロがあるのを見つけた。
 普通に話していたのでは気がつかないだろう、ほんの小さな発見にも、十河の気持ちが昂ぶってくる。
「吉井神父からほんの少しですが、ご両親のことは伺っております」
 司祭が控えめに言った。
 前任の老神父から十河一家の話は聞いているのだろう。
 父の十河源三は元々肝機能が悪く、常に右の上腹部の不快な痛みと疲労感を訴えていた。 母が亡くなったのを境に酒量が増え肝硬変へと悪化して、今では主治医である後藤医師が経営する病院の特別室で入院加療している。
「十河さんのお母様は、たいへん熱心なクリスチャンでいらした…と」
「ああ……」
「事故に遭われたのも、この教会へおいでになる途中だったそうですね」
 この司祭になら、何でも隠さずに話していい…。
「…そうだ。駅裏の自宅から教会へは、二十年余り毎日のように通いなれた道だった。脳腫瘍が原因で失明してからも、杖と点字ブロックを頼りにここへ通いつづけた。それが…。俺は、あの歩道を歩くたびに、腹立たしくてやりきれなくなる…」
 通いなれた道だから、と一人で教会に向かい、点字ブロックを塞いでいた小型トラックのせいで車道によろけ…通りがかった大型トラックにはねられ、死亡した。
 小型トラックは不法駐車の罰金刑のみ、母親が車道側へ倒れてくることを予見することは難しいとして、母親を轢いた大型トラックの運転手は、一カ月の免許停止処分で済んだ。
 当時、暴力には否定的で、父親の跡目を継ぐ意志もない普通の大学生だった十河だが、判決に納得がいかなくて、運転手二人をメチャクチャに殴り、暴行罪で逮捕された。
 しかし、父親が裏で手を回したのかすぐに帰ることができた。
 大学卒業も間近で、就職もすでに内定していた十河だったが、これを機に組を継ぐことを決心した。
 母親の不慮の死は、十河の心に長い間怒りとなって黒いシミを作ったままだ。
「本当にお気の毒だと思います。でも…、天の下には、すべて定められた時があります。生まれる時、死ぬ時。それに抗うことは不可能です。お母様も、いまは主イエスのもとで幸せに暮らしておいでになると、信じております」
 司祭にそう言われれば…、ひたすら信じ敬っていたキリストのもとで、いま母は、安楽な余生を送っているのかも知れない…。そう思えてきて、十河の心も少しは救われそして慰められた。
「私はこれから毎日、朝と夕の礼拝のおりには、お父様の病気回復を願い、お母様へは、永遠の命の癒しと赦しを賜るように、必ず欠かさずにお祈りいたします」
 言葉の中から滲み出るやさしさと労わりは、十河の心の荷物を半分持ってくれたような、そんな安らぎを与えてくれた。
 気がつけば、通常の神に懺悔する告解とはまったく違う内容ではあったが、あれほどひどく荒れてささくれ立っていた十河の心が、ゆったりと安らかに鎮まっていくのを感じていた。
 青い月の光が射し込んで、深い海の底のような静寂に包まれた教会の中。ヤクザと司祭が告解室の壁を挟んで向き合い、お互いの息遣いを聞き取りながら、ただ時だけがさらさらと過ぎていった。
BACK
NEXT
TOP
BACK
NEXT