銀のクルス(6)
翌朝、食堂で十河が朝食を終え、コーヒーを飲みながら経済新聞に目を通しているところへ、片岡が入ってきた。
「若頭、おはようございます。昨夜はずいぶんと遅かったわりに、今朝はまたえらくお早いことで…」
挨拶のついでに、皮肉を言った。
片岡は十河組の中堅幹部だ。年は三十七か八ぐらいだ。
十河がカタギの道を諦め、十河組を継ぐ決心をして組員の下積み生活をしていた時には、組長の息子であることを承知のうえで、遠慮会釈なくこき使い、出来が悪いと罵倒し、反抗的だとよく殴られ蹴飛ばされた。
そうやって片岡は、十河の甘えや弱い部分を叩きのめし、そぎ落としていった。
憎まれ役、損な役割を自ら買って出た片岡だったが、当時はまだ学生気分も抜けない十河にしてみれば、ただ悔しくて憎らしかった。
『何度お前を殺そうと、夜中にドスを握り締めたことか…』
冗談半分にそう言った十河の言葉に、
『俺は、いつ若頭の手にかかってもいいように、身辺の整理だけはちゃんとつけてあったんですよ』
と、真面目な顔で返された。
身体は十河に比べればはるかに小さいが、その度量の大きさと肝のすわっているところは、大いに見習わなければと思う。
「それにしても、今朝の若頭は珍しく機嫌のいいことで…。昨夜の女は、よほどよかったんですかね?」
片岡の皮肉も執拗だ。
「つまらん詮索をするな」
チラと片岡の顔を見上げた十河は、また新聞に目を戻した。
「いえね、若頭がどこの女と寝ようと俺が文句を言う筋合いじゃないんですがね。夜遅く一人で出歩くことだけはよしてくださいよ」
十河組の若頭となってからは、いっさい余分な口出しはしなくなった片岡だが、今朝は珍しく十河に説教をする。
「いつまでも俺はそんなガキじゃないんだから」
いい加減にしろ、と睨んだ。
「いいえ、じゅうぶんガキっぽいことをやっています」
片岡は五分刈の頭を振って否定した。
「若頭が亡くなった奥様を思う気持ちは、じゅうぶんに分かっていますけどね。歩道に停めてある自転車や車蹴飛ばすのは、もういい加減やめてくださいよ」
またその話か…と無視を決める十河。
「いえ、弁償金や修理代はしれてるんですがね、度が過ぎると警察も書類送検や罰金だけでは済まなくなって、若頭が逮捕なんてことになったら大変ですから。大勢目撃者がいるだけに替え玉って訳にはいかないんですよ」
新聞を読むのに集中している振りをしている十河に、
「分かってるんですか?」
と片岡が念を押す。
うるさい片岡の声に、十河はゆっくりと新聞を畳んだ。
「心配するな。今後その件で文句を言って来ることは、多分ないだろうから」
軽く請け負う俺に、ホントですかね、と片岡が疑わしそうな目を向けた。
その片岡を見返して、十河がフッと笑った。
「……若頭」
十河が組員の前で笑うなど、たぶん学生時分からこちら久しいだろう。
片岡が少し驚いたような表情で、やくざの紋章のような古い切り傷のある顎をソロリと撫でた。
二十年も昔の医療技術では、地図の電車道みたいな縫合跡が、左耳から顎にかけて深く刻みつけられたまま残り、それが片岡の人相を著しく凶悪なものに見せている。
喧嘩っぱやいのが欠点だが、情に厚く義理堅く気のいいヤツなのに、四十近いこの年まで独り身なのは、たぶんこの傷が原因なのだろう…と十河は密かに気に掛けていた。
「ところで若頭、最近の山高組のやつらが不穏な動きをしているのをご存知でしょ?」
片岡に言われるまでもなく、近ごろ山高組のやつらがアリの町で派手に遊び、なにかと騒ぎを起そうとしているのは知っている。
「若頭がいくらガタイと腕に自信があるからって、深夜に一人での外出は控えてくださいよ。組長が臥っていなさる時に、もし若頭の身になにかあったら、十河組は屋台骨を無くしてたちまちバラバラだ。山高組の狙いはそこなんですから」
今朝は珍しく十河の機嫌がいいとみた片岡が、この際とばかりにまた説教を始めた。