銀のクルス(7)
十河組と山高組は、古くからこの地方で東西に分かれ、縄張りや勢力を争ってきた犬猿の仲だ。
今までもたびたび衝突をしてきたが、ここしばらくは組同士のイザコザもあまりなかった。
なのに今になって、なぜ騒ぎを起そうとしているのか…。
任侠や義侠心などを重んじる古い体質の十河組と違い、山高組はバブル期の建設ラッシュのおり、ビルの基礎や道路拡張の際の側溝工事で多大な利益を上げ、土地転がしや地上げで大儲けして、駅の東側に大きなビルを構え、小さな土建屋から今では、山高総合建設を軸にマンション経営やホテル事業にも手を広げている。
だが不景気な昨今、その内情はそうとう厳しいのだろう。それで十河組の縄張りまでも隙あらばと狙っているらしい。
「ヨシさーん。コーヒーもう一杯頼む」
十河がカウンター向こうのキッチンへと声を張り上げた。
片岡はヤレヤレとため息をつきながら,洗い物に忙しいお手伝いさんに代わり、コーヒを淹れに立った。
「若頭、おはようございます。ああ、片岡、俺にも頼む」
十河組の中でも最高幹部の市村が、食堂に顔を出した。
カウンターの中でサイフォンを持って立っている片岡に、ついでにコーヒーを頼み、十河のテーブルの向かい側にゆったりと腰を下ろした。
「若…、なんだかえらくご機嫌ですね。…なんですか、いまさら気難しい顔を作ったって駄目ですよ。さっきの声の調子で分かります」
常は低い俺の声が、今朝は食堂の外まで聞こえたらしい。
「市村、その若っていうのはやめろ」
この市村は、いつまでたっても十河を子供扱いしては嫌がられている。
「いいじゃないですか。俺にとっちゃあ大事な若様だ。オムツを替えたり、泣き止まないのを抱っこしてあやしたり…。若はいったん泣き出したら、なかなか止まらなかったですからね。子守をするってのも忍耐を養ういい修行になりましたよ」
「…それを言われると、弱い」
十河が苦虫を噛み潰したような顔をしたのを見て、市村が笑った。
「ハハハ…、若に勝てる唯一の武器なんですよ。……子供を持てなかった俺達にとっちゃ、いい思い出です」
やけにしんみりと言う。
「市村のおやっさんには敵わないよ」
十河もゆったりと力を抜いて笑った。
今までにも何度か同じようなことを聞かされた憶えはある。しかし、自分が聞き取ろうとしなかった。
今朝のように素直な気持ちで周りの者の言葉を聞き、その姿を眺めたのはおそらくヤクザの世界へ入って初めてだろう。
こんな人達に護られて、生かされてきたのに……。
『どうか…、ご自分の存在を、否定しないでください…』
ふいに司祭の声がよみがえる。
昨夜会ったばかりなのに…、顔さえまともに見返すこともできないくせに、また会いたいと思う。
十河は素肌につけている母の形見の銀の十字架を、Yシャツの上からそっと探った。
テーブルの向こうでゆったりとコーヒーを飲んでいる市村が、そんな十河をじっと見ている。
「…なんだ、市村」
動揺しないように、ことさら不機嫌な声を出す。
「いえ…、今朝の若は、実にいい。幸せそうで、こちらまでうれしくなってしまいます」
目尻の小ジワが一段と深まり、スッキリと櫛の目の通った頭には、半分以上白髪が混じっている。
十河が生まれた時からずっと身近にいる市村は、重ねてきた年輪が渋さと貫禄となって、いい具合に老けつつあった。
実際十河は、父親よりもこの市村の方に懐いていた。
この十河組を継ぐ決心をした時、一番初めに打ち明けたのも市村だった。
『若には、極道の道を歩いて欲しくはないです。亡くなられた奥様がきっと悲しまれますよ』
その時のつらそうな顔は、いまでも脳裏に強く焼き付いている。
そのくせ十河の決心が変わらないと分かったら、寝起きから食事や仕事まで一番下っ端の新入りと同じ扱いで、片岡に教育係りを命じて、ずいぶんとイジメこき使ったものだ。
この市村も若い時には極道の限りをつくし、命を落としそうになったことも一度や二度ではなく、鉄砲玉となってムショ暮らしの経験も何度かある。
いろいろな修羅場をくぐってきた挙げ句、達観した者だけが持つおおらかさとやさしさが、その面に表れている。
「そういやあ若、ちょいと気になる話を弥生から聞いたんで、ぜひお耳に入れておいた方がいいと思いましてね」
声の調子も改まった市村が、長年連れ添った女性の名前を出して、十河の顔を見つめた。
市村と弥生は籍を入れていないが、夫婦も同然のいい大人の関係を長年続けている。
弥生はアリの町で芸妓をしているのだが、なかなか勝ち気な美人で、若いころは超売れっ子芸者だったらしい。
市村と同様、粋に年を重ねてきた今も、三味線と小唄の名手として、お座敷の指名もけっこう多いと聞いた。
「このところやたらと山高組と市内の建設業者が会合を開いているようなんですがね、弥生も何度か座敷に呼ばれて行ったらしくて…、どうもね、なにか匂うんですよ」
今のところ何社もの建設会社が請け負うような大きな建築物の予定は無いはずだ。
「…たしかにクサイな」
俺も市村の顔を見返した。
「市村、山高関係のお座敷はなるべく注意していて詳細を知らせて欲しいと、弥生さんに伝えてもらえないか」
「もちろん承知しておりますよ。近いうちに、市長の個人的な祝いの席に芸妓が何人か呼ばれているんですがね、どうやら山高の社長も出席するらしいんで。まあ、親戚になるんだから、祝いの席に顔を出すのも当然といやあ当然でしょうが…」
山高建設社長、山本高太郎の長女と市長の長男が結婚をして、市内でも著名な両家は親戚関係にある。
「内輪の席ですからね、なにか話が聞けるんじゃないかと思ってるんですよ。とにかく、山高組はこちらに向けて、ますます勢力を強めてくるに違いないです」
厳しい顔で言いきった市村が、ところで…、と俺の顔を見た。
「若…、今、好きな人がいるんじゃないんですか?」
市村にいきなり話を振られて、十河は一瞬返答ができなかった。
好きな人はと聞かれ、脳裏に浮かんだのが司祭の顔だったからだ。
「残念ながら、まだ…だ」
関心のないふりで、コーヒーをゆっくりと飲み干した。
「ねえ若頭、山高に対抗するためにも、ここでいっぱつ知事の娘か代議士の娘を嫁さんにしちゃあどうです。若頭はスッキリとしたいい男だし、国立大学出のインテリなんですから、女なんか選り取りみどりじゃないですか」
片岡がカウンターの向こうで、立ったままコーヒーを飲みながら、十河をからかった。
「そのいい男の顔を、以前は遠慮なく殴ってくれたよな」
「だから、殴る俺の方がずっと痛かったんですってば」
片岡が情けない声を出した。
今朝はどういうわけか、昔のことを何のわだかまりもなく話すことができる。
「だけどな片岡、そんな女房の実家の力を借りなきゃならないような情けない男に、十河組が背負っていけると思うか?」
吐き捨てるように言う十河に、
「そりゃあそうだ。だから弱みに付け込まれないためにも、常に身辺をキチンとして、短絡的な行動を起こさないようにしてくださいよ。そのことだけは、下の者まで厳しく徹底させてるんですがね。一番心配なのは、若…、あなたですよ」
市村がトドメを刺してくれた。
「それから、組長の所へはもっと顔を出してくださいよ。せめて週に一度は仕事の報告を兼ねてお見舞いに行ってさしあげてください。それが親父さんの一番のクスリですから」
市村が何かにつけて諭す言葉だ。
実際父親が入院してはや二年がくるが、十河の顔を見たら説教を始める父親がけむたくて、つい足が遠のいてしまいがちだ。
風向きの悪くなった俺は、ああ、分かった分かった、とおざなりな返答をして、また市村に睨まれる。
「さあ、仕事だ仕事っ」
ますます都合の悪くなった俺は、頬をパンパンと叩いて気合を入れる。
「お前達ものんびりしていないで、仕事しろよ」
まだコーヒーを飲んでいる二人に、からかい半分嫌味を残して、食堂を出ていった。