東京地方は七月下旬だというのにまだ梅雨明けしておらず、蒸し暑くどんよりとした空気のまま暮れようとしている。
車の騒音とヘッドライト、行き交う人々の靴音、濡れた歩道に映るネオンサイン。土曜の夜とあって、銀座は今夜も生き生きとしている。
「ねえ、もう少しゆっくり歩いてよ。長田さん足早くて、マユミ、スピード合わせんの大変なんだからぁ」
つま先立ちするようなピンヒールサンダルでチョコチョコ小走りになりながら隣で文句たれているのは、今向かっているキャバレーのホステス「マユミ」だ。
俺の左腕に指輪や真っ赤なマニキュアで飾った指を絡みつかせ、超ど級の豊かな胸を押しつけて、パーキングからこっち、ずっと一人で喋り続けている。
仕事に忙殺されていたここ半月の間は思い出しもしなかったマユミの顔を、明日は久しぶりの休日となったとたんゲンキンにも思い出し、昨夜アパートへ電話を入れた。
マユミのヤツもゲンキンなもので、同伴出勤してくれるなら看板後オールナイトもOKよ、と言うことになった。
今、俺は霞が関からの帰りなのでサマースーツを着込んでおり、暑さで自然と機嫌が悪くなる。おまけに暑苦しいのが脇にペタッとくっついているからなおさらだ。
Yシャツが背中に張り付いて、気持ち悪くなってきた頃ようやく目的地に着いた。
〈キャバレー銀馬車〉とチューブネオンで描かれた大きな文字。美女を乗せた馬車があたかも走っているように動く、ケバケバしいネオンサイン。それらが外壁一面を覆っている派手なビルのドアを開ける。
「いらっしゃいませっ」
一斉に声が上がる。
「おはようございまーす」
マユミが嬉しそうな笑顔で俺にウィンク一つ投げて、従業員専用のドアへ消えた。
三段ほどの階段を降りた広いフロアーは、色とりどりのカクテルライトやミラーボールの光で溢れ、バンドがスローバラードを奏でている。
銀馬車は、カウンター席を除いても二十は有るボックス席と中央に広くダンスフロアを設けた都内でも一・二を争う大きなキャバレーで、マユミはここのNo.1ホステスだ。
自称二十二才。頭の方は少し軽いが、グラマラスな身体に赤いゴージャスなウエーブの長い髪。派手で小作りな顔はコケティッシュでなかなか可愛い。
俺は常連と言うほどでは無いが、接待などで何度か通ううちにホテルへ行く仲になった。二ケ月ほど前の事だ。
案内された席にドカッと座り、ネクタイを緩めて汗ばんでいる衿元のボタンを外す。
「いらっしゃいませ」
ボーイが冷茶と熱いおしぼりを置く。
俺は思わずテーブルの横に片膝を付いて
控えている、ボーイの顔を見てしまった。
“いらっしゃいませ”がこの店にひどくそぐわないイントネーションだったからだ。
語尾が下がり、〈せ〉が〈しぇ〉に聞こえる関西なまりに、俺はどうも過剰反応してしまう。そして、そんな自分がクソ忌々しくなる。
立ち上がり、無愛想に一礼をしたボーイの目と、それを不躾に眺めていた俺の目とがかち合った。
整髪料など使っていない短く黒い髪。くっきりとした山形の眉。しかし、その下の黒々とした瞳は頼りなく不安定に揺れている。やがて、それはツイと逸らされると、背を向けて去って行った。
少年のように細い、未発達な感じの後ろ姿だった。
マユミとヘルプの姉さんが三人、賑やかに俺のテーブルを囲む。
「あいつ新入りか?」
熱いおしぼりを広げて渡すマユミに聞く。カウンターの横の壁際で銀盆を脇に立つ若者をチラと見たマユミが、
「ああ、ケンちゃんね」
と、たいして興味もなさそうに言った。
「あの子、一週間くらい前から店に出てるんだけどさ、大人しいと言うよりも暗いでしょ。
確か年は二十一だって言ってたけど、見えないわよねぇ、子供っぽくて。とにかく水商売には向いてないわ」
たいして年が違わないだろうに、もはや水商売の世界にどっぷり浸かっているマユミをグラス越しに眺めた。
腰までスリットの入った黒のドレス。赤い髪が盛大に肩や背中に広がり、化粧がまた一段と濃さを増している。
媚びを含んだ笑顔でしなやかに絡みついてくると、甘くきつい香水が嗅覚を麻痺させる。
「だいたいあの子、野暮くさいでしょう。よく見ると顔はなかなか綺麗なんだけどね」
前に座った女が、グラマーを過ぎたボリュームのある体でしなを作り、カナッペを摘みながら喋っている。
「他のボーイから聞いたんだけどさ、大変な借金を抱えているようなのよ。それも悪質なサラ金で…」
横の和服の女が扇を口に当て、内緒話しよろしく俺の耳に吹き込む。
「昼間も工場で働いて掛け持ちしているようだけど、利子を返すだけで精一杯なんじゃないの」
「四国の山奥から出て来たんだって。可哀そうに悪い女にでも引っ掛かったんじゃないかって」
「なに言ってんの。純情そうに見えるけど、男相手にウリやってるって話よ。まあ、あの年で大金返そうと思えば、それしか無いだろうけどね」
同情と興味本意の噂話しが飛び交うなか、酒の肴になっている当の本人は、やはり先ほどと同じ場所に立っている。
オールカラーのグラデーションの中で、若者が佇んでいるそこだけモノクロになったような、そんな心細げな姿だった。
「ああやって寂しそうにしている姿見てるとさ、何だか母性本能が刺激されちゃうわね」
和服の女がしんみりと言った。
「ああら、私は長田さんを見てると体がうずいちゃうけどね。ガッチリとした大きな体で力も強そうだし、お金持ちだし。顔はさ…チョット恐い感じだけどぉ、フフ…頼もしそうで好きだわ」
前の太り気味の女が、身を乗り出すようにして言った。
「ダーメ。私のものよ長田さんは」
マユミがヘルプのおねえさん達に見せつけるように、俺に体をすり寄せてくる。
「おいおい、酒が零れるだろ」
なおも密着してくるマユミのスリットから手を入れ、むっちりした太股に手を這わす。
「なんだお前、下着付けてないのか」
「やぁね大きな声で。この服にそんな野暮な物付けないわよ」
「ピンクサロンかここは」
「長田さんのスケベッ」
色っぽく睨みながらも、なおも深く誘い込む。
キャアキャアと賑やかな席に、新入りがふと顔を上げた。少し頼りなげな黒い瞳が俺を見ている。
俺は見せつけるように、ドレスの中に入れた手を蠢かせ、そいつを見返した。
視線が絡み合う。
しかし、黒い瞳はすぐに逸らされ、心細そうな立ち姿に戻って、二度とこちらを見ようとしなかった。
おしぼりで手を拭いている俺に、さっきから何度も聞いている感じで、前の女が話し掛けている。
「もうっ、長田さんたらマユミに夢中で、人の話、ちっとも聞いてくれないんだから。ねえ、お仕事ナニしてるの?マユミに聞いてももったいぶって何も教えてくれないのよ」
「ああら、私だって本当に何も知らないんだから。仕事は何か、どこに住んでいるのかさえ。一方的に電話くれるだけだもの」
マユミが赤い唇を尖らせて、俺を見上げる。
「ねえ、今夜うんとサービスするからぁ、長田さんのコトいろいろ教えて頂戴。お願い」
と、甘えた声で囁くが、俺は曖昧に笑ってグラスをただ傾けた。
その後も、堅いお役人にも見えるけど、羽振りがいいから実業家かも。いや危険な雰囲気が有るから裏の世界の人だったりして、等々、俺への詮索は尽きなかった。
裏葉草が揺れる頃(1)