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「長田さん?」
 ケンジの声に、ああ、と我に返った。
「長田さんが育った所って海の近くだったんですか?」
 俺の気難しそうな雰囲気を察してか、ケンジがそっと話しかけてくる。
「うん?それがどうした」
 俺はすっかり短くなってしまったタバコを灰皿に捻りつけて消した。
「僕、海で一度も泳いだ事がないから、塩水で波のある所で泳ぐのって、どんな感じなんだろう…って思って」
 ケンジの表情から、それはたいして聞きたい事項ではないが、俺が黙ってしまったことに対する不安からの話題づくりだと察せられた。
「お前、山奥で育ったんだろ?泳ぎなんて出来るのか?」
 ケンジは真面目な顔で首を捻り
「さあ…、沢にはよく潜って岩魚やあめごなんか捕っていたけど、なにしろ水が冷た過ぎて長い間は入っていられなかったから…どれくらい泳げるかは…」
 そう言って小さく笑った。
「俺の育った所は、太平洋に沿った長い県だからな、遠浅の良い海水浴場が沢山有ったぜ。浜名湖や弁天島なんぞ俺の庭みたいなものだったよ」
 もう帰ることは無いだろう故郷の自慢をしても仕方無いことだ。
「そうだ、思ったより仕事早く片づいたから、最後の日は湘南の方へでも泳ぎにいくか?」
 俺の言葉に少し嬉しそうな顔をしたケンジは、しかし恥ずかしそうに首を横に振った。
「山と違って人が大勢いるんでしょう?。僕は…無理みたいです」
 改めてケンジの身体を眺めて見る。手首の紫色や身体中に散らばっている赤い色。これじゃあ海パン一つにはなれないか。俺は苦笑して、ケンジの肩までシーツを引き上げた。



 十日目の朝、俺は珍しくケンジよりも早く目が覚めてしまった。こんな事は初めてだ。ケンジはどんなに遅く眠っても、俺が目覚める頃には身繕いを済ませている。
 今日もいい天気だからきっと太陽を拝むだろう。真っ赤な太陽に向かって何を祈っているのだろうか。遥か遠い山奥に眠っている両親の冥福か、闘病生活を続けている妹の安否か、朽ち果てているだろう先祖の祠にか…。
 夜明け前の薄闇の中、まだ俺の横で健やかな寝息を立てているケンジの顔を眺めた。
否応なく和春の記憶につながる黒い瞳は、きれいに並んだ睫の向こうに隠されている。黒い揺れる眼差しは似ていても、ケンジのそれは和春のように小賢しくは無い。きっと生きて行くのも危ういほど世間知らずで、悲しいほど不器用で純朴だ。
 売りをしている、というのもどういう経緯でそんなことになってしまったのだろうか。きっと、色んなことがあったのだろう。ケンジに惹かれれば惹かれるほど、今、彼がここにいることすら、その噂を裏付けるようで、悲しかった。
 俺は処女性などという薄っぺらなものに拘りなど持ってはいないが…。
 しかし毎晩のように俺に抱かれながら、朝の空気の中で見るケンジは、なぜこんなにも清楚で無垢に見えるのか。
 それが俺を何故か不安にさせる。だから抱いてまた確かめてみたくなる。身体中に俺の印を刻み付けておきたくなる。
 俺は、確たる自分の気持ちも、素のケンジの心も見つけられず、曖昧な暗さの中で深い吐息をついた。
裏葉草が揺れる頃(12)
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