唇がくすぐったい。
何かに舐められているような感触に、ふと目が覚める。
ぼやけた視界に、息を飲むように俺を見つめているらしい人影。
ケンジ…? ケンジッ!!
ガバッと起きあがろうとしたら、全身で押さえつけるようにして止められた。
「駄目ですっ。おとなしいに寝とらな。長田さんひどい熱で大変やったんですから」
ケンジの故郷訛の柔らかさが心に沁みてくる。
手を延ばし頭や顔をそっと撫でる。ああ、ケンジだ。
ケンジは俺のその手を両手でくるむようにして布団の中に入れながら、
「寒うはないですか?。さっきは寒い寒いって震えてたから、僕、心配しました」
そういえば、何となく気分がいい。頭を動かしてみる。朝感じたようなひどい痛みや重さがない。
「今、何時だ?」
ひどい嗄れ声だ。
「もう夕方の六時過ぎです。…このまま良うならんかったら、医者呼んだ方がええのかどうか、迷うてたんですけど…良かった。薬が多少は効いたんでしょうね」
「薬?」
わが家には薬などという気の効いたものは無い。
ケンジが、枕元から何やら取り出して見せた。それは寝呑みに入った茶色の液体だった。
「僕たち山の人間は医者にかかるの大変ですから、大抵の怪我や病気は薬草で治すんです。これは“晒菜升麻”という薬草の茎や根を刻んで陰干しにした物で、解熱、解毒に効くんです。長田さん喉が渇いてたのか、少しづつですけど飲んでくれたから…」
「それじゃあ、それを取りに帰ってたのか?」
朝、起きた時居なかったのは……。
「夕べからひどい熱で苦しそうやったから、夜が明けるのを待って、アパートへ帰ったんです。けど…、来る道が解らんようになってしもうて、随分時間がかかってしまいました」
「アパートはどこだ?」
「…板橋の方です」
詳しくは教えたくない口調だった。しかし、ここからだと随分距離がある。暑い日差しの中を迷いながら、マンションを探し歩くケンジの姿が脳裏をよぎった。
「あのう…、お米少しと梅干し持って来たので、お粥炊いときました。気分良うなったら食べて下さい」
ドアの方へ行きかけ、あぁ、と足を止めた。
「電話が何度も掛かってましたけど、僕が出る訳にいかんかったから…、それじゃあ」
小さく頭を下げて寝室を出て行った。
ケンジが戻ってくれていた事にホッとしていた俺は、玄関のドアがパタンと閉まる音にハッとした。
ケンジ、行ってしまうのか?
慌ててベッドを降り、立とうとして膝から崩れる。這うようにしてドアに取り付き、ふらつく足で玄関まで行った。
「ケンジーッ!!」
俺、お前にまだ金を……いや、違うっ!
玄関のドアを肩で押し開け、廊下に走り出る。エレベーターホールまでの十数メートルがひどく長く感じられる。
床のノンスリップが裸足の足に冷たい。
「ケンジーッ! ケンジッ」
もうエレベーターに乗って下へ行ったのか?
二度ほど壁に肩をぶっつけながら走り、右手の角にあるエレベーターにようやく辿り着く。
丁度、チン、と開いたばかりのドアの前で、ケンジが驚きの表情で俺を見つめる。一緒に待っていた同じ階に住む重役夫人とかいう派手なオバさんが、濃い化粧の眉を寄せて、俺の頭からつま先までを不躾に眺めた。
ぼさぼさ頭で前がはだけたバスローブ、裸足のまま壁にすがり付いている俺に、ケンジが駆け寄って来た。
まだ好奇と非難の目を向けている重役夫人に目礼したケンジが、俺を抱き支えるように腕を廻した。
「長田さん、寝とらな駄目ですよ。まだ十分熱が引いてないのに」
ケンジは俺の右手を肩に掛け、脇に潜りこむようにして足を踏ん張り、歩くよう促す。体重を少しでも掛けると潰れそうな細い体が、今の俺には大きく心強い支えであった。
ケンジが床に膝まづき、ベッドに腰掛けた俺の足裏を熱いタオルで拭っている。
俯いたケンジの細いうなじを眺めながら、何と声をかけようかと迷っていた。
「……熱いタオルで体拭いてると、母を思い出すんです。妹の麻痺して硬うなった体を一日に何回も熱いタオルでほぐして、マッサージをする姿を。それが、お金をかけんと出来る唯一のリハビリやったから…。ひどいもんで母の細うて綺麗やった指は変形して、熱い鍋を素手で持っても平気なくらい手の皮厚うなって…。でも、その甲斐あって妹が九才の時、初めて掴まり立ち出来た時、母は手放しで大声を上げて泣きました。…僕も嬉しかったぁ」
ケンジの母を慕う気持ちが痛い。
それに引き換え、俺は肉親に対する情が希薄だと気付く。
月々の仕送りを欠かさず続けてくれた母に、感謝の気持ちなど一度も持たなかった。
家を追い出された時も、怒りの鉾先を父親達だけではなく、一人よがりの恋をしていた和春の方にまで向け、勝手に傷付いていた。
「はい、拭けましたから横になって下さい」
ベッドに横たわった俺の身体に薄い洋布団を肩口まで掛けると、洗面器を持ってケンジが背中を向ける。
俺は布団を跳ね退けケンジの手を掴んだ。
「行くなっ、ケンジ。…行くな」
驚いたように俺を振り向いたケンジは、少しこぼれた水を気にしながら、そっと洗面器をテーブルに戻し、ベッドの横に膝まづいた。
手首を掴まれたまま俺の顔をじっと見つめていたケンジが、ふっと身体の力を抜くと静かに微笑んだ。
「お粥食べれますか?。食べるんやったら温めてきます」
優しい響きに心が軽くなる。
「後でいい。それよりここに居てくれ。俺から見えない所へ行くな。ここに居ろ」
ケンジが頷くのを確認して、俺はようやく手を離し目を閉じた。
「それやったら、もう一度この煎じ薬飲んどいて下さい」
寝呑みに入った茶色い液を示す。
「そんなまずい物飲めるか。飲ますなら口移しで飲ませろ」
「なにを我が侭言うとるんですか」
否応もなく寝呑みの吸い口が差し込まれ、癖のある液体が喉に流れた。
ぶっ、まずいっ…。
裏葉草が揺れる頃(17)