フッといきなり覚醒した。
あの最悪だった気分の悪さはほとんど消えていた。
頭を動かしてみる。軽い。
左の指先に何か触れる。
短い髪の毛。ケンジがベッドの端に両手を組み、頭を乗せるようにして眠っていた。
そっと身体を起こし、スタンドの明かりを点け時間を確認する。もう夜の十時になろうとしている。もう帰ったかも知れないと思いながら事務所に電話を入れると、丁度帰り支度をしていたという川上が出た。
「遅くまですまん。庁への書類提出は問題無かったか?」
「はい、滞りなく。二・三の書類不足や手直しはまた後日言って来ると思いますけど、一日でも早く提出するに越した事はないですから」
役所仕事は提出するのが一日遅れると、結果が出るのは一週間先になってしまう。昨年、国土利用計画法が制定されると同時に設立された国土庁が俺の管轄官庁である。
労いの言葉と仕事内容への返事をした後、悪いが明日もう一日休む、と言った。
「夏の風邪はこじらせると厄介ですから、気を付けて下さい。お大事に」
たて込んでいる仕事にやきもきしながらも、いたわりの言葉をかけてくれる部下の思いやりがありがたかった。
電話を切り振り返ると、ケンジが寝ぼけまなこでボーッと俺を見上げていた。
「長田さん、もう良うなったんですか?」
ケンジは目をこすりながら立ち上がり、少しよろけた。
俺が肩を抱くようにして支えてやると、照れながら、えーと、熱は、と俺の額に手を当てる。
「ああ、すっかり回復した。あのまずい薬が効いたのか、ぐっすり眠れたからな」
…それになにより、ケンジが横に居てくれたからな。
俺の言葉にケンジが嬉しそうに
「じゃあ、もうお粥食べれますよね? 今、温めてきます」
ニコッと笑い、キッチンへ走っていった。
熱い粥を少しづつスプーンで口に運ぶ。唇にピリピリと沁みて痛い。俺が顔をしかめるのを見てケンジが、
「熱が高かったから、唇の皮が剥けてるんですよ」
と言った。
……ああそうだ。思い出した。
「ケンジ、お前俺の唇舐めてただろう?」
俺の言葉にケンジがうろたえ、赤くなり
「あ、あんまりカサカサで痛そうやったから」
もごもごと言い訳している。
俺はそんなケンジが可愛いと思った。心の底から愛しいと感じた。
生まれて初めて、心の純粋な部分で人を愛している自分を見つけ、そんな感情を持っていた自分を青臭いな、と苦笑しながらも、また好ましくも思った。
唐突にあの雑草が頭に浮かんだ。何とかいう名前だったか。
うら…、そうだ裏葉草…だ。
自分の裏面を光に晒し、堂々と根を張り、花穂を誇らしく揺らしていた雑草。
俺はあの雑草より劣るのは癪だと思った。
翌日、怯えるケンジを伴いサラ金事務所へ出向いた。
いかにもその筋の者らしい風体の若者が二人、だらけた格好で雑談していたが、俺を見たとたん顔つきがこわばり、警戒を露にする。
ケンジがどこか他の縄張りのヤクザを連れて来た、と勘違いしているようだ。
奥から出て来た責任者とおぼしき小太りの男に、ケンジの借用書及び利息計算の明細書を見せて欲しいと申し出た。
愛想笑いを浮かべながらも、それは出来ません、と突っ張ねる。
「そらオタクらもこれで稼いでるんだからよ、無茶は言わねえよ。だが俺が見て納得できる数字なら、今すぐ全額払うがどうだ?」
ヤツらは暫く奥の方でゴタついていたが、テコでも動きそうにないと見たのか、責任者が計算書を持ってきた。それは思った通り、月利30%の暴利の上複利計算で三百八十万近い金額になっていた。
「えらく豪勢な数字だな。悪徳金融もいいとこだ。こんな不法な利子まではらうこたぁないんだがな。まあそちらにも色々事情があるだろうし、そこで」
責任者の前にある電卓を叩いた。
「これが俺の納得できるギリギリの金利計算だ。承知なら今すぐ全額払おう」
ケンジが俺の背広の裾を、ギュッと握り締めている。
ズボンのポケットに両手を突っ込み仁王立ちしている俺を上目遣いに窺いながら、責任者は電卓を眺め、ケンジを見遣り、また俺を見上げ、しきりに額の汗を拭いながら断った場合の修羅場と数字とを天秤にかけていたようだったが、やがて
「解りました。これで手を打ちましょう。ただし、現金でお願いします」
渋々と承諾の言葉を吐きだした。
俺は現金百八十九万を支払ってケンジの借用書を取り戻し、支払いは終了した旨の念書も書かせた。そして、入り口を塞ぐようにたっているチンピラ二人を一喝してどかせ、ケンジの肩を抱いて事務所を後にした。
マンションに帰り着き、部屋へ入るなり、それまで一言も口を聞かず固い表情のままだったケンジが、床に正座し深々と頭を下げた。
借金の支払いに対する礼を述べ、今後は精一杯働いて出来る限り早く返却いたします、と言った。
あれはお前にやった金だから返さなくていい、と言うと、俺の真意を図りかねたのか、悲しそうな困惑した瞳で俺を見上げ、
「三十万は頂きますけど…後のお金は貰う訳にはいきません」
と、頑固に言い張って譲らない。
俺も床にあぐらをかき、ケンジの澄んだ黒い瞳を見据えた。
「あとの百五十九万は、俺からケンジへの結納金だ。黙って受け取れ」
用意していた訳でもない言葉が、自然に口からこぼれた。
「ゆい…結納金って、長田さん、何を…」
ケンジは口ごもり、驚きの目を見張った。
「それともケンジ、俺のこと…嫌いか? こんな乱暴な男、イヤか?」
ケンジは強く否定のかぶりを振り、小さく、嫌いじゃないです、と呟いた。
「そうか」
俺は知らず緊張していたらしい肩の力を抜いた。
「勿論お前と夫婦にゃなれねえけどな、兄貴にはなれるだろ?お前、弟になりたかったって言ってたじゃねえか。だから、これからは恋人兼兄弟だ」
ケンジの顔がクシャクシャに歪んだ。
「俺がお前の兄貴なら、お前の妹は俺の妹だ。一生俺も面倒みるよ。一緒に頑張ろう…な」
ケンジは俺にしがみつくと、胸に顔を押しつけ、声を上げて泣いた。
父が死んだ時も母の時も、泣く事が出来なかったというケンジが、俺の胸で号泣した。
「ケンジ…今までの悲しみや苦しみを全部、涙と一緒に流し出せ。俺がしっかり吸い取ってやるから」
麻のスーツの胸に滲んで広がっていくケンジの涙を見ながら、俺はケンジの耳元にささやいた。
裏葉草が揺れる頃(18)