ケンジと一緒に暮らすようになり、俺の生活と精神状態はすこぶる良好となった。
相変わらず仕事は忙しく、何日も帰れない日もあったが、そんな時は電話でケンジの声を聞く。優しい訛り混じりの言葉を聞くと、心が和み、疲れが癒される。
ケンジはインスタントや外食が苦手なので、こまめに料理を作る。外食の多い俺の体を心配して、野菜中心の料理や酢の物などで体調を整えてくれる。
ケンジが毎日掃除を欠かさないために色艶の良くなった部屋やベランダには、緑の鉢植えや色鮮やかな花のプランターが置かれ、殺風景だった以前の部屋が嘘のように優しいものに変わった。
玄関ホールには、ヴィーナスの像はもう無い。
以前欲しがっていたホテルのオーナーに、買った時の三倍の値で売りつけ、今はリゾートホテルのロビーに飾られている。
ケンジは俺の生活力に甘える事無く、軽費老人ホームや養護施設などで介護助手をしながら、夜間中学へ根気強く通い二十四才で卒業をした。
義務教育を受けていないことを、やはり気にしていたのだろう。
その後、学校の先生の薦めで、介護福祉士の資格を得る為の勉強と実習に励んだ。
以前は散髪代が安いのと整髪料が要らないという理由で短く刈られていたケンジの髪の毛は、俺の希望で耳が隠れる程の長さに伸ばされるようになった。柔らかい髪質のせいか自然にウエーブした毛先が額や首筋を縁どり、優しい面立ちを時折色っぽく見せている。
俺を相変わらず“長田さん”と他人行儀に呼ぶのが気に入らず“政大”と呼べと口を酸っぱくして言った結果“政大さん”と呼ぶことで妥協した。
そんな心地いい日々の中で気になるのは、ケンジが東京の生活に心からは馴染めない事だった。心は常にあの四国の辺境にあることは、口に出さなくても俺には感じ取られた。確かにケンジは都会には向いていない。
美しい山や水。綺麗な自然の空気の中でこそ、ケンジの感性はいきいきと輝くだろう。
それに妹の存在も大きい。
俺は、ケンジを故郷に帰すことに決めた。
そして悩みに悩み熟考した上で、俺もケンジと一緒にいくことを決意した。
もうケンジと離れて生活することなど、俺には出来ないと解っているから。妹の舞子の一生をケンジと二人で、背負って行くことを決めているのだから。
今手掛けている大きな仕事が終わったら事務所を閉め、マンションを売ってケンジと共に四国で暮らそう。
幸い助手の川上が、二年前に第三試験に合格して独立しているので、事務所を閉めることには何の問題もない。
だが、そうなると叔父にはきちんと話をしておかなければならない。このマンションを買うときも、独立して事務所を構える時も、融資や面倒な手続き一切を引き受けてくれた叔父に、黙って売り払う訳にはいかない。
年の瀬も押し迫った土曜の夕方。俺は仕事の接待などでよく利用している料理屋へ、叔父を招待した。
静かな奥座敷の堀ごたつで、鍋をつつきながら酒を酌み交わす。俺から呼び出して酒など呑むのは初めてなのに、叔父は泰然と構え一体何事だとも聞かず、静かに杯を重ねる。
叔父は俺がケンジと暮らしているのを知っている。
まるで保健所の抜き打ち検査みたいにいきなり訪れては、ケンジが淹れた緑茶がうまいと褒め、手料理を食べては懐かしい味だと喜んでいる。
叔父がケンジの事をどう考え、俺達の関係をどう思っているのか、叔父の表情や態度からは計り知る事が出来なかった。
俺は喉に引っかかりそうになる声を、咳でようやく押し出して言った。
「叔父さん。俺、あのマンションを引き払おうと思ってるんです」
叔父は盃を持ったままチラッと俺を見て、
「そうか。場所も住み心地も最高にいい所なのにね。一体どこへ行くんだね」
さして驚いたようでも無く穏やかに聞く。
「思い切って、四国の方へ行こうかと…」
叔父は少し目を丸くしたが、自分に納得させるように小さく頷いた。
「ケンジ君と一緒に行くんだね」
俺は黙って頷いた。
「そうか…。それが一番政大君にとっても、ケンジ君にとっても最良の選択なら、私は何も…。兄と義姉さんには私から、君が転居するという事だけ伝えておくよ」
俺はイヤな気分になった。
「叔父さん、親父達にずっと俺のこと、報告してたんですか?」
「ああ、現状報告だけ時々ね。両親とも政大君のことはとても気にしているから、安心させてあげるためにもね」
俺は穏やかな叔父の言葉にムカついた。
「嘘だ。あの親父が俺の事なんか、心配する訳がない!」
「政大君、それは違うよ。年が経てば経つほど、君のことが気になると言ってた。工場の業績が上がり、婿の功君が手腕を発揮すればするほど、政大君の事を思い恋しくなると。親心って魔訶不思議なものだね。私には子供がいないから、よく解らないけれども」
俺は静かに話す叔父の目を睨みつけた。
「俺に言わせりゃあ、自分達が安泰だから、高い所から俺を見下ろして、俺を哀れんでるとしか思えないけどね。……それより叔父さん。俺には叔父さんの方がずっと魔訶不思議だよ。俺とケンジのこと知っていながら、俺がゲイだって解っていながら、顔色一つ変えないで。俺達のこと…どう思ってるんです」
俺のイラついた声にも、叔父は少しも顔色を変えなかった。
「確かにね。初めて君のマンションでケンジ君を見かけた時は驚いたよ。その意外性にね」
あれが驚いた顔か?
「一目見て、普通の関係じゃないことも解った。だけどケンジ君を見ていて納得したよ。見た目は地味だけど、芯の強さと優しさを持ち合わせた魅力的な青年だ。特に目がいいね。純粋な綺麗な瞳だ。今の都会にあんな瞳をした若者は多分いないだろう。君が彼に惹かれているのは最初から解っていたよ。いつも無関心でクールな君が、ケンジ君と話している私に妬いてたじゃないか」
どうだね? と見られて反発する。
「叔父さんだって、いつも俺には無表情なのに、ケンジにはヘラヘラ笑っていたじゃないか」
「ああ、私もケンジ君の瞳には弱いからね」
当然のような顔をして叔父が言う。
「だけど政大君。私は良い傾向だと思っているよ。今だって私が君達のことをどう思っているか、気にしているだろう。人と折り合って行こうとしてる現れじゃないか? そして君は今、ケンジ君を愛する事で、自分が幸せだと感じているだろう」
それが全てじゃないか、と言われては納得せざるを得なかったが、まだ気分的に釈然としなかった。そんな俺の表情を眼鏡越しにじっと見つめていた叔父が、フッと口元を綻ばせた。
「政大君が裸になって自分を晒してるのに、私がネクタイをキチンと締めたままそんな言葉を吐いても、心から納得出来ないか…」
叔父は静かな小部屋の雪見障子を開け、石灯篭の灯が柔らかく照らす中庭を眺めた。
裏葉草が揺れる頃(20)