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「私が学徒動員で、中国の戦地へ行ったのは君も知っているだろう?」
「ああ」
 俺はたばこに火をつけて頷いた。
「私が戦地へ赴いた時はもう終戦間近でね、武器も少なく志気も堕ちていた。終戦間近になってソ連軍が進行して来て、日本軍は敗退を余儀なくされた。そんな中で私のいた小隊の生き残り数人が、負傷者の手当と食糧調達のために立ち寄った農家の家族を、ソ連軍に密告されないよう皆殺しにしたんだ」
「そんな事。日本軍は中国人に対して随分酷い事したらしいじゃないですか。その家族だけが特別な訳でも無いでしょう?」
 叔父は返答をせず、席に戻ると手酌で酒を含み、苦いものを飲むように顔を歪めた。
「その農家は両親と息子二人の四人家族だった。二日滞在して食糧を貰い、寝床を提供してくれたその家族を私達日本兵が殺した…」
 叔父が手酌で酒を呷るのを俺は黙って見ていた。
「出発する日の早朝、上官達は就寝中の主人を日本刀で殺し、奥さんを犯してから惨殺した。新兵の私はただ恐ろしくて震えながら庭へ逃れた…。そこには十七才の兄の方が古参兵三人に押さえ込まれて…血だらけの身体を容赦無く犯されて…、伊春という名前だった。その少年と私は年が近いせいか気が合ってね、伊春は私がまだ学生だと知ると、自分も戦争が終わったら大学へ行って教師になるつもりだと話してくれた。たった二日の間だったけどいろんな夢を語り合って楽しかった。血生臭い戦時下にあんな綺麗な瞳をみたのは初めてだった。…その伊春が」
 思い出すのが苦しいのか、叔父はコクッと唾を飲んだ。
「私はあまりのショックで体がその場から動かなかった。伊春は苦しそうに虚ろな目を一杯に見開いて…。その目が私を探すように動いた…。私は夢中で覆い被さっていた軍曹に体当たりをしたが、反対に殴り飛ばされた。『新兵、大人しく待ってろ。俺達が済んだらお前にも犯らせてやる。逆らったら銃殺刑だぞ。』そう言いながら銃の背で殴りつけられ気が遠くなったんだ…」
 情け無いよね、と叔父は自嘲の笑みを片頬に浮かべた。
「蹴り飛ばされて意識を取り戻し伊春を見たら…、殴られ骨折して変形した身体、口は舌を噛みしめ血が溢れ、大きく見開かれた目には涙が一杯溜まっていた。そっと、目蓋を閉じてやると、それがはらはらとこぼれ落ちた。もう二度と、あの澄んだ黒い瞳を見る事は出来なくなったんだ…。結局私達全員、ソ連軍に捕まりシベリアの収容所送りになった」
 叔父は何かを沈めこんだ静かな表情で話している。
「冬は零下四十度の極北の地で強制労働に耐えながら、伊春の事ばかり想っていた。―自分はあの時、上官達を殺してでも伊春の命を救うべきだった…。私はずっと後悔している。中途半端に何もしなかった事への後悔。これは救いのない辛さだった。しかし、この辛さと自責の念のおかげで、地獄のような収容所生活にも私は耐えられた。劣悪な診療所で麻酔も無く足の指を切断した時も、伊春の痛み、苦しみを思えば耐えられた」
 叔父はふと表情を和らげた。
「私はその年齢まで恋愛経験が無かったし色事にも疎かった。伊春を想う事で辛い現実から逃避していたのかも知れないが…、毎日伊春の事を繰り返し想い、もう一度逢いたいと願っているうちに、私は伊春に恋をしてしまっていた。…女のように犯されていた姿を思い出し、不謹慎にも欲情して苦しんだ。私はこの想いを告げる事も出来ない、目の前で死んでいった少年に、生まれて初めて恋をしたんだ」
 叔父はぐいっと杯を干し震える息を吐いた。
「四年目に日本へ送還された時、舞鶴港でまるで英雄か何かのようにもてなされ、私はとても心苦しかった。なまじ兄に『敵国の捕虜になってまで生き延びて、命汚い奴だ』と怒られた時、少し救われた気がしたんだよ」
「嘘だろっ!? 親父は兵役を逃れていながら、よくもそんな事が言えたもんだよっ」
 俺は吐き捨てるように言った。しかし叔父は静かに首を振って、違うよと言った。
「兄はあの時、余り丈夫でない私の代わりに自分が徴兵検査受けるから、お前は学校をやめて工場の面倒をみろって言ってくれた。私が断ったんだ。若気の至りで青っ白い文学青年が愛国心に燃え、戦争にロマンを抱いていた。馬鹿な男だろ? …戦争を甘く見ていた。兄が怒るのも無理ないんだ」
 俺が親父を嫌う理由の一つでもあった出来事が、事実は違うものだったのか?
 俺は脱力しながら叔父の顔を見つめた。
「そういう訳で、未だに私は伊春への想いを引きずっている。年月など何の解決にもならない。…今でも伊春によく似た面差しの少年に出会うと胸がときめく。白状すると、何度か金で買ったり恋人にしたこともあるんだ」
 俺は今度こそ心底驚いた。あのいつも穏やかで、その実不可解だった叔父の隠された部分を知って…。
「満津子叔母さんは、このことを?」
 叔父は初めて、悲しそうな顔をして頷いた。
「いつも思っていたよ。申し訳ないと。満津子は上司に強く勧められた見合い結婚だった。結婚すればどうにかなると思ったが…、夫婦の交渉は持てないままだった。満津子は、戦争で婚約者を亡くし嫁き遅れていたのと、年上なのを負い目に感じていたのか、一言も私を責めなかった…。それが一番申し訳無くて辛くて、つい本当の事を言ってしまった。けれども、満津子はそれでも良いと付いて来てくれた。今では、かけがえのない伴侶だと思っている」
 叔父は、胸につかえていたことをすべて吐き出した安堵からか、ほう、と息を吐いて、俺を見つめてきた。
「私は…、政大君とケンジ君を見ていると、本当に良かったなって思えるんだよ。二人が幸せになってくれる事で、私の不幸だった恋も少しは報われるような気がするよ」
 叔父は少し淋しそうな笑顔を見せた後、気分を変えるようにパシッと膝を叩いた。
「とにかく、マンションと事務所の売却の件は私に一任してくれないか。政大君に有利な条件で処分できると思うから。君は、ケンジ君を幸せにしてあげることだけ考えるんだよ。いいね」
 叔父は眼鏡を外し、俺の目をじっと見ながら、湯気で曇ったガラスをハンカチでゆっくりと拭いた。
「そう言えば、ケンジ君を初めて見た時、彼の黒い綺麗な瞳は、伊春にそっくりだって思ったよ」
 俺の不穏な一瞥を、叔父は丁寧に拭った眼鏡のガラス越しに受け止めた。
「ケンジ君がもしも不幸になるような事が有ったら、私が頂いてしまうからね」
 無表情な顔のままでサラリと言う。
「一生ないよっ。叔母さんに言いつけるぞっ」
 俺の睨みを、叔父は雪見障子に流した。
「あ、やっぱり雪がちらつきだしたね。もうお開きにしよう。ケンジ君が部屋を暖かくして、君を待っててくれてるんだろう?」
 その一言で、俺の怒りの矛先を容易く逸らせてしまう。
 やっぱりこの叔父は、不可解で苦手な存在だ。

裏葉草が揺れる頃(21)
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