クーラーの人工の風とは違う爽やかな冷気に肩を撫でられ目が覚めた。
ベッドにケンジの姿は無く、昨夜の狂態を物語る汚れてしわくちゃになったシーツと、素っ裸の俺が転がっているだけだ。
のっそりと起き上がり、バスローブを肩に引っ掛けた。
まず最初に頭に浮かんだのは、アイツが「十日も耐えられない」と逃げ出したのではないかという事だった。
しかし、一応トイレや風呂も探してみようとリビングへ入った時、ベランダの白いレースカーテンが風に揺らめいているのに気が付いた。
そっとベランダがよく見える所まで近づく。
ケンジは手すりに両手を置き、遠くを眺めているようだ。
―あいつ、まさか飛び降りるつもりじゃ―
だが下手に声を掛けて、短慮な行動に出られても困る。騒動はごめんだ。
ケンジの姿がよく見える位置までスツールを持って行き、腰掛けて暫く様子を見ることにする。
東南に向いているこの十六階のベランダからの眺めは最高だ。今はビル郡に邪魔されて見えないが、入居当時は東京湾がキラキラと光り、屋上へ出れば富士が望めた。
すぐ近くの公園を早朝ジョギングしていた習慣もいつのまにか立ち消えになり、すっかり夜型人間になってしまった。
排気ガスやビルの輻射熱、過酷な都会の夏も今のこの時間だけは、冷ややかで清浄な空気に包まれている。
そんな夜明け前の青い空気の中で、ケンジがゆっくりと両手を広げ顔を空に向け、じっと立っている。
まるで、冷気のシャワーを全身に浴びて吸収しているようだ。
パジャマがわりの大きなTシャツ。
細い両腕の内側がひときわ白く透き通り、その手首に赤黒い縄跡が目だつ。
反らされたきれいな背中、Tシャツの裾からまっすぐ伸びている足、人工芝を踏みしめる細い足首。
時折吹く朝風にレースが揺れて、ケンジの姿に霞をかける。
やがて雲が赤く染まり、太陽が顔を出し始めた。雲間からゆるゆると抜け出てくる太陽は、まっ赤で驚くほど大きい。
ケンジは暫くじっと眺めていたが、直立すると太陽に向かって小さく柏手を打ち、頭を下げ何事かを拝んでいる。
もう一度手を打ち深々と頭を下げると、ホゥと小さく肩で息をつき、太陽を眺めた。
太陽はみるみる高く昇り色も薄くなり、いつもの見慣れた姿となる。
くるりとこちらを向き部屋へ入ろうとしたケンジは、俺に気づき一瞬動きを止めたが、目を逸らしたまま前を通り過ぎた。
歩くのが辛そうだ。
まあ、ゆうべもだいぶ痛め付けてしまったから、機嫌が悪いのも無理ないか。
ソファにそろりと腰掛けたケンジに話しかけた。
「お前四国の山育ちらしいけど、若いのに随分と古風な事するんだな。それとも太陽崇拝の信仰者か?」
ケンジは小さく、違います。と言って横を向いた。
気まずい沈黙に俺はたばこをふかしながらすっかり明るくなった外へ目をやる。窓ガラス越しに見た太陽はもう鈍い銀色に光り、今日も一日暑いぞ、と主張していた。
それからも日中はクーラーの効いた部屋で書類の山との格闘、食事は出前で済ませることが多く、気が向けば外食をするが、ケンジはあまり外出を喜ばない。人慣れしていないというか、都会の雑踏も、他人の前で 食事する事にも、ひどく抵抗があるらしい。
その代わりというか、家の中ではじっとしているのが苦痛らしく、俺が仕事をしている間は、洗濯や掃除を細々とやっている。
掃除など俺はたまに、掃除機をかけモップでさっと床を撫でるだけだが、ケンジは堅く絞った雑巾で拭き、もう一度空拭きする念の入りようだ。
それも、30畳のフローリングを学校の廊下よろしく四ん這いになって尻を上げ、トコトコと行ったり来たりしているのが、仕事中の俺の目の端に入り、ついその突き出された小振りの丸い尻に見とれて、手が留守がちになったりする。
俺の書類の乱雑さを見かねて、仕事の終わりには俺に指示を仰ぎ、写真の糊づけや、用紙をクリップで閉じたりと、丁寧に書類を仕分けしている。
俺は毎晩欠かさずケンジを抱く。まるで猿のようだと自分でも思うが、覚えたばかりの快感は病みつきになり、ケンジのしなやかで柔軟な身体に夜毎溺れた。
朝、太陽を拝むケンジの儀式は続き、俺にどんなに酷く責められた後でも、晴れた日は這うようにしてでもベランダに出た。
まるで俺に汚された身体を、朝の清浄な空気と赤い太陽に、清め癒して貰うように…。
俺は仕事が一段落した後、意地悪く聞いてみた。
「お前、そんな朝早くから太陽の顔を見る為に起きるより、その分寝ていた方が身体の為になると思わないか?」
ケンジは少し顔を傾け考えたあと
「東京に来て間もなく三年になるんですけど、自分の位置より低い所から昇って来る朝日をここに来て初めて見たんです。そうしたら…故郷を思い出して…、僕、山では毎朝雲海から顔を出す太陽をずーと拝んでたから」
「ふーん、変わってるなお前。お前の田舎って、四国のどんな所だ?」
俺は自分の過去を詮索されたくないので人のプライベートも立ち入らない主義なのだが、ケンジのどんなに汚しても汚しきれない清冽な神秘性に興味が沸いた。
「僕の故郷は祖谷なんです」
「イヤなんです?。なんだそりゃあ」
ケンジは少しはにかんだ表情で、
「徳島の山奥で、先祖の祖と谷と書いて祖谷っていう所なんです。四国の真ん中を背骨のように通っている、四国山脈の中で僕は生まれました」
俺は仕事柄いろんな土地へ行ったが、残念ながら四国はまだ行った事がない。
「そういやぁ、四国の秘境とか書いてある吊り橋の観光ポスターを駅で見た事あるぞ。あそこか?」
「ああ、かずら橋の事ですね。あそこも祖谷ですけど、僕の住んでいた所からは祖谷川の遥か下流の方で、自動車道も通ってますし、別に秘境じゃ無いですよ」
「ふーん、えらく辺鄙な場所に住み着いたもんだな、お前のご先祖さんは。俺は地方の小都市だけど町なかで育ったからなぁ。もっとも、十六の時勘当されてからこっち帰ってないが…。それからずっと東京暮らしだから、そんなとてつもない山奥の生活なんぞ想像もつかん」
山の冷気と清々しい空気の中で育ったであろう筈のこの若者が、なぜ薄汚れた都会で借金を抱え、汚れた空気にまみれ、俺からの陵辱を受け入れているのか。
そしてまるで酸欠の金魚のように、朝の清冽な空気で辛うじて蘇生しながら、這いつくばって生き長らえねばならないのかを、俺は知りたいと思った。
「お前、親は居るのか?」
目の前にひっそりと座っている細い身体が少し揺らいだ。
「…父は六年前に、母はもうすぐ三回忌がきます」
「両親共いないのか。兄弟は?」
「五才違いの妹が一人います」
「まさか、そんな山奥に一人いる訳ないよな」
「はい…、病気で…地元の病院へ入院して、もうそろそろ十年になります」
ここまで聞いて俺は、こいつの借金地獄はこれかと思った。よくある話だ。家族の為に犠牲となる健気な孝行息子。
ひと昔前の人情咄の世界、俺には到底理解出来そうにもない話だが、切り出した以上は一応聞いてやらなきゃあな。
「そんなに長期の入院なんて大変だな。何の病気なんだ?」
ケンジは、俺が急にプライベートな事を詮索しだしたのを、少し警戒するような固い表情で見つめていたが
「妹は六才の時、生まれて初めて阿波踊り見物に町へ行って、ウィルスに感染して小児麻痺ポリオ(急性灰白随炎)になってしまったんです」
決心したような厳しい目で話すケンジ。
「ポリオ?じゃあ全身麻痺か?。今はワクチンが義務付けられてるらしいがな。山奥じゃあそんな物もないか」
「ええ、…そんな存在を知ったのもずっと後の事で…。病院の先生から聞くまでは、何代にもわたって略奪婚や近親婚が続いたもので、死産や身体の弱い者が出るのは仕方無いんだと諦めて、と言うか、宿命だと…」
俺は少なからず驚いた。
「このご時勢に略奪婚?いくら山奥だからってお前、近親婚もだけど…考えられねえよ」
ケンジは寂しそうに微笑み
「僕も妹があんな病気になるまではこんな都会の生活も、ましてや自分がこんな所で暮らす事になるなど、夢にも思いませんでした」
と、少し自嘲気味にやり返した。
「妹の病気は宿命だとは諦めなかったって事だな」
「父は、妹をとても大事にしていたから…。
最初は咳と微熱が続き風邪だと思って薬草で治そうとしたんですけど…、異常に気が付いて丸一日歩いて町の病院へ運んだ時は手遅れ状態で、チアノーゼと全身硬直で息をしているのが不思議なくらいだと、医者に言われました」
どうも俺は不摂生している割には医者とは無縁で、したがって医学の知識もゼロで…
「それで、今、妹はどうしている?」
「町の小さな病院では手に負えなくて、徳島の大学病院へ入院しています。胎児性の脳性麻痺と違って、増える髄液を抜き取りながらリハビリを根気よく続けたせいか、おかげさまで、今はだいぶいいようです」
まるで俺のおかげであるかのように、俺の顔を見てニコリと笑った。
初めて向けられた笑顔に、俺は何故かドキリとする。頼り無く見えるおとなしく整った顔が、優しく崩れ可愛い表情になった。
「それにしたって、いつからそんな辺鄙な山奥に住んでいるんだ?」
心の動揺を悟られないように、そっけ無く聞く。
「えーと…、もう、8百年も昔から住んでるらしい…ですけど」
「8百年も前って言ったら、何時代だ?」
「さあ…、僕は…義務教育もきちんと受けて無いですから…」
今度はまるで悪い事をしたように小さくなっている。やれやれだ。
「とにかくその大昔、お前のご先祖が住み着いたのが8百年前だったってのが、どうして解ってるんだ?」
「それは…ですね、壇ノ浦の合戦で源義経に敗れた平教経が、その責を負って父教盛りと共に入水する時、僕の先祖、長曽我部嘉門に後追い入水を禁じ、直衣の片袖に頭髪と脇差し一振りを包んで渡し、この形見をどこか人里離れた山に埋め、お前は是非この形見と共に生き延びよ、と言われたそうです」
もう何十回、何百回と聞かされてきたのだろう、すらすらと答えた。
「と、言うことはつまり何か?お前の先祖は話に聞く『平家の落人伝説』ってやつか?」
「別に伝説でも架空の物語でも無いです」
ケンジは真面目くさって答える。
「だけどなぁ、そんな形見を守る為だけに何代にもわたって不自由な生活を続けてきたのか?、俺には信じられねえな。第一お前その形見とかって見た事あるのか?」
まだ半信半疑の俺はタバコに火を付け、フーと盛大に煙を吐き出す。顔の前で渦を巻いた煙にケンジがむせながら、頭を横に振った。
「家の前に小さな祠が有って、そこにお祀りしてあるとしか…」
俺は性根が捻れているのだろう、こういう純粋な人種の生き方は理解出来ない。
「主君が無念の入水をしたのが二十五歳、形見を託された嘉門は二十二歳でした。今の僕より一歳上だけです。その若さで後追いも許されず形見を抱いたまま、酷い山奥で生き抜いたんです。その心情を思うと我々子孫は、勝手に自分達の代で山を捨て去る事は出来なかったんです」
俺はもう反論する言葉が無かった。
裏葉草が揺れる頃(6)