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ESCAPE
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 ケンジが来て一週間が経った日の午後、玄関のチャイムが鳴った。
 嫌な予感がしながらドアスコープを覗くとやはり叔父だった。まずい時に来られたと舌打ちしたが、冷静な叔父のことだ、事務所に居ない事も地下駐車場に有る二台の車も確認済みでの訪問だろう。
 午後のきつい日差しの中を歩いて来たらしい叔父の額の汗を見れば、戸口で追い返す訳にもいかず、渋々中に招き入れた。
 リビングに入って行きながら、うかつにもケンジの存在を隠す暇も誤魔化す知恵も無いままだったのに気が付いた。
 ケンジはベランダに出て、リビングとの境の大きなガラスを、丁寧に磨いている最中だった。
 外側から眺め内側から眺め、忙しく出入りしながら汚れや曇りを見つけ、息をかけては何故か新聞紙でキュッキュッと拭いている。
 まさに外側からハァッーと大きく口を開け、息をかけた時、叔父が部屋へ入って行った。
 ケンジは大口を開けたまま固まり、叔父はガラス窓にへばり付いている見知らぬ若者に、顔を強張らせた。
 しかし、それも一瞬だけで、叔父はすぐにいつもの無表情に戻り、説明しろと俺を見た。
 俺はケンジを呼び寄せた。
「えーと、彼はケンジ…、長曽我部剣児君。今ちょっと雑用やって貰っている。ケンジ、この人は俺の叔父貴。十六のとき勘当されて以来の身元引き受け人兼監視係」
 俺のいい加減な紹介に
「は、初めまして。あの、僕、長曽我部剣児と申します。よろしくお願いいたします」
 ケンジがしどろもどろで頭を下げた。
 大き過ぎるTシャツの衿ぐりから不埒な赤い斑点がいくつも見える。新聞紙を握り締めている両手首の縄跡もまだ紫色に残っていた。
 俺は、冷や汗が背中をツーと流れ落ちるのを感じながら、叔父を見た。
 叔父は、眼鏡越しの表情を別段変えるでもなく、
「初めまして。政大の叔父、長田政治です」
 と丁寧に挨拶を返した。
「このすぐ近くの取引先まで用事でね。早く済んだものだから、久しぶりに政大君の顔を見て行こうと思って寄ったんだ」
 叔父はソファに腰を下ろしながら、額の汗を拭いた。
「しかし、政大君がこのマンションで誰かと居るのを見たの初めてだから、驚いたよ」
 と、俺ともケンジにともなく言った。
「ちょっと書類の整理とか雑用とか、手伝って貰ってるんですよ。彼すごく几帳面でよく気が付くから助かってます」
 後ろ暗さから、つい余分なことを言ってしまう。
「ああ、そうらしいね」
 叔父は澄ました顔で、まだ丸めた新聞紙を持ったままのケンジの手を見て頷いた。
「政大君、何か冷たいもの一杯、ご馳走してくれないかね」
 催促されて、慌ててキッチンに向かった。

 大手銀行に勤める五十四歳のこの叔父は、本当に俺の親父と血が繋がっているのか、と疑う程タイプがまるで違う。
 俺の親父は、熊体型の図体とそれに似合った豪胆と言うか傲慢な性格。事業の腕も確かだが遊びの方も派手で、年中母と揉めていた。
 叔父の方は物静かで、眼鏡が冷淡な印象を与える端正な面立ち。長身痩躯の身体にいつも仕立てのいいスーツを着こなしている。
 年上女房の満津子叔母との間に子供はいない。そのせいか、家を追い出された俺を兄から押しつけられても嫌な顔一つせず、面倒見てくれた。
 しかし、過干渉はせず、時折ひょこっと訪れては無表情のまま俺の顔を見て、何も言わず帰って行く。
 俺にとっては、唯一不可解で苦手な人物だ。

 氷を浮かべたアイスティーを三つ盆に乗せ、リビングへ行くと、叔父はケンジとなにやら楽しそうに話しをしている。
「そうか、ケンジ君は徳島の祖谷出身か。珍しい姓だと思った。私は以前高松支店にいた時、高知の龍河洞へ行くのに渓谷沿いにずっと車を走らせながら、なんて幽玄で美しい所だろうって感動したけれど、そのまた山奥じゃ生活していくの、容易じゃなかったろうね」
 俺はなんとなく面白くない気分で、二人の間にアイスティーをドンッと割込ませた。
「叔父さん、冷たいの飲んだらさっさと帰れば。油売ってると定年前にクビになってしまいますよ」
 嫌みを言ってやる。
「まあ汗の引かないうちに追い出さなくてもいいじゃないか。フォションか。うん旨いね」
 珍しく饒舌な叔父を俺は呆れながら見ていた。ケンジを見る目が、微かに和んでいる。 
 いつもの無表情はどうした?
 楽しそうな二人を見ながら、俺は一人、ムスッと黙り込んだ。

 叔父が機嫌よく帰った後、ケンジが迷った末に、
「あのう…、おじさん、足を、どうかされたんですか?」
 と遠慮がちに聞いた。
「なんだお前、叔父貴の足の具合悪いの解ったのか?普通は気がつかないぞ」
「ええ、…靴を履いている時なんかは全然解らないですけど、スリッパで歩かれる時に、少しだけ引きずる感じがしたから…」
 鋭い観察眼に俺は内心驚いた。
「シベリアに抑留された時に凍傷で両足の指三本を切断したんだ。だけど、義指を付けてるし、足が不自由なんて解った人間今までいないぞ。俺も叔父に見せられるまでは知らなかったんだから」
「やっぱり、妹の姿をずっと見てきたから…人より敏感なのかも知れません」
 そう言って、ケンジは恥じらうように微笑んだ。
「だけど、長田さんの叔父さんって、すごく感じのいい人ですね」
 ケンジの潤んだような黒い瞳が俺に向けられた。
 俺の中の何かどす黒いものが、腹の中に沸きあがる。
「お前、叔父貴に惚れたか?お前のような手合いには魅力的だろうなあ。スマートだしエリートだし、俺と違って優しそうだしな」
 毒の有る言葉が吐き出され、ケンジと自分を同時に傷付けていく。
 俺が急に不機嫌になったことに、ケンジの顔が驚きの表情から少しづつ不安気なものに変わる。
 そして俺の嫌いな、だが、執着してやまない黒い瞳が揺れる。
 もやもやをふっ切るように、嫌がるケンジの服を脱がせ、強引に浴室へ引きずりこんだ。
裏葉草が揺れる頃(7)
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