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 心の容れ物が、太陽のようにとうの昔に市民権を得たものであるならこの話しは終わりであるが、幸いなるかな(?)、世間には人知れず十字架を背負い、生活している奴はゴマンと居る。

 人によってそれは眼鏡であったり(友人のT君へ、別に君の嗜好を非難するつもりは有りません。)メイドさんであったり(N君とO君へ、以下同文)デジキャラであったり(先述とはまた別のN君へ、以下同文)無骨なロボットであったり(三人目のN君へ、以下同文)ときメモであったり(Hさんへ、以下同文)であったりする。

 かように、混沌(カオス)の領域に勇ましく進んで行った友人諸氏がなんと多い事か!
 しかも彼等は一向にその性癖を隠していない。

 キリスト教徒にとって、聖霊と神とイエスが次元を超えた三位一体であるように、それぞれの人にそれぞれの一体感がある。んで、その一体感へと向かうベクトルをだれしも容易には止められるものではないだろう。

 進歩は常に異端から兆しを見せる。自分の目指す先が偏見や無理解により高く感じても、それは決して物理的な高低差のせいではない。
 高度を感じるのは自分自身に高さを感じる能力があるからで、それは距離の問題ではない。つまり己に内的な変化を促がす力があると信じるのである。
 そして、十字架の重みは常に自分のものとなる。

 私は常に十字架を背負えと主張したい。誤解と偏見で一生を終えても心配する事は無い、死んだら全てがゼロに戻るし、うまくすればその分野のパイオニアとして名が残るかもしれない。
 生きるだけなら動物で充分だ、しかし、人としてなら不足だ。


そんなわけで私が小さい女の子に興味を向けても、極めて人間的な行動と言えるのではないだろうか? ドットハライ。




 いきなり危ないタイトルで申し訳ないが、異星人に特別の思想があるワケではない。デビット・ボウイの宣伝映画のタイトルがそれである。

 高校時代の私はいつかはデビット・ボウイのように「俺は宇宙から来たんだ!」と堂々と叫ぶ事の出来る漢になりたいと思っていた。
 黒板にデビットボウイの歌詞を書き、卒業論文にはボウイを称える韻文 をのせたボウイ熱はドアーズに遭遇するまで続いた。

 そんな私も今は23歳になり、昔を振り返ると今とぜんぜん行動のベクト ルが変わっていないことに気付く。行動の上には情念があり、言動は感 性に任せるままドリフトを続ける。

 例えば、「あの鉄塔は金星の電波を受信して、周囲の人間をコントロー ルする」とか、「幼い頃に神に会ったことがある。」だとか、「物理法 則には限界があるが、妄想には無い。」etc・・・。


 宇宙から降りてくるのも結構ですが、その足は未だに地表に届いてない ようです。 
 ドットハライ。




 より正確な人間の分類学上の地位は、「動物界脊椎動物門哺乳鋼 真獣亜鋼正獣下鋼霊長目真猿亜目ヒト上科ヒト科ヒト属ヒト、種名ホモ サピエンス・サピエンス」と表記される。
 普段は意識しないが、我々人間は動物界という世界に規定され、その中 でも脊椎動物であり、哺乳類であり、霊長目であり猿の亜種であるヒト であるらしい。

 ヒトの分類をどんどん遡って行くほど、生物の範囲は広範になり分類は 大雑把になり、やがては原始の動物へとたどり着くわけである。言うな れば進化史のパノラマだ。
 分類学の祖はリンネであるが、彼の作った分類法に従い存在が規定され る生物のなんと多い事か。


 さて、生物が体の構造や動作の有無で分類されている一方で、人間に は遺伝子から解き放たれた精神活動という物がある。我々人類は今まで 創造してきたメディアの中で架空の人間を作り出してきた。その人間を を分類学をもじって規定してみると以下のようになる。


 柏木初音

 仮想現実界電脳美少女門18禁亜鋼妹下鋼葉っぱ目痕亜目異星人上科鬼科 柏木属初音





  自分は旅行好きの人間であり、周囲の人間には良く知られた 事実である。大学一回生の夏に新彊ウイグル自治区を訪れてからは 西蔵や雲南省、タイ、ラオス、ネパール、カンボジアと旅の目的地は 中国からどんどん南下して、インドシナ半島に向かってしまった。その 最たる理由はタイに世界有数の安宿街カオサンロードが有るからである。

 タイはバックパッカ−には人気が有るその理由は

1、入国時には日本人はビザが不要で30日以内の滞在許可が貰える

2、飛行機のチケットが安く、バンコクで目的地へのチケット買うための
  経由地として利用する。

  3、カオサンロードは世界中から旅人が集まるので、これから訪れる場所
  の情報が集めやすい。

 その他、交通網が整えられている、外国人が泊まれる安宿が多い、飯が うまい、パッポン(世界最大と言われる売春街)がある、○リファナが 吸える(非合法です)、LSDが手に入る(もちろん非合法です)、ロリー タが買える(絶対やっては行けません)等などいろんな理由のおかげで タイは旅行者にとって過ごしやすい場所であるわけだ。

   そんなわけで、わたしの旅行もタイを経由するか、中国から入国し、 陸路で国境を超えて最終的にはタイのカオサンでダラダラするケースが多い。 カオサン経験者にはわかるだろうが、この異国の地でダラダラ過ごすと言う 感覚は、例えようの無いまったり感が得られるのである。
 日常で味わう全ての煩わしさをを忘却して、自然と日々の移ろいに身を委ねる 至福は日本では絶対に得る事が出来ない。この状態をバックパッカ−用語では 「沈没」と言う。

 「沈没」の起源は個人旅行者のバイブルと言える「ゴーゴーアジア」や 「ゴーゴーインド」を著作した蔵前仁一から来ている。
 故に、沈没と言っても深く静かに潜行する訳ではなく、急いで救命ボートに 乗る必要がある訳でもない。ただ、本当の沈没とよく似ているのは、サルベージ が困難である一点のみだろう。

 「沈没」と「麻薬」は良く似ている、どちらもそれを止める事が出来る のは本人しかいないと言う意味において。大半の旅行者にとっては、旅は 到着するまでが楽しいのであって、着いた先には旅の終わりが控えている。 移動には時間もお金もかかる(実際、舗装された道路の有り難味が感じる 地域はたくさん有る)し、手間もかかる。予定通りに発車しないバスや、 吹っ掛けられる運賃との戦いが煩わしいのもまた旅である。
 それに実際のところ、旅行に一番お金がかかるのは滞在費ではなく、移動費 なので、ポイントを決めてその土地土地でまったり過ごせれば。長期間の 旅行が可能になるワケであり、移動しない滞在型の旅行者は多い。

 私も予定が無いのに、一日また一日と滞在を伸ばした経験がある。 そんな時は時間の流れがゆっくりと感じ、一時間もかけて朝食を食べ たり、ぼんやり町の景色を眺めていたりした。

しかし、今思うとそれは、全てを曖昧にしていたせいかもしれない。 学生である自分や、バイトしている自分、男である自分、二宮哲平 である自分を全て日本に置き去りにして、まったく違う自己が浮上 してくるのである。長期間、異郷にいるとそれまで規定されていた 周囲から解放される。その次には全く新しい状況下で自分が形作られる。
 だが、旅で得られる人格は仮初めのものに過ぎない。私はタイで一生 過ごす積もりはない、日本に残した全てを忘れるのは解決策ではなく 延命策だ。それと反対に、旅行での経験が全て嘘と言うわけではない。 旅行で得た経験が自分の内部に何らかの変化を及ぼす可能性は否定でき ないし、脳には確かに忘却する機能がついているが、空港に着いた時点で 安易にリセットボタンを押せるほど簡単に制御出来る代物でもない。

 これは旅行中にも同じことが言えると思う。例え「沈没」中に自分 の輪郭がぼやけることはあっても、そのまま日本に戻るのではなく、 やっぱり輪郭は整理されるだろうと思うが、周囲の人間は自分に対し 今までと同じ反応をするだろうか?自分が気付いていないだけで、何 らかの変化があり、これから自分はそれと折り合いをつけて生活して 行くのではと思う。


 ただギャップが生まれた時に人は戸惑うだろうが、別に旅行の話題 でなくても良い。人生で良く直面する場面である。それがどうしてこ んな長ったらしくなったのかはさっき読んだ「ブギーポップ」の影響 です。

 ドットハライ 




 今日、久しぶりにデビット・ボウイの「Ziggy Stardast」を聞いていた ら、昔つきあっっていた彼女(ごま団子落として別れたアレです)を 思い出した。このアルバムは彼女に貸したまま、高校卒業して以来 会ってないので、結局、私の手元には帰って来なかった。 (今ここに有る「Ziggy Stardast」は彼女から返してもらったではなく、 元町の中古屋で680円(激安!)で購入した物である。)

 その代わり私のほうにも、彼女から借りたままになっている「筋少の 大回転」があるが、昔の私は日本語の歌詞に感情移入できない人間 だったのであんまり聞いていないが、「大回転」に収録されている 「踊るダメ人間」は彼女のイメージにぴったり来るのでなんとなく覚え ていた。まさしく性格破綻者のような言動で周りの人間に動揺を与える のを得意とするダメ人間だった。エライ言い様だがその点は彼女も自覚 していたが、その自覚が何ら助けにならないのもやっぱりダメ人間だと 思う。言うなれば確信犯タイプだ。

 以下の会話はそんな彼女と私が交わした日常の一端である。

 彼女「ねえ哲平、電波は何処から来るか知ってる?」

 俺「金星から来た蜘蛛型宇宙人が流してるそうやな」
   注)デビット・ボウイの名曲「Star Man」参照

 彼女「違うで、ほんまはイギリスに居んねん」

 俺「ホンマか?」

 彼女「うん、イギリスに鉄塔の中で生活している男がおってな、そいつが    一番始めに電波とか言い始めてん」

 俺「へー」

 彼女「その人は電波の命令で鉄塔にに住み始めて、電波を送受信する為に
    鉄塔の中に居とかなあかんねんて。それが世界中に広まったんやて。」

 俺「はー、それすごいな」

 彼女「すごいやろ」

 俺「でも、俺らそれに対抗せなヤバイな」

 彼女「そうやな、でもどうやって対抗する?」

 そんなわけでイギリスの鉄塔男への対抗策として、互いにCDを貸し 会ったわけです。

ドットハライ




 ミームとはロシアの宇宙ステーションではなく、ムーミンの従兄弟 でもない、正確に言うとイギリスの都市伝説に登場する精霊である。

 だが、ミームは精霊というには少しやさしい表現で、その本質は悪霊 といってもいい。
 ミームの恐ろしさは、子供をかどわかして自分がそれにとって変わ り、生活を続ける所にある。当然、親は気付かないまま何年も過ご しある日、突然居なくなる。であるから、子供の失踪事件が起こると 親は「あれはミームの仕業だ」と言って、無理やり納得する次第であ り、言ってみれば、悲しい人間心理が働いた故に生まれた魔物と言え よう。
 近年の研究では「means(意味する)」が訛って、ミームへと形を 変えたとされている。子供が存在したと言う意味が失われ、ミームは その空白を埋める為の仮想の存在として生まれ。親は子供の不在を超 常的な霊によって意味付けを行う。この説からミームは 「不在の 魔物」と言う二つ名をつけられている。

 イギリスはキリスト教圏では珍しく民間伝承が根強く残った国であること から民衆が異形の存在を受け入れ易いお国柄でもある。産業革命期に は子供が鉱山の労働力として利用され、各地で子供の人身売買や失踪、 誘拐事件が横行した。
 そのような背景を踏まえれば、ミームが誕生した道理も解りやすい。幾千 幾万の子供を求める親の愛惜がミームの血となり肉となったのである。 ミームの鳴く夜は恐ろしい。



 と言うのは二宮の創作で、本当は進化論の専門用語で情報遺伝子または 模倣子を指す言葉である。

 自爆テロなどの特攻は、遺伝学的に見ると完全な自殺行為であるが情報を 遺伝子の変形と見なすと、また違った原理が見えてくる。 例えると、○○教や○○主義などの宗教や思想は非常に浸透しやすい情報 体系を持つが、その情報体系に属する者はイデオロギーを共有する全体の 為に、個体を犠牲にする行動に出る。

 情報を遺伝子に置き換え、全体の情報の伝達または存続の理由で自己を犠牲 を省みない点では、利己的遺伝子説とまったく同じであることから、リチャ ード・ドーキンスはミーム(情報遺伝子)と名付けた。
 ヒトは遺伝子からの束縛から解放された本能からも自由であると言われている るが、結局のところ、人は周囲の環境や情報に規制される存在でしかない完全 なる自由は死をもって体現するか、あるいは死に向かうベクトルにしか存在 しないなら、これもまた悲しい話である。



さてこの説明も嘘だと言ったら、みなさんはどちらの話しを信用しますか?

ドットハライ。




ロリータ、我が生命のともしび、わが肉のほむら。
わが罪、わが魂。ロ、リー、タ。
舌のさきが口蓋を三歩すすんで、三歩目に軽く歯に当たる。
ロ。リー。タ。




 これは(一応)文学作品とされている『ロリータ』の冒頭部分であり、 断じて私の妄想が暴走しているのではありません。が、この冒頭文は 見事にロリータとそれに翻弄されている男の心理を形容していると思 うのです。作者のウラジミール・ナボコフは後書きで「この物語はい かなる教訓(モラル)もひきずっていない」と書いています。
 その言葉が象徴するように、この作品はいまや性的な倒錯に関連し ロリータという単語は作品を表象するだけでなく、巨大な概念装置と してロリコンに結びつきました。

もちろん作品と現在我々が使うロリータという言語には、これまた見事な 断絶があるのですが、少なくともナボコフが創生したLOLITAはその単語 を聞いただけで、くまのぬいぐるみを抱えたロリポップが頭の中に出現す るわけです(あくまでも私の場合です)。

 特に(一部の)日本人はこの概念装置を最も良く進化させた民族でるわけで、 手先が器用なら頭の中も器用なのか、人によってはふりふりのレースを着け たツインテール娘や、ケルベロスを連れた魔法少女であったり、語尾に「にゅ」 がついてないといけない、いやとりあえずはクマさんパンツだと言う意見もある でしょう。善哉善哉。

 そんなときにはかの概念装置の登場です、これさえあれば機械特有の正確 さであなた固有のロリポップを作り出してくれます。使い方はとっても簡単、あな たはただイメージするだけでよろしい、あとはロリータと言う記号にしたがって 装置がシナプスの接続を程よく設定し、あなた好みの女の子を作り上げます。
 オプションで猫耳や兎さ耳、ぶるまー、スクール水着もあなたの良心が許す限り 可能です。まさに完全無欠のマシーン。

 で・す・が・この装置も質量保存の法則<を逃れる術もなく、他の世にある機械と 同様に動かすには何らかの燃料が必要です。それは気体でも個体でも液体でも 電気でも原子力でもありません。

この世で最も代替しにくい燃料、すなわち萌え

ドットハライ。




先日、私の敬愛する小説家、新城カズマの『無謬邸は暁に消ゆ―浪漫 探偵・朱月肖三郎2』を呼んだ・・・じゃない読んだ。世にいる数多の架空の探偵はそのキャ ラクターの設定上あらゆる奇癖を持つ物ですが、この浪漫探偵なる者も その性格上、論理よりも浪漫を優先する性格で、引きたて役の警部の 推理を「それは論理的だが浪漫的ではない」の一言で一蹴してしまうの です。

 このアウトローな設定はその相手役の怪人にも繋がります。決して人を 殺さない怪盗<夕闇男爵>、知性ある蛆虫アニムス・ホリビリスとその眷属 百人殺しの毒薬使い<ビイドロお醒>、ほかにも唾腐の女王や眼球魔人 移動祝祭師団など名前だけでは判別できない猟奇と幻想に満ちた単語 が百出するのがこの物語の魅力です。

 それにしても架空の探偵や怪人たちはいかにしてこの特異なキャラクタ ーを得る事が出来たのか。もちろん猟奇と言う幻想が商業的な概念に結 びついたのももちろんあり得ますが、私はそれよりも事件に立ち会う人間 は宿命的に探偵という性質を具えると考えます。

 探偵はいわば、道化のようにアウトローな立場に立つ人間であり、およそ 共同体の内部では警察と被害者、加害者を除き事件に最も良く触れる事 の出来る人間であると考えます。警察が共同体という構造の中で異物を 排除する為に、組織化された免疫力を行使するなら、事件に遭遇する探 偵は個性を持った一人の人間として事件を受け止めることに、警察と探偵 の大きな隔たりを感じるのです。事件が偶発性を持って我々が持つ日常を 脅かす力を表象するなら、警察のように制服を着た集団は事件の衝撃を 柔らげる為の緩衝材として、その共同体内部への衝撃の伝達を防ぐ為に 没個性的な存在になることを宿命付けられ、探偵はその宿命をを回避する 行動として現れるのだと思います。

 続きます

 ドットハライ 




 くそまじめな話しが続きますが、なんとかご容赦願います。

 さて、前回は探偵がその社会構造において、事件の衝撃から守る為の 防衛規制として働くと述べました。加えて、その働きが個人的な領域に 限定されるので、それは必然的に組織化されていない、つまり共同体 (ここでいう共同体とは大は国家、小は町内会や、村を指します)の内 部ではアウトローの性格を帯びるとも述べました。

 しかし、これは今や使い古された探偵像です。探偵小説の祖と言われ るポーが19世紀に『モルグ街の殺人』を書いてから既に100年以上隔 てた現在では、探偵小説は既にお馴染みの出版物であり、ありふれた 単語になりました。

   現代人はタンテイと言う言葉に反応し、自らの思考で探偵像を作り上げ る事が出来るでしょう。しかし原初の探偵はもっと我々が想像するよりも 混沌としている筈です。それを想像するには私には知識も想像力も足りま せん。ここで問われる探偵とは経済や社会的な意味とはかけ離れているか らであり、私の言う探偵とは事件に臨む偶発的な一個の現象に過ぎないか らです。

 これは探偵の歴史を遡ったのではありません、ただ、事件が起こった時 にそこに居た個人と全体との関係を考察したに過ぎないので、私の考察 はあくまで可能性に満ちています。
 が、現実面で我々の日常を脅かす何物かに遭遇したとき我々が探偵的な 性格を身につける必要もまた真実ではないでしょうか。

 要するに警察などの公権力が及ばない場所で、自分自身が事件の渦中に あり、頼れる物は自分だけと言う設定では、我々が起こす身を守る為の全 ての行動を探偵という意味に集約させているわけです。

 ゆえに、探偵という言葉を使う必要がどうしてもあったわけではありません が、この概念装置自体は良く出来た発明だと思います。おそらく遠い昔に 無名の誰かが探偵な行動をする必要があり、その必要から生まれた発明 だと思うのです。
わたし達はこの誰かのおかげで探偵小説と言う物語を得る事が出来まし た。おそらく一人ではないでしょう、幾人もの無名の探偵がホームズと同 じように滝壷に消えて行った筈です。ですが彼等の行動を想像する事は不 可能ではありません。
 これもまた可能性の領域を出ない話しなのですが、 危機に面した我々が探偵という発明を使う事も出来るし、彼等の行動を なぞることが出来るのも、救いと言う意味では幸いではないでしょうか?

ドットハライ




 先日、初めて藍ちゃん(2歳9ヶ月の妹)に「ニイチャ」と呼ばれました。
 妹の対義語が兄に当たるなら、藍ちゃんの対義語は今現在では 「ニイチャ」に相当するわけです。

 今までの私の呼称が「てっちゃん」だっだのと比べれば格段の進歩 と言えるでしょう。そのベクトルが何処に向かうかは想像するしか ありませんが、少なくとも「ニイチャ」の前に「お」後には「マ」 が付けられるぐらいは期待しても良いですよね?

 万感の想いを込めつつ・・・・・・・・・

 ドットハライ