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 漫画やアニメでよくありますよね、お兄ちゃん役の主人公が
 「○○は子供だなあ」
 とか言うと。妹役の幼女が。
 「○○だってオトナだもん!コーヒーだってちゃんと飲めるんだよ」
 と言い返す、そんなシーン。

 コーヒーは元々、イスラム社会からヨーロッパへと伝播したものですが、 当時は異教徒が飲む妖しげな飲み物であり、麻薬と同じ効能を持つと 信じられていました。
 実際、幾人もの酩酊者を出し、教皇庁が禁止令を出すほど騒ぎがありましたが、 現代人の我々はコーヒーの効能を共有できる立場にいます。 確かにコーヒーを飲んで「ラブ&ピース!」とか叫んでる若者を 見たことがありません。
 コーヒーにまつわるイメージは、いまや完全に塗り替えられています。 情報やイメージも淘汰の圧力をを避けられません、役立つ思想や儀式は 自然選択により支持されるものは生き残り、一方で切り捨てています。 コーヒーは現在、嗜好品として生き長らえています。それはキリスト教が 封建制の一部の担っていたように、社会的な実用に耐えるものであったから ではないでしょうか。

 コーヒーは砂糖を使うことにより、さらにその効果を発揮します。 紅茶にも砂糖を入れるし、緑茶にしても、茶道では茶室に入ってからも 複雑な儀式を必要としています。それは、完成された宗教儀式と同じように 人をより高度な陶酔へと誘います。
 時として、刺激物に更なる相乗を得るため人は改良を加えてきました。 ここは偉大なる先人をあやかり、コーヒーと妹を合わせては如何でしょうか コーヒーの苦味と、妹属性の甘い香りが出会った、ビター&スィートな 新食感デュエット、今ここに妹コーヒーが誕生しました。

 新しい発明はいつの世でも、衝突と抑圧を経て社会的な立場を確固とします。 妹コーヒーも初めは迫害を受ける運命でしょう。しかしいつかは衝突が結合に、 抑圧が開放に変わり。コーヒーと同じように皆がこの味を共有できる未来を 予感します。近い将来、全世界の喫茶店には「妹コーヒーはじめました」と 張り紙ができ。もっと進めて12種類のフレーバーを整えた妹コーヒー専門店が 林立するでしょう。
 それと同時に妹の株も急上昇、兄妹愛は異性愛、同性愛に続く第三の恋愛として 認めれらる日がきっと来ます。来世紀には妹と一緒に夜明けの妹コーヒーが トレンドになりますよ!・・・・たぶん。

 今回はぶっちぎりな内容でしたが。言いたい事言えたので満足です。

ドットハライ




 フロイトかユングだったか忘れましたが、「人類全体のみる夢は やがては現実になる」との金言を残しています。
 海を渡る、空を飛ぶ、宇宙へと旅発つ、夢物語とされていた 行動はやがて科学技術の発達により現実のものへとなりました。 人が理性を働かせ、一歩づつ未知の領域を減らしていった結果と 言えるでしょう。しかし、逆を言えば過去の世界はもっと不思議で溢れていたとも 言えます。

昔は、夜は今よりも濃い闇を湛え、山野は禁足地で閉ざされ 虹は克明に色を映し、太陽はより巨大に空を照らしていた。 科学技術がその全てを駆逐する以前は、世界はもっとダイナミックな 意味に溢れていたと想像できます。

迷信を払うために啓蒙思想は存在しましたが、伝説や信仰も 人の自然に対する防衛機制として有効に働いていました。 真理だけでは腹はふくれません。ましてや夢や物語に人は 願望を少なからず仮託しています。 人の理性がそれに勝る現代では、得がたい世界がそこに 含まれているのです。

トールキンやC・S・ルイス(*柱)は物語世界において幻想を復活させました。 彼らの業績は人が物語を欲する何よりの証左だと言えます。 人は夢を見る生き物です。それはあらゆる物語へと反映され やがては万人へと浸透します。 空も深海も宇宙もかつては物語と共にあり、人類は数限りなく その世界へと到達する夢を見つづけていました。 ですから我々が今いる場所も夢を通過して到達したと 考えたいのです。

ドットハライ

(*注―トールキンは「指輪物語」の、C・S・ルイスは 「ナルニア国物語」の著者)




 迷うぐらいなら買え!後悔するくらいなら萌えるな! と世の人々に訴えたい。
 ゲーム、漫画にしてもこの手の作品は置き所に苦心しますが、 年末の大掃除では上記の信念に基づき、本棚をリニューアル。 非常に開放的なラインナップと相成りました。規則正しく整列する漫画の群れは、私にとって絶佳の眺望で あります。しかし、コレクターに良くある脳内小宇宙を堪能した後、 一部分だけひときわ異彩を放つコ―ナーに気づきました。

 背表紙には購買欲をそそる美少女の顔

 一部では有名な出版社

 A5版の大きさで統一されている其れは、いかなる主旨で描かれた 漫画か一目で理解できるでしょう。
 そう、人はそれをエロ漫画と呼びます。


 この手の出版社の営業努力は、家庭では大きな障害になります。 安彦良和のハードな歴史漫画の隣に並んでいる趣味的な背表紙は、 内容の落差が所以したのかとてつもなく目立ちました。

 これは家族に説目を求められると非常に困ります。ましてや私の 書庫は物置部屋と同義で、母親もよくこの部屋を出いりするので 目に止まる可能性は非常に大。
熟慮した結果、私のアイデンティティを納得させてくれる便利な5文字 が頭に浮かびました。


       『戦略的撤退』


 結局、本は再び封印の地へ。偉そうな事を言っておきながら私も 修ぎょ・・・じゃなくて覚悟が足りません。 あなたの覚悟は完了ですか?

 ドットハライ




 眼鏡の前に道はなし。
 眼鏡の後に道は出来る。


 男を惑わす魅惑のシークレットワード「眼鏡ッ娘」。
 「眼鏡」では無機質な光沢を帯びた、無愛想極まりない イメージがありますが。後ろに「っ娘」をつけただけで 我々は言いがたくもはかない詩情を抱いてしまいます。

 しかし、このポエジィは何処から来るのでしょう?
「眼鏡」名状しがたき力。 それは間違いなく心の小宇宙(ミクロコスモス)から飛来 してくる眼鏡力に起因しています。

 と、言う訳で今回は眼鏡次元に関する宇宙論の話であります。

 以前友人と「眼鏡ッ娘」が帯びる未知なる魅力について 討論した折に、私と友人では同じく眼鏡を希求するものでありながら、 マリアナ海溝よりも深い溝が発見されました。

 私の所見は「眼鏡っ娘」は(眼鏡/娘)であり、まず「眼鏡」 と「娘」という純然たるマテリアルが合一し、はじめて 「眼鏡っ娘」たる個性を帯びる。ゆえに「眼鏡っ娘」は真に 2元的な存在であり。偶然にも漫画やアニメなどのメディアに 登場する最も相応しき性質を備えている云々。

 いやそれは違う、と友人は反論します。
 続く




 の業の深き友人の名をここでは便宜的にTと呼びましょう。

 「眼鏡っ娘」には(眼鏡/娘)も(眼鏡+娘)も存在しない それは始めから単一な存在であり、眼鏡を掛ける又ははずす という動作も真の意味では存在しない。言い換えれば「眼鏡」は髪や爪と同じく体の一部にあたるもので、 「眼鏡っ娘」は誕生から涅槃まで「眼鏡っ娘」として完結した 1次元的な存在である。

 それに君の説だと(眼鏡/娘)としての文節の区切りがある。 「娘」で萌える奴はいるが「眼鏡」で萌える奴はいない。 (眼鏡/娘)は言うなれば主客の転倒であり「眼鏡」 と「娘」が等価であることを暗に示すことになる云々。

私の説は心身二元論的な「眼鏡」と「娘」の二項対立により 時空間を展開するに対し、 Tの説では萌えがあたかも「眼鏡っ娘」に集約されるように 中心に置かれた一元的な宇宙であります。

私は前者を「眼鏡二元論」、
後者をTの一文字を取って「T型単一論」、
と名づけました。
 
かくして両者の存在を賭けた論争が開始されました。
さらに続きます。




 ―法王庁は所定の手続きに従い、慎重に審査したる結果 位階をすすめ、尊者の位、さらに福音の位へと順次、昇級を認め 最後に勇気と徳を備え、特別な啓示を受けしものなることを宣明し、 天上教会の聖餐に於いて、尊者にして福音たる 聖者と呼ぶものである。―

 世に言う「ネタばらし」なる行為は 8番目に数えられる人類の大罪だ。
 自分はかつて、『銀河英雄伝説』を読破中に 「ヤン・ウェンリー死ぬで」と教えられて 急激に読む気が失せた記憶がある。
 漫画好き、本好きの人間にとっては 拘束して漫画喫茶や古本屋に置き去りにするくらい、 けっしてやってはいけないことだ。 ページを捲る度に恍惚を覚える。あの異様なる興奮を 誰しも覚えがあるだろう。

 一枚また一枚と捲るたびに、ダイナミックに開かれる新世界は まさに奇跡の顕現だ。 であれば、奇跡の触媒である本は、聖人(作者)が 残した聖遺物であり、 手塚治虫はいかなる宗派にも属さない神だ。
 しかし、何気ない一言で聖遺物は俗物へと変わる。 いともたやすく、たった数瞬の 発話行為が物語を冗長へと堕落させる。 光が闇に、プラスがマイナスに、昼が夜に 言ってみればそう―属性変化。


 今回の第三章に向けての単なる時間稼ぎと くだらないオチは、幾らでも謝る用意があります。

ドットハライ




 今更ですけど、複雑系科学をネタにして本を書く人がいます。
 西尾維新とか鈴木光司とか、この二人が比較して語られることってあまり無いですね。

 むしろ西尾維新は上遠野浩平と比較されるみたいです。 これは複雑系科学と構造主義の比較に似ているように思えます。 巷に溢れている言説を砕いて言ってる訳ではありません。 ワールドロップの『複雑系』を引用しまくりの西尾はともかく (↑別に悪いと言ってるわけではないです) 上遠野の作品が構造主義を意識して書いてるとか思ってるわけじゃなくて、 あくまで個人的な感想。

 この二つは理系と文系(こういう分け方嫌いですけど)、 二つの科学体系に突き刺さった二つの剣でもあり、二本足でもあります。 帰属的な意味で両者は別つものでありながら、また似通っている。 私も数冊程度本を読みましたけどそのどれもが 「原理は単純だったけど、構造は複雑だった」としか結論できない所とか特に。 言語学、文化人類学、大脳生理学、社会学。 人工知能研究、経済学、数学、分子生物学。とかあと色々。 各分野の学者たちがこの二つに飛びつき、そして、学際研究が盛んになったと言う意味では 複雑系の砦であるサンタフェ研究所が構造主義に水をあけた感がある昨今。 それでも世界体系は深遠な謎を我々の前に覗かせています。
 構造主義だって(もちろん、ポスト構造主義も)精神分析や哲学。 人類学など広範なものから手をつけ比較することが 普遍の集合的な人類社会の構造を読み解こうとしたし。 それは読むと言う行為がほかとは違う読み方をしてどんどん抽象的になっていきました。 それは構造主義の狙いでもあるはずだけど、しまいに分散して曖昧になってしまいました。 でも、折しも帝国主義からの大転換期において、 西欧で声高らかに叫ばれた理性万能信仰に楔を打ち込んだ実績があるし、 それは後のグローバリゼーションの一つの源流でもあると思います。

複雑系科学もいまんとこあまりパッとしないですね。 ハル2000のようなGOFAI(Good Old Fashioned Artificial Intelligence− 意訳すると古き良き人工知能)への幻想も無残に打ち砕かれた今となっては、 自立分散型の創発を起こすシステムモデルっていうのが いかにややこしい(そして手間のかかる)かを実証してみせることになってしまいました。
 それもこれも、実際のところ世界に跨る混沌の淵をなぞった程度の話に思えます。 それでもかろうじて希望的な観測を導き出すなら 「我われはいかに複雑であるかという状態を理解していなかった」 というべきでしょう。 ラプラスの悪魔やアダム・スミスの言う「神の見えざる手」が取り除かれたいま。 決定論的世界は崩壊し、科学の地平は極限の混沌へとあたらしい地層を形成しつつあります。

 とまあこう言えば恰好いいのですけど、近年の新しい科学と言うものが。 新しい見方をした科学と角度を変えただけで 「問題の周囲をまわっていると反対側に行き着いた」と言うだけの話なのは 諸分野の科学者が解かりすぎるほど解かっていることなのかもしれないのです。



 とにかく、この二つを支えようとした学者連中は常に何かが起こっていると 感じるセンスオブワンダーの持ち主でした。
 ここで紹介したいのが人工生命宣言に半生を捧げたラングトン。 彼はベトナム戦争の良心的兵役拒否の代償として病院での労働奉仕を命じられます。 ふと深夜の待機時間中に部屋の中にもう一人誰かが居ると感じるようになります。 しかし、見渡しても誰も居ない、でも確実に人の気配がする。 これは何かと問えばラングトンの目は自然と部屋にあるコンピューターに行き着きました。 当時、ライフゲームの流行に習いラングトンも生命を模倣するセルオートマトンの一種である このゲームに嵌っていました。 セルオートマトンの生み出す配列にラングトンは間違いなく生命を感じたのです。

   ここで重要なのはラングトンが感じた生命。 それは既存の科学体系の中にはいなかった筈です。 常識、既成概念からまた別のレベルでの、しかし確かに存在する認識。 コンピューターの生み出す精緻なドット画面が生命を生み出すこともある。 人間にはそう言う解釈が出来る余裕(ヒマ)がある。

こころに余裕がある生物、なんと素晴らしい!(byミギー)


 と、ここまで来て言いたいことはもうお解りでしょう。 「複雑系や構造主義まで持ち出してそういうことしか言えないのか」 とか思わないでください。 実際、私の頭ではそういうことしか言えないんですから。 言いますよ。ええ、言いますとも。




 コンピューター画面に出てくる美少女にリアリティを感じても なんら不思議なことでもありません!


 ましてやラングトンの角張ったセルオートマトンとは違い PCゲームに出てくる美少女は観念あるいは妄想を誘導しやすい萌えの表象、 それは実にスムーズにかつ無駄なく、究極的な意味での形而上の姿を見せてくれるはずです。
 いわんや、コミック、アニメおや。
 論理がマゼラン星雲まで飛躍していると言う無かれ、 いざとなったらラングトンが論陣を張ってくれますよ!




 最後に

 今回の論は構造主義と複雑系科学を述べるにかなり乱暴なことを言いました。 読む人にとっては仮に数パーセントの真実があったとてそれ以上の誤謬を感じる こともありうると思います。 政治的、歴史的、あらゆるコンテクスト(周囲の状況)を無視しています。 それは私が説明する能力、知識を有していないのもありますが、それ以上に 心に訪れた認識論的展開を段階的に表現しても言葉遊びの範囲を出ないだろうと 思ったからに他ありません。 こう言うことを平気で言うのがほんとうに恐れ知らずですけど、 正直に思ったことを書いてみました。

 それは私達がどのような解釈も出来る、または どのような立場を取ることも出来るという証明でもあります。 言い換えれば、既存の概念を全て疑える場面に私達は差し懸かっているのです。

 重要なのは、もしあなたがラングトンのようにこの世界から 不思議の片鱗を受け取った時、どう行動するのか? 受容し、選択する機会があるとしたら? ラングトンを動かした何かがこの宇宙に存在するなら 誰でもラングトンになれる筈です。

(かく言う私も幼い頃に受け取った未知なる衝動に動かされてこの文を書いています。 それが何かは数名の友人にいつぞやの酒の席で話しました。 神サマ、竜巻、保育園の中庭のあの話ですよ。)

再び言いますけどこの世界はとっくに決定論的に振舞うことを止めています。 それがどうしようもなく、投げ出したくなるくらい複雑な構造であったとしても、 ラングトンを突き動かし、レヴィ・ストロースを机に向かわせた何かがある。 私はそれだけは信じることが出来るのです。

ドットハライ。




 本当に最後に今回のテキストはあまりなじみのない言葉が出てきますので 参考になりそうな文献を挙げておきます。


 複雑系(あるいは非線形)


 「複雑系―科学革命の震源地・サンタフェ研究所の天才たち」
  M.ミッチェル ワールドロップ


 「複雑系とは何か」
  吉永 良正


 「ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環」
  ダグラス・R・ホフスタッター




 構造主義


 「構造と力―記号論を超えて」
  浅田 彰


 「はじめての構造主義」
  橋爪 大三郎




 ついでに


 「寄生獣」
  岩明 均






 アニメのマリ見てを見た瞬間、生涯何度目かのマインドセットが働いた。
 詳しく言うと、惚れた。どうして俺は女に生まれなかったのか、そんな気持ちを親にぶつけたい。(嘘です)
 以前は「妹の対義語は兄」とほざいてましたが。それが大きくぐらつきました。
 「そうか、姉でもいいのか・・・・・・・」


 というわけで、ネタにするのは今更ながら「マリア様が見ている」(著者、今野緒雪)です。
 知らない人も居るので概要を。

 純粋培養のお嬢様学校リリアン女学園が物語の舞台。幼稚舎から大学までの一貫教育が施される乙女の園。
 この学園の高等部には姉妹(フランス語でスール)制度という変わったシステムが存在する。下級生の生徒にロザリオを渡して姉妹の契りを交わすと。周りから最も親しい関係と認められるようになる。
 姉が妹を導くが如く、この制度のおかげで特に厳しい校則がなくてもリリアンは上品な学風を維持している。とか。

 他にも色々と紹介したい人物が居るのだけれど、とりあえずはこれで十分。

 さ・て、

 近年、オタの新境地を開いた(オタへの需要を伸ばした)作品として有名ですね。導きだされるキーワードは間違いなく百合です。




 作品世界はいささか大時代的な部分もあるけど、特に女同士のタブーは感じません。禁断や背徳といったエッセンスは回避されています
ここで、本日の論旨を助けるためにマリノフスキーの「クラ交換」を紹介しましょう。
 
 クラと言うのはお宝(貝の首飾り程度のもだが)であります。これはクラが隣の島から渡されれば受けとった村の住人は隣人の住む村まで、わざわざ海を渡って届に行かなくてはならない。もちろん交換と言うからにはそれに見合う品物と交換される。そうやって社会のネット
ワークを維持しているシステムです。
 ここで重要なのはクラのような粗末な宝が価値があるから交換されるのではなく、交換されるから価値があるということ。

 紙幣はなんらかの物質へと姿を変えます。金本位制の経済は金を支店として交換可能な価値体系が形成されたのを同じように。交換できるから価値が生まれる。と言う原理ですね。ヤップ島の石貨、それは経済性とはかけ離れているように見えてもやはり根っこは同じ。石貨はヤップからパラオの石切り場までの航海の労力に換算されて価値を得るのではなく。連綿と受け継がれ、交換されていくその積み重ねが
価値を帯びるのです。
 反対に言うと交換されないものは価値を帯びない。


 ここでマリ見てに視線を戻しましょう。

 ロザリオの授受による贈与の一撃(価値を与える行為)は姉妹と言う関係を決定付けます。負債を背負った妹が決して逆転することないヒエラルキー。その瞬間に姉は絶対的な債務者となります。
 それは決してロザリオを自分の妹に受け渡すことで解決することは出来ません。何故ならロザリオは交換不可能ですから。
 借金を返すには由乃さんに習って姉にロザリオをつき返すしかないでしょう。

 だから、第何代目のお姉さまから受け継がれたレア物が登場して骨董的な価値を帯びることはまずないでしょうし、受け継ぐロザリオを眺めて自分の後ろには幾人もの姉がいると誇りで胸を満たすこともない。

 リリアンのロザリオはあくまで姉妹だけに限定された鎖です。そして限定されてもいいのです。彼女等はあくまで高校生であり、学校という共同体に永遠に暮らす住人ではないから。
 だから、新しいロザリオを買い与えても良いという設定は非常に辻褄が合います。


 またまた、人類学の話に戻ります。文化人類学では女性は財と見なされます(あくまで社会モデルで扱う財と言う意味で。フェミニズム的な文脈はちょっと横に置いてもらうと助かります)。
 結婚(交換)という他人との交流を裏がえせば、近親婚や同性愛(独占)がタブーへと繋がります。放置すれば社会秩序の根本が覆される。

だからこの二つは普遍的なインモラルとして成り立ちやすい。世界中のどの民族を見渡してもこれは同じことが言えますね。
 ですから、彼女達は古典的な意味での百合ではありません。タブーではなくあくまで社会機能を担う姉妹制度。

 ただし、ここが重要なんですが赤薔薇、白薔薇、黄薔薇の姉妹は別。
 リリアンという限定空間に合ってこれだけは突出した貨幣(交換可能)です。ヤップの石貨を思い出してください。連綿と受け継がれていく名前は、作品世界を見ても解かるとおり、独立した価値体系を築いています。
 だから薔薇の名前を冠する姉妹は飛びぬけて異質な存在であり、良くも悪くもどこかが歪んでいくはずなんですよ!むしろ歪め!
 あれだけ伝統のある学校なんだから。もっとこう継承されていく歪んだ情念とか、代々、蓄積されていく妹への過剰な愛情とかあってもいいはず。つーか、俺はそれが読みたい。

 いや、もっと解かりやすく(正直に)言ってみよう。



                    


                             人,ノ
lllllllllllllllllll!      ,;; .;;''      ,:,:,:,:,:  illllllllノ 今
llllllllllllllllll!,,,,,   i  ;; i/ ;;;,,       ,,,,,,,  illlll丿 .野
lllllllllllllll'l!iil||||||||||lゞ  ((||||||||||||||||llllllliiiiii'''  ;illllllヽ 先
lllllllllllll'l! _,,,,,ニニ,, ヽ  ``..:::  ノ^==- ..,_   illllllllノ 生
llllllllllll'l!ク',...,(‐'..;)ヽ >  .::::: ク   (`'" `i¬、 'illllllヽ :
lllllllllll'l!' `'--‐`¬' ノ   ヾ、¬‐-ニ二二.フ'' ` 'illlllノ ! !
llllllllll'l!##;; ''   ノ      `           'illlllヽ,.-、,.-
lllllllll'i!     /                   'illlllllllllllllllll


lllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll/ ̄ ̄\llllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll
llllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll/  読 エ ヽllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii|iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii|  み ロ  |iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii
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 うわー台無しやー。
 別にマリ見ての現状に不満があるわけじゃないんだよとか、下手な弁解を交えつつ。

 ドットハライ。




  萌えってなんだ?
 大辞林だと草木が芽を出す現象だが、ここでは字義どおりには扱わない。
 アニメやゲームに登場する女の子に、過剰なイメージを投入する行為について言及してみようと思う。

 語源はNHKで放映された『恐竜惑星』のヒロイン鷺沢萌や、燃え→萌えの変遷、など色々な説があるが今のところ定説というものはない。
 さて、「萌え」は、キリスト教の原罪のごとく背中に重く伸し掛かる害悪だと早とちりしている人はいないだろうか?
 50%は正しい。ではその半分は?
 世間に後ろ指さされ、禁治産者の身分に貶められた「オタク」な人々には危険を省みず、何をもって「萌え」を標榜するのか?
 やや大風呂敷だが、これは生命の誕生、いや単細胞生物から多細胞生物の出現、免疫系の発生に至るまで、生命科学の根幹を持って説明することが出来る。

 生命の三大要件というものがある。
1、自己と外部を明確に区別する膜がある
2、自己複製機能を持つ
3、外部からエネルギー、あるいは情報を取り込み排出する。いわゆる代謝機能 があること。

 この中で重要のものは最後の「代謝機能」。
 広範な意味で生物は、自分の周囲にある環境からその一部を取り出し、秩序を形成する。
 「オタク」であるならば、現代のような情報過多の時代において好きこのんでアニメやゲームを選択した人間だ。アニメや漫画などのメディアを生物学的な言説と一緒に語るには抵抗を覚える人も少なくないだろうが、少なくとも我々現代人の脳は情報をそこにあるかのように受け止めるぐらいは高度に機能分化している。
 それは錯覚や勘違いではない。明らかに別の意識から来る認識だ。

 脳は一方では醒め、一方では夢をみる。意識もまた共通の構造をもつ。識域下の操作を確認できた人間は居ない。有効なヒントはただ一つ、我々の感じたものを忠実になぞるしかない。
 「おたく」は無機質な本棚や冷たいフィルムから生命を見出す。年齢と設定が噛み合わない美少女(ロリ)、獣が人と混ざり合った少女、そればかりか、口語を困難にする語尾や、実用性皆無な服飾にも血を通わせることが可能だ。

 やや、飛躍した例をあげるが、チベット仏教には「タルパ」という秘儀がある。
強力な思考を集中させて見せる幻影のことだ。
 その技法を実践した学者の記録によると、自分が作り出した僧侶の幻影は次第に初期の設定を逸脱し勝手に振舞うように変化していったという。結局、学者はその幻影を削除する術式を施した。


 そこから発生した諸々が異質であるか否かは問う必要はない。問題にすべきは有機的な感覚だ。このレベルでは実際に見る行為とさほどの差はなくなっている。

 先ほども、私がキーボードをたたいている横では手のひらサイズの眼鏡を掛けた天使がかわいい声で祈祷の文句を唱えている。
 これは本当だ、決してウソではない。どうやら私の魂を救済するために遣わされた、専用エンジュエルらしいが、私には彼女そのものが福音だ。

話がそれた。



 ともかく、これからの戦略、捕食や生殖などにも初めの選択は大いに影響を与える、自分が所属する場所にも自動的に決定される。

 決して軽んじていいものではないが、ここで「オタク」への戦略を選んだ人が遺伝的な欠陥があるとは言わない。生存のために緊急手段としての夢(イメージ)の使用は、ありふれた行為だからだ。
 「萌え」が特異な現象に見えるのは、単にその対象の問題に過ぎない。我々は容易に夢と現実の壁を跳躍する。

 「萌え」は精神的な土壌を育めば生まれ出る当然の発明だ。
 情報を喰わずに生きる人間なんて存在しない。収穫物の産地を問題はならない。トマトは何処で食べてもトマトのままだ。
 ならばその構造はどうか?

 電脳や脳内に大地母神の祝福を受けて、美少女がうまれる。それは確かに新しいもので、拒否する権利もある。
 私見を言わしてもらえれば、私は『萌え』を異質という理由で拒否するのは勿体ない。

 これは一種のトランスだ。複雑な宗教儀式を経た、神官に見られるような陶酔だ。  祭式がコミケなら、聖地は日本橋や秋葉原になる。コミケは「萌え」という宗教だ、決して比喩ではなく、幾重にも交錯した多神教ではあるが、作り手は神を降臨させるシャーマンと何ら変わりはない。


 情報の摂取がトランスを生むなら麻薬の効果と同じような文脈を持ち出す人もいるだろう。仮想の女の子に熱中するあまり、現実との境界が曖昧になり、社会生活に不適応な人格が形成されると危惧する意見も多い。

 両方の経験者から言わしてもらえば、それは杞憂というべきだ。
 選択し、受容する。
このプロセスは「萌え」も「麻薬」も差はない、我々の日常ではありふれている行為だ。

 あるレベルでは知覚し、あるレベルでは認識されてはいない。我々は望むものを等しく具現化する能力を知らず知らずに使っていると主張したい。
 無意識の領域では、絶えず複雑な操作が行われ、情報は細かい断片となって、二元的な交易が繰り返される。

 我々が見ているのはピラミッドのほんの一辺でしかない。収穫物(情報)は刈り取られ、市場に並べられ交換を続ける。
 「萌え」は交易による富でもある、それもほんの一部分の。
オタクは「萌え」を専門家した商人だ。オタクの脳内ではキャラクターを経済性の高い商品として値段をつけることもあるだろう。実際に私はそうだ。

 しかし、現実世界でのイメージの交換は容易ではない。「萌え」がかつての米ドルのように容易く交換可能な貨幣となるには、まだまだ夢を見る必要がある。さらに多くの人々に。

 今ひとつ、「萌え」を躊躇している人はここでは「奇貨をおくべし」と助言しよう。はっきり言えば博打ではあるが、そもそも今現在萌えている人間は払い戻しを期待しているわけではない。
 ただ、危険を認識するフィルターが存在しない、存在しないということは、余計な機能を削除したに過ぎず、機能不全という意味ではない。
 地底湖に生息するウナギは光を知覚する必要がないので、受容器官がないのと同じだ。人類も森から平原へと移動してから、尻尾を取り外した。変化は生物の前提としてあるものだ。

 生物は静物にあらず、変化こそが生命の本質だ。と、どっかの学者が言っていたが私は全面的に賛成する。
 大抵の変化は生物にとっては、有害にしかなりえない。特殊な遺伝を持った人間が高度な能力を持つ場合はあるかもしれないが、個体群の中では少数の遺伝子は淘汰される運命にある。よりダイナミックな変化はたしかにリスキーだが、それでも変化は多用な可能性を見せる。

 別段、角や尻尾が生えるわけでもあるまい。
 「オタク」はマイノリティだが迫害された初期のキリスト教に比べればずっと幸福だと思う。加えて、宗教的な信仰を元に言わせて貰えば「萌え」の福音を受容できる人間が不幸というのはありえない。

 躊躇している人(私の友人には居ないだろうけど)は、今すぐ日本橋や秋葉原に直行して頂きたい。

 ひと目でそれとわかるコミックを買い漁り、18禁、コンシューマーを問わずギャルゲーに手を伸ばし、虎のあなのポイントをひたすら貯める。この瞬間にこそ、「萌え」による至福千年王国(ミレニアム)への扉は開かれる。ウダウダ書いてきたがこれはけっして理屈ではない、
 萌えの感情は愛の証左だ!
 ペド野郎といわれようが、社会不適格者と言われようが私は50,60歳になってもアニメやゲームを摂取しつづけたい。
 願わくば、このコラムが「萌え」を躊躇する人々へのささやかなる応援になることを祈ります。

 ドットハライ。