今となっては、過去の出来事。どうしてそんなことになったのかは自分でも良く覚えていない。
というか、
私はどうやら、嫌な事は記憶から消してしまうらしく、「これでもか?」というほど、当時のことは覚えていない。
と、言っても、やはり断片的なことは覚えている。
始まり/至るまで/その後 |
<始まり>
登校拒否といっても、いきなり始まったわけではなく、その前から学校を休みがちな日々が続いていた。
当時の気持ちを覚えていないので、どうして休んでいたのかは定かではないが、
私は多少でも嫌なことがあると「今日休む」というやつだった。それは小学校のときから始まっている。
そして、それを親にとがめられることも無かったので、「今日休む」は、私の中でかなり定着していた。
その頃の私は、部活の為に毎日学校へ行っているようなものだった。因みに、吹奏楽部でパーカッションをやっていた。私の学校は地元ではトップだったのだが、今にして思うと、顧問の先生のパーカッションに対する扱いはひどいものだったと思う。本来なら、曲をリードしていく、ベースな存在のパーカッションに対して、先生は
「周りの音を聞いて演奏しなさい」
というようなことを日々言っていたからだ。
しかし、私が中学1年の時だった。
コンクールを控えたある日、先生は「指揮を見て演奏しなさい」そう言った。
私は、一生懸命指揮を見ているつもりだった。だが、どうしてもズレてしまう。
指揮棒がどの位置に来ているときに音を鳴らせばいいのかがわからなかったのだ。
「どういう風に指揮を見ればいいのかわからないです。」この様な事を先生に投げかけたことがあった。
だが先生はそれに対し、アドバイスではなく
「ここだよ、ここ。みんなわかるぞ?どうしてわからない?」
少し強めの口調でそう言った。
他の楽器の人や、先輩はきっと、感覚でわかっていたのだろうが、私には全くわからなかった。
「わかりません・・・」
きっと、そのような事を私は言ったと思う。しかし、先生は「合奏中だから後にしてくれ」というようなフレーズで自分で何とかしてくれという雰囲気で答えた。
その先生の言葉に半ば反抗しつつ、私なりに理解しようと努力したつもりだった、
しかし、
全道の、私にとってはじめての大舞台。
広いコンサートホール。
指揮を理解していない私にとって、真っ暗闇に手も足も縛られて放置された状態だった。
後に記念のCDを聞かされ、私は自分の犯した最悪の失態に気づかされることになる。
課題曲、自由曲共、曲の終わりで大幅に演奏とズレていたのだ。
思わず曲の途中で耳を塞ぎそうになってしまった。
はっきり言って、私一人で全員の足を引っ張ってしまった。
きっと、この時からだろう。
なにかが変化していったのは。
それまでも自分のパート以外の先輩(特に、木管等、前列に並ぶ楽器)とはうまくいっていなかった。
挨拶しても返事が無い事には慣れていた。反対に、話しかけられたりすると「裏があるんじゃないか?」と疑っていたりした。だが、それがいっそうひどくなった気がする。
その時から急に変化があった訳ではないが、徐々によそよそしい態度に変わっていく裏には、
「あいつ(私)のせいで銅賞だった」
という気持ちが少しでもあったに違いない。と思う。
そして。
ここでも先生のパーカッションに対する関心の無さが出てくるのだが、実は、私が入った当時、パーカッションには3年生1人、2年生1人、そして、1年生も私一人という状況だった。(しかも全て女)
なので、10月の定期演奏会で3年生が部活を去ると、パーカッションには2人しかいない状態になった。
本来ならば2月のアンサンブル大会に向けて練習をするところなのだが、2人では話にならない。
仕方なく、次の年のコンクールに向けて、課題曲を練習することになった。
だが、先生は驚くべきことを言った。
「課題曲のスネアは二人共練習しておきなさい。できる方にスネアをやらせる。」
私は驚きながらも喜んだ。元々、目立ちたがり屋なところがあるので、パーカッションの主役とも言えるスネアをやる事ができるなんて思っていなかった。
だが、今にして思うと先生のその決断は、先輩にとっては辛い事だったのだと思う。
その頃、自分で言うのもなんだが、努力家の私はパーカッションの技術をどんどん身に付けていっていた。
後で、とある人に聞いて知ったのだが、影では
「○○○(先輩)よりも○○○(私)のほうがうまい」
とささやかれることもあったらしい。
勿論、実際は私なんかよりも先輩のほうがはるかにうまかったのだが、
難しいパートをこなせない(先輩)
よりも、
簡単なパートをこなす(私)
の方がうまく見えたのだろう。
だが、先輩自身、その考えにとりつかれていたのだろう。
部活を休みがちになってしまったのだ。
その為、合奏でスネアを担当するのは大抵私・・・という日々が続いた。
先生からイロイロと変更や、アドバイスを受ける合奏をしない。ということは先輩にとってマイナス要素になっていただろう。
ある日のこと。
パート練習中に、先生に呼び出された。
最近先輩が部活に来ていないことについてが主な内容だったのだが、そこで先生はこんなことを言った。
「俺が、お前にもスネアをやれといったのは、○○○(先輩)に競争意識を持たせるためだ」
「だから、最終的には○○○にスネアをやらせるつもりだ。」
なんとなく、それはわかっていた。初めから・・・。
でも、時々しか部活に来ない先輩に対して、少し苛立ちもあったので、「取ってやる」という意識も私の中にあった。
だが、私がそんなことを考えている間、先輩はすごく悩んでいたらしい。
私を呼び出す前、先輩と話していた先生は、先輩の気持ちを私に伝えた。
どうやら、その頃、先輩は私の事を無視していたらしい。私も少し気づいていた。だが、先輩のことがすごく好きだったので、気づかないふりをしていた。実際、そんなに酷く無視されていたわけではないので。
だが、それを聞いて私は涙が出てしまった。
続けざまに話される先輩の気持ち。
先輩は私との距離感に悩み、無視することに対しても自己嫌悪があったらしい。
スネアをやる。という、パーカッションのトップだけに許された物を私と一緒に練習することがやっぱり、心にものすごい負担を与えていたみたいだ。
そして最後に先生は、
「これからはスネアは○○○(先輩)に任せるから、お前はティンパニーとか、他の大事な部分をやってくれ」
そんなことをいって、私は練習に戻された。
それから暫く平穏な日々。
そして、新しい波が訪れた。
4月の新入生入部を前に、同級生が4人、吹奏楽部に入部して来た。
その内2人はパーカッションに来た。私はものすごく喜んだ。
そして、その後、新入生を2人獲得。
「これで来年のアンサンブルに出られる!!」
去年アンサンブルに出られなかったことは、実は私の中でかなり大きなことだったのだ。
そして、このまま良い方向に進むと思っていた。その時は・・・。
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<至るまで>
やはり、あまり覚えていないのだが、また先輩が部活に出られない日々が続いた。
その間、私は自分の練習を後回しにして、4人の指導にあたった。
そんな日々が続き、自分がパートリーダー的存在になっていることを自分自身心地よく思っていた。
だが、それが反対に負担になった。やっていることは事実上、みんなを引っ張って行く存在。でも、
肩書きが無い。周りから、そういう称号をもらったわけでもない。
当時、他のパートのパーカッションの楽器に対する扱いは最悪だった。
スティックやマレットを持ち、好き勝手に楽器を叩きまくる。
ティンパニーの上に平気で自分の楽器を置き、(トランペット等)台の代わりにして楽器を組み立て始める。
合奏のときにパーカッションの楽器を運んでくれない他のパートの新1年生・・・。
なんども注意しようと思ったのだが、できなかった・・・。
先輩相手に(他のパート)講義ができる立場じゃないと自分で思っていたからだ。
そんな、パーカッションに対する部活の対応と、
パーカッション事態の新入生のやる気の無さ。
(後者は、最初の頃はそれでもじぶんなりにがんばっていたのだが。)
そして、部活以外の友達関係・・・。
それが嫌になりだした頃から、休んでは学校へ行く日々が続いていたのだと思う。
そして、夏休みも控えたある日、私はとうとう部活に行かなくなり、その理由を友人に聞かれるのがいやで、数日間学校を休んでしまった。
だが、友人の電話、手紙などで「行かなきゃな」と思い、
とりあえず、日曜日の部活に行ってみた。
だが、
私はそこに自分の居場所を感じなかった。
「あぁ・・・、私がここに居ても居なくても、吹奏楽部の人は困らないだろうな・・・。」
その日、部活の友達に
「明日はちゃんと行くから!」
そう約束しておきながら、行くことはできなかった。
二度と・・・。
私にとって、学校とは、「部活をする場所」だったのだ。
部活に私の居場所が無いと知ったとたん、行くことに対して疑問を持った。
というか、行かなくなって、困る人が居るのだろうか?
という実験心が、かなりしめていたのだが。
だが、それも溶け始めた頃、学校へ行かない理由は
「こんなに長く休んだ理由を聞かれるのがいや。」
に変わっていた。
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<その後>
学校を行かなくなってすぐに私は、毎日毎日やることもなしに過ごして行く日々に飽きを感じ始めた。
そして、いつしか「仕事をしたい」とおもうようになっていた。
そう思ってからは行動が早かった。
親に、
「新聞配達したい。」
と言って、仕事を探してきてもらった。するとバイトは1日で見つかり、次の日から働くことになったのだ。
今思えば、自分で探すものなのだろうが、当時の私は、親に頼りきっていたのだ。
新聞配達は、自分にとてもあっていたと思う。
早朝のバイトなので、学校の友達に会うことも無く、また、自給もその辺のバイトよりも遥かに良く、1日1時間程度の仕事で1ヶ月2万2千〜3千程稼げたからだ。
実は前者の「学校の友達に会わない」は、私にとってとても重要な要素だった。休んだ理由を聞かれたくない私は、それから先、ずっと学校の人が来そうな場所を避け続け、それが2年間程続いたからだ。
だが、実は学校の友達とも連絡は続いていた。
その中から一人の友達を挙げて・・・。
その子は、夏休みに入ってすぐ一通のハガキを送ってくれた。私はとりあえず、返事を書いてみた。
そして、その日を境にその子との手紙交換が毎日続き、(家が近かったので互いのポストに直接届けていた)
1度、二人で遊びに出かけたことも会った。
だが、その手紙が交換日記に変わって暫く経ったある日、私の元へ1通の手紙が届く。
私の当時の担任からだ。当時も今も、ものすごく憎い。
あまり人を嫌わない私が、嫌いになった2人目の人。
その手紙の中に、私の将来の夢について書かれた文章があった。
当時、私は「ある」夢を持っていたのだが、その夢について先生に話したことは無かった。
それどころか、その夢を話したのはたった二人だけ。その手紙交換を続けた子と、私が保育所時代から一緒の子だ。
私が真っ先に疑ったのは、手紙交換をしていた子だった。
前から、私は「なんで、クラスでも一目置かれる人気者のこの子が私なんかに手紙をくれるんだろう?もしかして、先生に頼まれて手紙交換してるんじゃないかな?そして、それを先生に流してたりして?」などと考えることがあった。
それは、当時の私が人間不信に陥りかけていたからというのもあったのだろう。
だが、この出来事で、多分、陥りかけだったものは一気に底まで落ちていった。
私は、1ヶ月ほど手紙交換を続けた相手を信じることができなかったのだ。
そして、その子とはそれきり、連絡をとろうとしなかった。
後に、情報を流していたのはもう一人の方の子だと言う事を決定付ける事が起こるのだが・・・。
手紙と言えば、もうヒトツ。
登校拒否を続ける子の居るクラスを担当する先生は大変そうですね。
1週間に1度程、手紙が私の元へ届く日々が最初の頃、続いていた。だが、私はその手紙を読むたびに、先生に対する嫌悪感が高まっていくだけだった。
そして、私の親も先生の自分勝手なしつこさに呆れ、先生との連絡は1ヶ月に1度程、学校のプリントに混ざって手紙が入ってくるだけになっていた。
その手紙は一応読んでいた。
理由は只ひとつ。
私の情報がどこから、どれだけ漏れているのか知るために。
少し話が変わって。
いつだったか、クラス全員分の手紙が来たことがあった。
進んで
「読みたい」
と思う気持ちが、あの頃の私にあるはずが無い。
むしろ、
「あ〜、これ、先生に言われて無理やり書かされたんだろうな〜・・・。
どうせ、あの先生のことだから授業ぶっ潰したり、締め切り作って追い立てるようなことしたんだろうな〜」
と、クラスの人に対して哀れみを持った。
因みに、私が読んだ手紙はたった2通。どちらとも、男子が書いたものだった。
当時、嫌いだった奴のと、くじ引き感覚で適当に選んだ人のを。
それからも、登校拒否を続けているといろんなことがあったと思う。
まず、最初の1〜2ヶ月で10キロ近く太ったこと。
そして、生活リズムも昼夜逆転した。これは、私の体にあってるらしく、今でも気を抜くとすぐに逆転してしまう。
宿泊研修、修学旅行は勿論行かなかった。
卒業アルバムも、先生に何度も手紙で「文章書け」だの、「アルバムの写真を撮って来い」だの言われたが、
全て無視。
そういえば、出来上がったアルバムを一度見たことがあったが、そこに1枚、目を引く写真があった。
1年生の時に撮った、すごい最悪の写り方をしている私の写真。
私以外にも写っていた人は居たのだが、周りの写真の雰囲気からして、あきらかに私を載せるための写真だった。
その写真は本当に最悪な物で、私は
「いやがらせか?」
と思ったくらいだった。
無理やりにでも載せるのなら、せめて、入学式の時の集合写真のような、ちゃんとした写真を載せて欲しかった。
そして最後に。
私は最悪な締めくくりで中学校を卒業することになる。
世間では、卒業式が間近。そんな時期に私は、
「ある程度の給料が貰える所で働きたい」
そう思っていた。
中学生だった今までに比べて、かなり働ける幅が広がったからだ。
そして、一人暮らしも考えていたので、ある程度の収入を望んでいた。
そんなある日。
それを知った先生は、私の仕事先を探してあげる・・・
そんな様な事を言った。
私は、とりあえず保険のような感じで考えていたのだが、自分ではなかなか見つからず、
卒業式もとっくに終わったある日、(勿論私は出席していない)
「仕事先が見つかったから、一度学校に来てそれについて話してみないか?」
言われた私は、とりあえず、いやいやながらも学校へ行った。
それが罠だとも知らずに。
学校へ着くと、私は何故か職員室に通され、校長室のいすに座らされた。
すぐに、学校のいろんな先生がやってきて、何がなんだかわからない私の目の前で、校長先生が話し出した。
「騙したな。」
校長室のど真ん中、周りを先生方に囲まれて、私の卒業式が始まったのだ。
と言っても、校長先生の読書感想文のような話と、卒業証書授与だけで終わり、その後別の部屋で私の仕事先の話が始まった。
ぐだぐだと前置きやら私への質問やらが続いた後、ようやく本題。
実際にバイトを紹介してくれたのは担任ではなく、元担任の、その年で定年退職する先生だったのだが。
数日後、とりあえず面接に行くことになり、親の車でその場所に向かった。
しかし、着いて担当者と話をすると、
「ついさっき、○○さん(元担任)が来て、今日は面接に来ないと言ってましたが?」
その様なことを言われた。
私は訳もわからないまま返され、勿論、そこでその後働くこともなかった。
以上、卒業後から少し経過した辺りまでの話だったが、
「卒業式」で区切るに区切れなかったので。私が中学校と関りを切った日まで・・・と言う感じになってしまったが・・・。
何度と無く手を止めて、何度と無く記憶の奥底を探りながら書いた。
未来の自分にはどううつるだろう?
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