〜 苦しみは恵み 〜
神の恵みの中、すべてが順調だと思っていたある日、父の会社の経営が行き詰っていると母から電話がありました。
昨年はほとんど無報酬で働き、同居している弟の給与で生活していたと知りました。
事務員さんに辞めていただき母が電話番をするので経理を見て欲しいと・・・
会社の状況は思った以上に厳しいものでした。
有利な条件・不利な条件を並べて考えるなら回復することは不可能だというほかありませんでした。
支払日のたびに「今度はだめじゃないか。」と思い、神に泣き叫ぶように祈る毎日でした。
引継ぎもなく、ばたばたと始めた事務がようやく落ち着いたころ、突然ベテラン社員が亡くなりました。
病院にかかりはじめてからわずか2週間の出来事でした。
同じ頃会社のトラックが盗まれました。
みんな疲れきっていました。
疲れからか、父が事故を起してしまいました。
幸い大怪我には至りませんでしたが、最悪の場合交通刑務所に入るかもしれないと聞かされました。
神様のなさることはすべて益となると信じていました。
でも、神様と私の目に見えるよいことは違うこと、自分の思うとおりにならないことがあることも知っていました。 どうして次々にいろいろなことが起こるのか、試練ではなく罪からくるものではないのか。
両親の救いのために主は1度すべてを取り去ってしまうのではないか。
どうしてなのか教えてください。罪があるなら示してください。そんな祈りしかできませんでした。
そんな時、状況を知らないはずの牧師先生が私に手を置いて突然「それは私が与えたものではない。サタンによる重荷だ。」と祈られたことに衝撃を受けました。
神にゆだねきっていないことを気づかせるための神のことばでした。勝手に背負っていた重荷でした。
あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(ペテロ1 5:10)
苦しみがあるときにその理由を考える必要はない。
神は私たちを愛しているから恵まれる。
神は私たちを愛しているから苦しみを通される。
自分の爪さえ思うように伸ばせない者が神のなさることを思い煩う必要はない。
ずっと私は学歴にコンプレックスを持っていた。
でも商業高校を卒業し、長く経理をしていたことが今回役に立った。
病気でフルタイムの仕事を辞めていたから、今回手伝うことができた。
苦しみは何年もたってから目に見える形で益に変わった。
状況はだんだんとよくなっています。
事故の処理もよい形で終わりました。
苦しみの先には祝福がある。いや、苦しみこそが恵みなのだ。(2003年・夏)
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