先日、本欄で「姥捨て山」についての感懐と夕刊「窓」がシバ神を引き合いに、今の日本は「破壊の神」を必要

としているのではないかとの指摘を読んで考え込んだ。

  昔の日本には邪魔になった老人を食い扶持を減らすため山に捨てる風習があった。究極の生活の知恵と

いえようか。周囲は暗黙の了解ごととしていたのだろう。一方、長野県の田中知事はダムはいらないと唱え登場

して一旦去り再立候補した。「窓」記者は新しい感覚の為政者の足を引っ張る古い頭の連中を取り除いてほしい

と県民は田中氏に期待したのだと述べる。

  生ある者を捨てる。膨大な負債かまわず、ただモノを造ることにノーと言って登場した人、両者に共通するのは

「破壊」だ。ただ生きているだけの人を介護する制度を持つ現代。人道的見地を一旦措いて、膨れる一方の

対老人費、将来必ず日本経済の足を引っ張るだろう。そして、為政者の食い物にされているモノ造り。これらを

「破壊」しなければ日本の明日はないと思う。

  私も71歳、周囲に迷惑をかける年代に入った。人事ではない。どうあるべきか。ただ介護、介護と喚かず

世を処した昔の日本人の人生観の凄さを思う。

 

註 02年8月23日 朝日新聞への投書 「いまわかる?姥捨て山の心 (82歳・男性)」 の要約

   昔、日本に「姥捨て山」の風習があった。食料が少ないなか、若者を生かす手段だろうが捨てられた

   老人はそれをホッとした思いで受け入れたのではないか。今の日本では社会全体で介護するのが当たり前

   になったが、それが老人の生き甲斐にどんな影響を与えているのか、一度考えてみる必要がないか。

  02年8月19日 朝日新聞夕刊「窓 ・ 破壊の神」の要約

   ヒンドゥー教の破壊を司る神・シバ神が肥大化した社会を正常に戻すのに破壊という手段を用いたように、

   長野県民は古い頭の政治家を取り除いてほしいと田中康夫氏を知事に選び期待したのではないか。