いい子コンプレックス

 序章 作られた『いい子』が苦しむ現代

 私が『いい子』であることに嫌気がさしたのは高校二年生のときです。両親も当時の先生方も、特に私に『いい子』であれと強く押し付けたりしていたわけではありません。理解もあり、きちんと話のできる間であったと思います。それでも「いい子でいなければいけない」という強迫観念がいつのまにかどこからか私の心にはありました。なぜ、「いい子でいなければいけない」と思うようになったのかは今もはっきりしません。ただ言えるのは、物心ついたときから大人の話に耳をすまし、顔色を窺っていたことです。誰かがやらなくてはいけないという時に、期待されていると思い、そつなくこなしていたのは小学生の頃からです。そのまま大人になれたら、それはそれで幸せだったのでしょうが、私の能力に限界が来たことで、ボロが出始めました。それが高校二年生の時だったように思いますし、自分に自信をなくしたときでもありました。自分に自信をなくしたことで、誰にもいい顔をしているうちに自分の思っていることを言えなくなりました。そして自分の心にたまったものを吐き出すために文章を書くようになったのだと思います。
文章を書くという方法にどれだけ救われていたかわかりません。私の周りの『いい子』が悩んでいる場合、そういった手段を持っていないとき、本当に苦しそうなのです。真面目な『いい子』は悩む時それが全てであるかのように考え、袋小路から出られなくなってしまいがちですし、解決までなかなかたどりつけません。悩みが身体をおかしくするまで及んでしまう場合もありますし、ひたすら「どうしよう、どうしよう」とパニックになる人もあります。そうなってから、周りが助けようというのは大変なことですし、なかなか治りません。そうなる前に、自分のことをよく知り、予防策を考えてみようというのがこの論文を書くきっかけの一つとなりました。
それから、とあるスクールに友人が通っていて、私も勧誘されました。彼女も『いい子』であり、いろいろできる子であったのに、何に迷ったのか、何に悩んだのか、そのスクールに通うことになったようです。スクールの内容は、以前世間を騒がせた自己啓発セミナーのような悪質なものでも後ろ暗いものでもありません。しかし説明を受けて感じたのは大学生が、自分でしたいと思ったら出来る範囲のことではないだろうか、ということでした。本当にそれがしたいのか、さらにお金をかけてやりたいことなのか、私は聞けませんでした。私はスクールには結局いきませんでしたし、それ以来彼女との縁も切れてしまいました。だから彼女には本当にためになったのかもしれませんし、良かれと思い私を勧誘してたのかも実ははっきりとはしていません。
しかし、私は愕然としました。大学という囲いの中に、やりたいことを自分で実現できる場はかなりあると思います。それでもできないというのは彼女は何をやりたいのか、どうしたらいいのかもわからないからなのではないでしょうか。もしかしたら考えることもできないのかもしれません。とにかく私には実現力や目標が欠如しているように感じられたのです。それは私にも通じるところがあり、自分への苛立ちや「本当にこのままの私でいいのか」という疑問や「変わりたい」という願望をお互いに持っているようではありました。それを自分で解決せずに、彼女はスクールの力を借りたのでしょう。
何も『いい子』だけが、そして若者だけがこのような問題、そして会社に引っかかるわけではないとは思います。しかし、引っかかりやすいのでは、という手応えのようなものは感じました。なぜ、『いい子』が引っかかりやすいのかということについて考えることは、悩みだけ深く考えてしまい、解決に向かえないことと関連があるように思い、どうしたら引っかからずに済むのかについても考えていきたいと思います。

一章 『いい子』が生まれた環境

 私の周りの大人たちは理解もあり、わたしが理不尽に思うような行動をする人はいませんでした。『いい子』だと思う友人たちの親も大体は高学歴の優秀な親であり、仲がよいようです。子供はほめられることを喜び、伸びていきます。それが自分の身近にいて仲のよい親や先生なら、嬉しいことこの上ないのです。そのことを励みに勉強を頑張る子供も大勢いると思われます。
 問題は子供の能力があればあるほど、無理がきいてしまうことと、励みであったはずが「どこでもがんばらなくてはいけない」という、脅迫観念に変わってしまう点にあります。親や先生の喜ぶ顔が見たい子供は、親や先生に注目している時間が必ずあります。そしてそのときそのときで大人の感情や苛立ちや精神状態などを無意識に感じ取っています。その中から大人の持つ欲求や自分が期待されている役割を見つけ、引き受けこなそうとします。役割は勉強だけでなく、クラスの係りや、弟や妹の面倒までさまざまであるでしょう。能力がある子ならば完全に大人の望んだとおりこなす事が出来、褒められ、認められ、愛されていると感じます。そのことが繰り返されていけば、子供が好まない役割だとしても、相手の表情を読み、どんどん与えられた次第に高度になる役割をこなそうと努力しようとします。その努力がさらに相手の表情を読む能力に磨きをかける反面、自分ができなかった場合の恐怖や、できた場合でも自分そのものを愛してもらっているわけではないのだといった空しさを覚えてくるようです。「できなければもう認めてもらえないかもしれない」「断われば仲間からはずされてしまうかもしれない」という恐怖を、絶えず持っていれば、無理をするようになります。何も考えずこのまま上手くやっていけばいいのだと思い込む人もいるかもしれません。子供はできることに夢中で挫折を味わうまで、そのことを深く考えないことも多いのかもしれません。その間、周囲の大人は安易に「いい子だね」「がんばれ」という言葉をかけ続け、無意識だとしても子供を大人の都合のいいように育てています。子供は大人に守られ、注目されていると感じ、「これでいいのだ」と疑問をもたずに進むことになります。自分で意識して選ばず、他人によって誘導された道を進んでいる期間が長ければ長いほど、挫折の時に落ち込み、自分を見失ってしまうことは大きいのではないでしょうか。
最近の子供はマスメディアの影響と少子化も手伝って、大人の表情に触れる機会が増えてきているため、何を期待されているのかをはっきりと自覚します。中学、高校と進む間に期待されるのは、特殊な場合を除き、勉強以外に今の世の中にはありません。他人との比較がはっきりと出る勉強は、極端な話、誰とも会わず、机に向かっている時間を増やせばできるようになります。勉強ができればいい大学にいくことができ、いい会社に就職し、いい生活を送ることができるという考えは古いと言われたりもしますが、社会ではいまだ十分通用する部分もありますから、周囲の大人は子供にその期待を押し付ける形になります。子供のためと言いながら、親の面子や学校の業績のために勉強させられたと、後々不満に思う子供がいることも事実です。子供はいい大学がいい生活を保障してくれるという考えとは違うものがあるということに気付いても受験からは逃れられません。逃れてどうするのかを考える時間もなく、疑問をぶつける相手も見つけだせずに、気付けば迫っている受験は受け留めなければならないものだという認識をもっています。進学高校には「大学に行ったほうがいいから行く」「みんな行くらしいから行く」「社会に出たくないから行く」といった、はっきりした理由を持たずに受験勉強をする子供は多いのです。また、「親が望んでいるから」「その方がいい生活ができる(と親が言う)から」という理由もあります。そのような理由から大学がゴールとなって勉強をしたときに、自分の進路を決める大きな選択肢であったはずの大学は、世間や社会の思惑に沿ったレール上に位置してしまうことになります。子供は選ぶ機会を失い、また社会に媚びるような道を進むことになります。選ばせているようで、実は大人が誘導し選ぶ機会を持たせないまま、子供が大きくなっていった結果、子供にも大人にも大きな途惑いをもたせる現状になっているように私には考えられます。
また、日本という国の独特の環境も影響を与えています。もともと日本人は集団の中であまり前にも出すぎず、足を引っ張ることもなく、その集団のために努力するという姿勢がよしとされてきていました。いまだに「謙虚」という言葉は好まれ、「わがまま」という言葉はいい意味にとられません。自分よりも相手を優先させる、といった行動は相手に好かれたい、嫌われたくないという気持ちから来ているように思えます。お互いが甘え、かばい合うことで生き残ろうと努力してきた日本人は、嫌われたり、異質であると見なされたりすると集団からはずされてしまい、帰る場を本当に失ってしまいます。集団での生活は食べるためにも、外部から守るためにも、そして互いの意思疎通を図ったりする上でも賢い方法だと思われますが、本当はとても冷たく、閉じた世界になりやすくなります。閉じた世界というのはその世界では生きやすいが、他の世界を知らないために選択肢が少なくなってしまいがちです。それでなくても自分を出せない環境にいるので、選択という余地も無かったと思います。
しかし時代の流れによって、海外から「個性」や「プライベート」「アイデンティティ」などの考え方が入ってきました。「出る杭は打たれる」などという諺のある日本にはなかった考え方ですし、どちらかといえばあまり褒められてこなかった概念によい意味を持たせ、生活に取り込むのは大きな混乱を招いただろうと思います。日本人は団結しながら、新しいものを消化していく力は強いと思いますが、いくらなんでも今までの生活の知恵をあっさりと捨てきることなどできません。いいものを取り込んでいこうというのはいいことですが、そんなに早くできることでもありませんし、取り込む力も世代によって違います。今の若者たちは、取り込み始めたばかりの世代を親に持っている世代なのではと思います。親たちの世代も混乱や摩擦があったと思いますが、時代の急速な変化と親や教育の考え方の差は子供に、より大きな混乱を与えやすいと感じられます。「個性を尊重した教育を」と片方では言いながら、「追いつけ追い越せ」で作ったみんな同じように育てようとした教育を使いまわしていては時代に適していない子供ができてしまうのも当然ではないかと思うのです。
そこに不況という社会全体への混乱がやってきて、まだ自分の考えをもつ訓練すらされていない子供たちには影響が大きすぎます。前に出ていいのか、どうやって自分の意見を表現していいのかわからないため、問題行動を起こすのだとも考えられないでしょうか。いじめだけではなく、特に問題のないとされている子供の非行、登校拒否、引きこもりなど、最近注目されている事件や現象はこういったことも背景にあると考えられると思います。特にいい子は大人の顔色を見ている場合が多く、大人の何気ない「若い子はしっかりしていない」「子供は何も考えず行動している」などの言葉に反応します。マスコミからの情報にも敏感だと思います。自分が得た情報から自分で考え、しっかりしようと思うのではなく、大人からの誘導で考えを持ち、必要以上にプレッシャーを感じてしまう部分はあると思われます。

第二章 『いい子』の現状

 今まではいい子を取り巻く環境や生まれた背景について述べてきました。これからはいい子が一体どんな悩みを持っているのかについて考えてみたいと思います。一般にいい子だけでなく、子供たちの悩みは、勉強の出来不出来はもちろん、背の高さや太っているといった容姿に関連することなどの他人との比較から生じる悩みや、自分と友人の関係やそこから発展して自分への疑問や苛立ちからくる悩みなどがあるようです。その中で私はいい子が持つ自分自身に対する悩みと、悩みが解決に向かうまでの環境を調べることにしました。アンケートというものの全体の割合としての数値だけでなく、この項目を選んだ人が次の質問でこの項目を選ぶ、という心の動きも調べていこうと思いました。
私が採ったアンケートの第一問は、「他人からの評価は気になりますか」という質問にしました。私の考える『いい子』は他人の評価が自分の価値であるかのように考えているのではないかという恐怖があったからです。結果は七十五パーセント以上の人が気になると答え、その中で一番気になるのが友人からの評価、二番目が異性からの評価が気になると答えています。このぐらいの年頃なら、誰でもそうだろうと思われる結果でした。ただその中に、母や父、先生、世間からの評価が気になるといった声も聞かれます。私のミスで『世間』という答えの選択肢は無かったのですが、その他の記入欄に「赤の他人」や「社会」など世間を表すような言葉を記入した人が五パーセントいました。アンケートの解釈によっては、「社会でどれぐらい通用するか」が気になるともとれますが、私には「社会ではこんなことはしてはいけない」「社会ではこうした方が認められるのではないか」という『世間様』に代表される日本的な考え方が子供から大人に変わる世代でも気にされていると思いました。
次の質問は、「あなたは自分のことを『いい子』または『いい子ぶっている』と思いますか」という質問でした。始めの意図としては自分をいい子だと感じている人のアンケートだけ観察しようというつもりで作った設問ですが、自分自身についてどれだけ意識を持っているか知ることも出来たように思います。(上表1)全体の三十二パーセントは「どちらも思わない」を選びましたが、約三十六パーセントが「いい子ぶっている」と、二十パーセントが「いい子でもあり、いい子ぶっていることもある」と回答しました。ご存じの通り、「いい子ぶる」という言葉は良い意味では使われません。つまり「いい子ぶっている」を選んだ人は何かしらの言動を恥じていたり、そんな言動をした自分を嫌いだと思うため、この項目を選んだことになります。更に、「いい子ぶる」というのは誰かに対してよく見せるという意味ですから、ありのままの自分を出さず隠しているという意味にもとれるかと思います。私が予想したよりも、「いい子ぶっている」を選んだ人が多く感じられました。
次に、その言動が行なわれた場が家庭の外か、中かを尋ねてみました。外、つまり学校や、塾など、と答えた人が半数以上を占めました。さらに両方と答えた人が二十六パーセントもいて、その他の欄に「全て」と記入した人もいました。この「全て」に表されると思うのですが、自分が好ましいと思っていない状態を家庭内でも外でも休まず続けていると、いつも自分が出せない状態が続きます。絶えず演じてなければいけないというのは子供にとってはストレスとなります。ありのままを受けとめてもらえない、という悲しい声は固い殻の中にどんどん潜っていってしまうと恐ろしいことになります。ではなぜ、子供達は自分自身をいい子だと認めることが出来ず、いい子ぶらなくてはいけないのでしょうか。
日本人はお互いの気心が知れていて遠慮しなくてもいい「内」と、多少の遠慮が必要である「外」と、遠慮も何も必要ではない「他人」の域を区別して暮らしていました。最近はその区別のはっきりしないところもできていますが、区別のある大人のそばで育った子供ならば自分で区別する子供がいても当然です。「外」でいい子ぶると答えた子供が「内」を基準としていて、それよりも外で「いい格好をみせる」「遠慮をする」という形でいい子ぶると答えているのならば納得が出来ます。しかし、両方いい子ぶっていると答えた子供たちは、自分の休息の場を確保できていないのではという心配があります。高校から大学へ進み、社会に出るに連れて、その人の世界は広がっていくので、確保しやすい環境が広がっていくことは考えられますが、自分で確保していく術を学べず、知らずに大人になることは、大変危険なことだと思います。
そこで、今度は子供が内では自分をありのままに出せる環境なのかどうかを見ていきたいと思います。「両親と仲がよいか」という質問に対して、良いと答えた人は六十四パーセントにも上りました。男子の方が割合は低いようですが、このぐらいの年の男子ではわかるような気がします。
次に「両親に対してどのようなときに秘密を持ちますか」という質問と、いくつでも選べる五つの選択肢をもうけてみました。大して意味の違わない選択肢なのですが、言葉のニュアンスが違えば、選ぶ方の気持ちが違うように感じられました。(上表2)さすがに秘密は持たないという人は片方の手で足りるぐらいの人数が選んでいました。「心配をかけることは秘密にする」「後ろめたいことは秘密にする」「うるさく聞かれそうなことは秘密にする」のそれぞれの合計数はほとんど大差はありませんでしたし、集計しているとこの三つ全てに丸をつける人もいました。ただ、両親と「仲が良い」を選んだ人の多くは二番三番を主に選んでいたようです。高校生や大学生になって秘密がないわけもないのですが、二番を選んだ人は親に気を遣っていることが察せられます。三番を選んだ人は親に気を遣っているというよりは、親には悪いところは見せたくないという気持ちが多く感じられるかと思います。四番を選んだ人は、本当に過保護のあまり口うるさい親なのかもしれませんし、単純に聞かれるようなことは言いたくないという意味かもしれません。集計してみると、似たような選択肢のせいなのか、いくつでも選べるせいなのかニ、三、四番のどれか一つだけを選んだ人はほとんどいませんでした。ただ、秘密を持つということは家庭内では親と接している時間だけでなく、自分一人だけの時間を確保しているということはいえそうです。一人だけの時間はありのままの自分でいるわけですが、それを誰にも見せられないと、何か起こった時に誰かを支えや頼りにしにくくなることがあると思います。それではありのままの自分を出せる相手や、悩みを相談できる相手はいるのでしょうか。
そこで「何でも相談できる相手はいますか」という質問をしてみました。アンケートの中で一番重要な質問でしたし、悩んだ時や苦しい時に解決に向かえる方法はこの質問にかかっているのだと私は思っています。女子はいると答えた人が圧倒的に多かったのですが、男子は高校、大学ともにそれほど大差がありませんでした。(次ページ表3)これは集計数が女子の方が多かったことも関係がないとは言い切れませんが、明らかに男子の方が相談相手を持っていないようです。私という女の目から見ると男子同士は仲が良いようですが、相談や悩みなど深刻な話はあまりしないのが現状なのかもしれません。男子は悩みを自分の中で解決していこうという意志が強いというようにもとれますし、下手な格好を見せられないという見栄もあるのかもしれません。しかし、高校生や大学生というこれからも伸びていく時間の中で相談できる相手とめぐり合えないということはあまりいいことではない様に感じられます。
相談相手としては男女ともに友人が最も多い結果となりました。女子は母親が次いで多かったのですが、父親に相談する男子は少なく、男女ともに先生を選択した人もほとんどいませんでした。その他の欄に先輩と書く人も少ないところを見ると、大人に相談するケースはとても少ないということになります。友人が一番話しやすいことはよくわかりますが、経験豊かな大人が相談に乗ることはあまりないようです。いかに周りの大人に相談がしにくいか、相談できる環境がないかということがわかると思います。
高校生にのみ、次の質問をしてみました。「早く社会に出たいと思いますか。」この質問は社会をどのようなものとして認識しているかを知りたくて付け足したものでした。このアンケートは、大学へ進学したいと思っている人に答えてもらったので、就職しようと思っている人よりは社会は遠いもので作られたイメージが強いと思われます。ピーターパン症候群という言葉が聞かれるようになってもう何年にもなりますが、私が調べたところでは「出たくない」といった人が「出たい」といった人よりも実際は少なかったです。しかし「わからない」と答えた人は多く、やはり社会への壁が厚く不安や期待が入り混じっている状態であることを再確認する結果となりました。理由は様々で、これだとはっきり言えるものはありませんが、強いて言えば「今のほうが楽しい」という理由のように思えます。高校生は勉強も部活も遊びもハードスケジュールであることが多いですが、そこに充実を見出すこともあるでしょうし、与えられた課題をこなしていくのに精一杯で、考える暇もないという場合もあると思います。
先行きへの不安は悩みが解決に向かいにくくするように私には思えます。明るい希望や未来を描けなくなればなるほど、ただ、「どうしようどうしよう」と解決まで向かえずに苦しむ一方になってしまいがちなのです。社会が厳しいものであり、暗いものであると思うと、それだけで社会に出て行くのが嫌になるのは当然です。だからといって誰にでも社会が明るいものであるように変えるのは無理なことだと実は私は思っています。ではどうしたらいいのでしょうか。やはり人が変わるしかないのです。

第三章 これからの「いい子」

 調べているうちに、私自身は大人の側から見ているのか、子供の側から見ているのかわからなくなったことがしばしばでした。しかし、圧倒的に大人の立場から見た子供への教育や心理の参考文献が多く、当然ですが子供の立場から物を言った資料は少ないのです。私はギリギリのところでぶら下がりながら子供の立場に立ちたいと思い、論文を書きました。その中で、「こんな風に育ちたくなかった」とか「こんな親のところに生まれたくなかった」と子供が大人に文句を言っても、何の解決にもならないということを改めて思い知らされました。例え誘導されて作られた『いい子』に育ってしまってから、やり直そうにも大人への文句では現実に立ち向かうことはできないのですから。大人は大人の側で努力してもらうしかありません。そして子供は子供側で努力しなければなりません。
序章でも述べたとおり、深く悩みこみ、解決に向かうことが出来ずに苦しんだり、パニックになる前に、そしてお金を出していくスクールに行かなくても自分で解決できる道を探す力が出るようにと、考えてきました。大人の本を読むと『子供は言われなくても頑張っている』『無理をしてでも頑張る子供たち』とあり、まさにそのとおりだと思うのです。子供は体も心も成長の途中ですから、大人よりも心が小さく受け止めるだけで精一杯になってしまうところがあります。高校生や大学生になると、大人への準備の段階に入っていくわけですから、少し心に余裕が出てくると思います。余裕が出てきたら、一度自分自身を振り返ってほしいのです。何が好きだったか、どんな出来事があったか、悲しかったか、嬉しかったか、出会った人の言葉や顔などを思い出してほしいのです。そしてできるだけ自分を振り返るだけの時間の余裕を持ち、自分をいつも知ろうと意識していなければいけないと思います。意識していれば、自分で先の幅広い選択が出来るはずですし、未来を描きやすくなると思います。今の世の中はたくさんの選択が出来るようになったのだから、選択することを通じて社会が身近に世界が広くなります。更に選択は自分の責任を意識することもでもあります。そのとき失敗をおかしたとしてものちには必ず自分のためになると思います。
そして、悩んだ時には信用できる人に思い切って相談したらいいのです。私の知る限り、『いい子』たちは友人は少なくないですし、友人が困ったとき助けてあげたいと思っています。「ありのままの自分を受け留めてもらえないかもしれない」「何となく相談しにくい」というのもわからなくはないですが、誰でも悩みは持っているのだから、相談することはちっとも恥ずかしいことではないと知ってください。相談して、励ましてもらいながら解決できる力が身についていくと思います。
そして最後に、やはり大人には知ってもらいたく、そして大人になる私には肝に銘じておかなければならないことがあります。私もいつかは人の親になるでしょう。そのときに必ず思い出したいことは、見守る姿勢です。親が子供に幸せになってもらいたいのは当たり前ですが、だからといって親が誘導していくのが子供の幸せではないということを考えていただきたいのです。赤ちゃんは失敗を恐れたりはしません。手にとって口に含んで知っていくのと同じように、高校生でも大学生でも失敗して知っていきます。失敗が幸せに続いていくと思います。それでも親が子供の失敗を恐れるとしたら、それは親の面子です。
私が親になったら子供が喜んでいたら一緒に喜び、悲しんでいたら一緒に悲しんでいきたいと思います。そして相談にのってほしいと言われたらちゃんと聞いてあげたいと思います。まだまだ当分学校や社会は変わりませんが、身近な親子の意識から変えていくことができたら、学校や社会も変わっていくのではないでしょうか。さらに『いい子』が力をつけた社会は、よりよいものに変わっていくはずだと、私は思います。




《参考文献》順不同

土居健郎 『「甘え」の構造』(弘文堂 1971年)
土居健郎 『「甘え」の周辺』(弘文堂 1987年)
C・ロシュフォール 西川祐子訳 『追いつめられた子供たち』(人文書院 1978年)
岩井勇児・子安増生 『個人差の心理学』(黎明書房 1980年)
吉岡忍  『ルポタージュ「もう学校にはいられない」聖職を去る教師たちの証言』
(リブロ 1983年)
A・ミラー 野田倬訳 『才能ある子のドラマ』(人文書院 1984年)
塩谷智美 『ドキュメント マインドレイプ・自己啓発セミナーの危険な素顔』
     (三・一書房 1997年)
宮川俊彦 『壊れる子供の事件簿』(角川書店 1999年)
町沢静夫 『大人になれないこの国の子供たち [壊れた心]の精神分析』
(PHP研究所 1999年)
小田嶋隆 『人はなぜ学歴にこだわるのか。』(株式会社メディアワークス 2000年)

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