シャボン玉の中のお姫様

 私が初めて亮に会ったのは、仮想現実の世界だった。光る画面と文字の世界になら何も意識しなくても入っていける。インターネット上で見かけた彼の小説があまりにも色がきれいだったので、どんな人だろうと興味を持ったのがきっかけだった。私が読んだ話は高層ビルの中で四人の男女が出会う話なのだが、何を言いたいのか全くわからない代わりに、登場人物たちが窓から見る空の青が夢を見ているかのようにきれいだった。私は本を読みながら、どんどん頭のスクリーンに文章を絵に変換する。彼の話を読みながら写真でも見たことないような薄くて甘い青い色が話から滲み出てきた。今までに色だけをこんなに感じたことがなかったので、おもしろかった。同じように書いた人にも興味がわいた。それで、私から誘って会うことにしたのだ。普段は気になる人がいてもそうやすやすと誘えないのに、仮想現実ではどうしてこうも積極的になれるのか、自分でも不思議だった。向こうも簡単に承諾してくれた。
 仮想現実から、現実になる。最近、スリルが足りなくなっている分だけわくわくした。

 これは私という人間が現実になっていく話でもある。

 冬の東京は寒い。ビルの間を歩くと空が眩しくて世界がにじんだ。田舎から出てきて、半年以上経って、ようやく肩の張らない歩き方ができるようになってきたと思う。田舎の景色も、友人も、家族も大好きだったが、ホームシックより先に誰も知らないところで一人で暮らすことにほっとしていた。私の笑顔仮面は、家族であっても誰かがいると無意識にエンターテイナーになろうとしていて、とても疲れる。東京で少しずつ知り合いは増えてきたけれど、ビルの谷間はどういうわけか一人の気分を味わうことが出来て、気楽だった。同じような感覚を最近どっぷりはまり気味のインターネットの世界でも味わうことが出来る。知らない誰かと話すことは気楽だったし、顔を合わさずに済むことは煩わしさをあまり感じないで済んだ。私が覗くサイトは大体小説を書いている人が集まっていて年齢や素顔を知らなくてもサークルのようだった。お互いに興味がある人とだけコンタクトをとればいい。教室の隅でひそひそやる必要もなく、いじめるほど相手に興味がわくわけでもなくただメールを出すだけで済む。そうやって青い小説と青い作者に出会い、これから会いに行くのだ。
 寒いのに興奮していて頬が熱い。何に期待しているんだろうか、自分でもよくわからなくてそのくせ足だけは浮かれ気味である。私は早足で歩くことで、気分を押さえようと思った。何を話そうとか、全く考えていないけれど初対面の人と失敗したことは一度もない。どうすれば好印象をもたれるのか、私はちゃんと知っていた。それは転勤族を親にもったことで得たスキルだと思っている。人を観察するのが好きだし、そこから話を発展させればいい。うっかり周りを観察して東京のあまりの人の多さに酔ったこともあったが、今は心も目も、半分閉じているような状態に慣れてきた。ああ、これが都会の人なんだな、とお上りさんの私はよく思ってしまう。
 待ち合わせ場所は遊園地の入場口の前だった。来てみれば平日のせいか閑散としていて、なんだか怖いようだ。時間より早く着いてしまって、私は大きなポプラの木の下で待つことにした。ここには高いビルもないし、空が枝越しに見える。私は空を見るのが好きだ。夜でも、昼でも、目眩がするほど高いところがいい。都会の空は、実家より色が薄い気がしたけれど、その分少し寂しい気がしていいと思う。華やかな音楽が流れてきてよけいに寂しさを誘った。でもこれで目印なんかなくても、お互いがわかるだろう。
 この遊園地には古くて有名なメリーゴーラウンドがあると、教えてくれたのも彼だ。まだ、本名を知らない。ハンドルネームは縷々、という。私は読めなかったし、意味も知らなかったので、チャットで直接彼に聞いた。「るる」と読み、意味は長く続く、と言う意味だそうだ。どうしてこの名前にしたのかは聞かなかったけれど、その時ようやく頭の中にイメージが出来た。名前の音がないと、イメージできないものなんだな、と気づいておかしかった。ちなみに私のハンドルネームは天沢という。高校の文芸部時代に使っていた名前だ、と説明しておいた。一年間付き合っていた先輩の名前でもあるけれど、未練たらしいと思われるのが嫌だった。今は顔も思い出せなくて、夢に出てくる人みたいに儚い。写真も、手紙も全て捨ててしまって、思い出すすべはない。今では、文字でしかこの名前と接しないから、切なく感じることはほとんどなくなっていた。
「天沢さん?」
遠くから歩いてきて、あの人だなとちゃんと気づいていた。それなのに間近に来て彼の目を見て、胸が細い針で貫かれたようにつきり、と痛んだ。理由はわからない。ただ初めてのことに動揺して、私は声が出なくて、頷いただけだった。感じ悪いな、と自分でも思ったけれど、どうしようもない。
「初めまして、僕は関谷亮と言います」
「私は、野田絹子です。今日は来てくれて、ありがとう」
どうにか体勢を立て直して微笑みながら彼を観察した。何が言いたいのかわからないところが彼の小説に似ていると思う。目が一番印象的だけれど、他の部分もどことなく変わった人だった。残念ながら青い印象はない。
 初めての人と遊園地というのは、奇妙なもので、話が合わないわけでもないけれど、気心がしれているわけでもなくて、自分でもぎくしゃくしていることがよくわかる。向こうも相当緊張しているようだ。それがおかしくて、何となく顔がにやけてしまう。
 入場口からまっすぐ続く並木が切れたところから、メリーゴーラウンドが見えた。電飾はついているものの、回ってはいない。
「ライ麦畑でつかまえて、読んだことありますか」
「ええと、サリンジャー。ナインストーリーは読んだんだけど。そちらの方が有名だよね」
彼は説明したものかどうか、迷った様子だったので、私は促した。
「主人公の妹が、すごくかいわいくて。それに、メリーゴーラウンドのシーンがすごくいいんですよ」
「今度、読んでみる」
 近づいてみると、メリーゴーラウンドは確かに年代物と思わせる。塗装は剥げ、ガムテープで修復してあるところもある。しかし、馬だけじゃなく豚がいたり、馬車のいすの部分は布張りになっているところがよかった。
「もうちょっと夜まで待ちましょうか、夜の方がきれいみたいだから」
彼は先に歩き始めた。私はメリーゴーラウンドを横目に見ながら、デートみたいだと思ってわくわくした。デートなんて久しぶりだ。先輩と付き合って以来だった。
「ジェットコースターは平気ですか?」
「平気です、むしろ好きな方」
混んでいれば、この柵の間は人がたくさんいるのだろうか。通り抜けるのが面倒くさくてその柵を乗り越えて入場口に向かう。待ちくたびれた人々の落書きがコンクリートの壁にたくさん残されていた。
「チケット売ってなかったんですけど」
「ここでお金を払ってください」
スタッフにお金を渡してジェットコースターの一番後ろに並んで座った。いすが近すぎて、私はまたもや緊張してしまった。
「一番後ろが一番怖いんですよね」
「そうですね」
こういうときに奇妙な沈黙が生まれる。距離が近すぎて何を話したらいいのか話題に迷った。少しして、女の子の二人連れが乗り込み、十六人乗りのジェットコースターは走り出した。
「ゆっくり上がっていくのが怖いですよね」
相づちを打つ前に一番先頭が落ち始めた。女の子の悲鳴があがる。冷たい風が顔に痛い。隣の彼は絶叫している。何となく人間らしいことに安心したとき、世界はひっくり返っていた。前の席の女の子の悲鳴が楽しかった。
「ふらふらする」
「ほんと、ほんと」
顔がひりひりしていて、体を温めたかった。見れば彼もそんな様子だった。
「お茶、しましょうよ、寒くて」
私が誘って、遊園地内のレストランに入った。体全体がほわっと暖かくなって、指先まで血が巡り始めたのを感じる。一番窓際の席に腰掛け、彼はエスプレッソを、私はアップルティーとチョコレートケーキを頼んだ。レストランは広いのに家族連れが一組あるだけだ。美術館の中のように静かな音楽が流れている。何となくむかいあうことに慣れなくて、居心地悪くしていると、すぐ窓の外をジェットコースターの轟音が駆け下りていった。
「さっき乗ったのじゃないのかな」
「なんか光りましたね。写真かな」
エスプレッソとお茶はすぐに来た。エスプレッソにシナモンスティックが付いていて彼は所在なげにカップの中をくるくる回していた。
「後でメリーゴーラウンドに乗るよね」
「いや、僕はもう寒いからいいです」
「つまんないなぁ」
私は彼を見た。癖みたいなものでついじっと観察してしまう。彼はエスプレッソをごくごく飲んでいた。コーヒーカップはすぐにからになった。あんなに濃いものを一息で飲むなんて。よっぽど手持ちぶさたなんだろうと思って顔を見た。目がちらりと遭って、私は胸がつきりとして何気なくそらしてしまった。私も、彼もおどおどしているのか、堂々としているのか、わからない。
「あの話、どうやって思いついたの?」
「どうやってって」
話題を選び間違ったなと思ったのは彼の、空っぽのカップを何度も覗いている様子を見たときだ。落ち着きがないから、困っているんだろう。
「なんだか、青い色がとてもきれいでした、ってまるで絵を見ている感想みたいね。でも、その青い色がすごく印象的だったの。だから、今日来る人も何となく青い服を着てくるのかと思っちゃった」
「ああ、ええと、残念だけど」
黒い服を着た彼はカップの中を覗いている。私はもうちょっとこの話題で話せるかと思ったのに、意外に早く止まってしまって焦ってしまった。彼の方はそのことで困ってはいるものの、なにか話すような気配は見られない。
「私、最近よく思い出す話があるんだ」
「どんな?」
 手持ちぶさたの彼は座り直す。どうして、この話題を選んだのか、自分でもよくわからなかったが、今更止められない。仕方なく、話し始めた。中学の国語の教科書に載っていた仮面の話だ。
 その世界のみんなが仮面をかぶって生活している。家でも、学校でも町中の人々、全て。誰の仮面の表情も笑顔だ。主人公もいつも仮面をかぶっているので本当の自分の顔を見たことがない。それをとても不審に思っている。でも両親も先生も仮面があってよかった、世界は平和だし、戦争もなくなった、と言う。だから、仮面を取ってはいけませんよ、と。仮面を外すことはその町では固く禁じられていた。その後少年は町はずれで仮面をしていない少女に会い、結局仮面を取ってしまう。
「その後どうなったか、覚えてないんだけど、読んですぐ、怖いなぁっていう感想をすぐに持ったの」
彼の表情からはなんの感想も見えてこない。この人が私のような人間じゃないことをちゃんと知っていて私は話しているんだ、と気づいた。この話は私の高校時代、もしかしたらその前から、そして今でも、自分にシグナルを鳴らしている話だった。私には、とても重要な話だった。
「今でも、怖いなと思うのよね。私、よく不本意に笑ってるときがあるから」
「今も、そうですか?」
ちょっと考えてしまう。彼は私が何を言いたいのか、きっとわかっているに違いない。そんな言い方だ。今この瞬間も、よく思われたくて笑ってしまうところはある。無意識になってきた自分の仮面は、自分さえ気づかなければはずれない。
 彼の目を見て、はっとした。やっと何に似ているかわかった。子供の目だ。たまに子供が見せる、「何でも知っている」ような目に彼の目は似ている。だから、こんなに心許ない気分になるのだ。
「どうかな?」
私は誤魔化してアップルティーを口に含んだ。アップルティーはもう渋くて、舌が少ししびれた。
「よくある話だと思いますよ」
しばらく無言の後、彼は言った。私はまたつきり、と胸が痛んだ。なぜかショックだった。こんな風に突き放されたくてこの話をしたわけじゃなかったはずだ。もっと優しい言葉を期待していたんだ、私は。そこまで考えて、無意識に初対面のこの人に頼ったことを後悔した。強制や圧迫をこの人に与えたかもしれない。私が誰かからこの話を聞いていたら、優しい言葉をかけなければと考えるように。そういう意味で、やはり彼は私とは違ったのだ。
「そう、ね。そうかもしれない。ごめんね、急にこんな話をして」
私はなんだかしらけた気分になった。外はだんだん薄暗くなってきたけれど、もう、この人と一緒にいたくないと思ってしまった。だから結局メリーゴーラウンドも見ずに帰ってしまった。

 麦わら帽子をかぶって、水色のスモックを着て、黄色い下駄箱に靴を入れた、自分の小さな手。「おはよう」という美穂ちゃんの声。白く光る幼稚園のテラスで、私は美穂ちゃんに冷たくしたのだ。美穂ちゃんがあまりにもいい子だったから、自分よりもずっと。美穂ちゃんは先生にかわいがられていた。本当は私が一番かわいがって欲しかった。でも、ずるをする自分も知っていた。だから。
 美穂ちゃんは幼稚園に来なくなった。入院して、その年の暮れに死んでしまった。私は当時まだ五歳だったけれど、その時のことをちゃんと後悔していた。私は優しくない子で、美穂ちゃんは本当にいい子だった。あの時、美穂ちゃんに挨拶していれば、こんな気持ちにならなかったはずだ。人の命は私がどんなに後悔して、謝りたくてやり直したくても戻ってこないんだとわかってしまった。
 大人になった今でも、夢に見る。このことを私は一生忘れず、意識して生きていくのだろうと、朝のベッドで思う。

 私は彼に次の日に電話をしていた。しらけて帰ってきた私を、私自身が許せなかったからだ。
「今、アルバイト中なんです」
「そう、邪魔しちゃ悪いから、切るね。ところで何のアルバイトなの?」
「ホテルのベルボーイ」
彼は驚きながらもこの予期せぬ電話に喜んでいたようだった。電話越しでは、何ともいい人のように感じられて、不思議だった。
「また、どこか行きませんか」
「そうですね」
すんなり了解できた自分も不思議だった。多分電話だったからかもしれない。
 中学三年生になるまで、電話は嫌いだった。ある電話がきっかけで、電話は実際に会うときよりもその人の表情がよく伝わることに気づいたのだった。当時、片思いをしていた人に電話をかけたら、なんだか妙にうきうきと落ち着きがなくて、同じクラスの子の話が見え隠れする。私は絶望しながら、電話の相手に尋ねてしまった。
「何かあった?」
 その男は嬉しそうにクラスメイトと付き合うことになったと伝えたのだった。学校ではわからなかったのに、どうして声だけだとわかってしまったのだろう。自分の鋭さにがっくりしながら受話器を置いたことを覚えている。
 それ以来、友達からの相談や好きな人と話すとき電話を使うことが増えた。電話は心の聴診器のようなものだった。ただ、聞く方は私だけだ。私の心を聞く人は現れない。彼も私の心を聞く人じゃないんだろうな、と受話器を下ろしたとき思った。

 その日、チャットに行かなかったので、縷々からメールが来ていた。何となくチャットで彼に会うのが嫌だった。仮想現実に現実を持ち込んだ結果、気楽にやってきた場所を失ってしまうのかもしれない。
 最近仲良くなったチャットのメンバーの一人からもメールが来ていた。彼女は自称高校生でヨリコという。以前チャットで会おうかという話をしたことがあって、そのお誘いだった。今週の金曜の四時頃、会わないかという話で、その返事を送った。
 彼のメールは偶然にも、ヨリコと同じ日の夜に会わないかというお誘いだった。電話ではあっさりと了承したものの、今思うと面倒だった。嫌だとは思わなかったが、私の目的は一応果たされたわけだから、私には用事がない。何を話したらいいのかもよくわからない相手と、また会うのは気が重かった。そして何よりも彼は私を共感的に理解してくれないという嫌な予感があった。とりあえずその日は用事がある旨だけ書いてメールを送っておいた。

 天沢さんと付き合うことになった私は有頂天で、自分中心に世界が動き始めてしまっていた。いつもはそんなことはないのに初めてうまくいきそうな恋に酔っていたのだろう。夏休みのある日に呼び出され、近所の幼稚園に無断で侵入した。懐かしいような新鮮なような、とにかくドキドキしていた。空はまさしく夏の色で、雲はもこもこと絵に描いたようだった。私は幸せな気持ちで空を眺めていた。でも、天沢さんには違う色に見えていたのかもしれない。
「本当に僕のこと好きなの?」
その一言がどんなに傷ついたかしれない。こんなにも幸せな気分でいる私を見ても、この人は私の気持ちがわからなくて苦しんでいるのだと思うと、涙が出た。わかりあうということは無理なのかと思った。その場ですぐ別れようと言われなくても、ずっと小さな傷が残った。

 約束の喫茶店の場所はすぐわかった。私は未だに渋谷なんか数えるほどしか来たことがないのに、ヨリコの指示したところは的確でわかりやすかった。そして趣味がいい。明るい色をした木の扉を押して、店内に入ると、派手な女子高生が一人いるだけで、他にお客はいない。どうやらまだ彼女は来ていないらしい。と、その女の子がこちらを振り向いた。人のことは言えないけれど、少し面長だな、と思った。ピンクのテカテカした唇が私に向かって言葉を発した。
「天沢でしょう?私、ヨリコ」
「ヨリコってあの、ヨリコ?」
ヨリコの前の席に腰掛けると、ヨリコは入り口に寄って、看板を裏返した。
「そうだよ、びっくりした?」
チャットでのヨリコはテレビで見るような女子高生のイメージから遠くて、元気などちらかと言えば素朴な子かと思っていたのだ。私が頷くのをヨリコは笑った。
「このお店、私のいとこが経営してるの。今日は臨時休業だったから貸してもらったんだ。コーヒーでいいかな?」
そう言いながらカウンターに入る仕草が慣れている。私は驚いたことが恥ずかしくてまた頷いた。縷々にしろ、ヨリコにしろ、仮想現実と現実にはギャップがあるんだと思い知らされる。
「うん、ありがと」
私もカウンターの席に移って、ヨリコの手元を見る。喫茶店のカウンターの中はおもしろいものがたくさんある。その中でヨリコはカラフルな花模様の長い爪でしみ一つないきれいなカップをとり上げる。ヨリコの外見とは違ってとても落ち着いていて、見ていて安心を覚える。
「お店、手伝ったりするの?」
「うん、ここでバイトしたりするよ。入ってきて、お客さんがちょっとびっくりするんだ、私の格好見て。さっきの話しかけられたときの天沢みたいに」
やかんの湯気の向こうで、ヨリコは笑った。話していると、チャットのヨリコだな、とわかって安心する。
「天沢は見た目とチャットの内容が一致するね、すぐわかったもん」
「変わらないように気をつけてるの。みんな変わっていくから。大学入っても、ちっとも変わらないって、実家の方の友達によく言われるし」
「ふうん、おもしろいね」
ゆっくりお湯を注ぎながら顔を上げずにヨリコは言った。集中しているのだろう。ヨリコはちゃんと私のことをお客様だと思ってくれている。コーヒーの香りが広がって、何とも言えない気持ちになる。
「実家はどこなの?」
「静岡。海の近くの田舎だよ。田圃がひろがってて、夜は電灯がないとこもあるから、田圃に落ちたりする」
ヨリコは女子高生らしい笑い方をする。私も高校の時こうしてよく笑ったなと思う。もう、あんな風に笑ったりしなくなった。たった半年ちょっとの間に何がそんなに変わったんだろう。変わらないように気をつけながら、着実に変わっていくし、年をとっていくんだなと、コーヒーの香りをかぎながら思う。
「はい、どうぞ。ここのスペシャルブレンドなのだ」
ヨリコは自分にも同じものを入れて私の隣に座った。照明に照らされてコーヒーがきらりと光った。
「ねえ、天沢も田圃に落ちたりした?」
「一回ある。自転車ごと、ダイブしちゃってさ、春先だったから、水入ってなくて助かったけどね」
ヨリコは笑って「案外どじなんだね」とまた笑う。
「案外、じゃなくてかなり。おっちょこちょいなの、お皿ももう二枚割ってる」
「ふふ、一人暮らしか、いいなぁ」
ヨリコの白い手がカップを包んでいる。その様子に、想像していたヨリコと現実のヨリコが重なってきた。
「一人暮らし、したい?」
「うん、でも寂しがりだからな、あたしは。すぐ戻って来ちゃうかもしれない」
「今、高校何年生?」
「二年生。そろそろ受験勉強しなくちゃいけなくて、ここでもバイトできなくなりそうなんだ」
ヨリコの入れてくれたコーヒーはおいしい。そう言うと、ヨリコは嬉しそうに笑った。
「ここのバイト好きなんだ。大学入っても続けたいけど、まだ行きたい大学も方向も決まらないし、なんか不安なんだよね」
「なるようになるんだけどね、入っちゃうと。でも、私もこの先どうなるのかって考えると、やっぱり不安。明るい明日、じゃなくて見えない夜が続く、みたいな」
「あたしも、そういう感じだなぁ」
「ヨリコはいいよ、彼氏もいるしさ。私なんか、恋もしてなくて。すかすかな気分」
私の言葉にヨリコは少し困った顔をした。ちょっと沈黙が流れて、間をもたすためにコーヒーをすすった。
「何か、かけようか?」
「うん、じゃあ、お願いしようかな」
ヨリコはカウンターの中のステレオをいじって、いくつかの雑音が流れた後、ジャズの一曲を選び出した。
「ジャズ、好きなの?」
「中学の時はブラバンでサックスやってて、そのころから、結構好きなの」
私は楽器はほとんどできない。歌うのも、聞くのも好きだけど、その方面に興味は伸びていかなかった。
「かっこいいね、今はもうやらないの?」
ヨリコはコーヒーの中を覗き込んでいたが、ようやく、隣にいるから聞き取れるぐらいの声で応えた。
「やりたかったんだけど、何となく部活には行かなかった。私って、何をやっても中途半端だから、一つのことに集中できないんだ。小説だって、ちゃんと最後までなかなか書けないし、どんな大学がいいかも選べないし。とりあえず、自分のメンツのために勉強してるとこあって、でもガリ勉だと思われたくないからこんな格好して。私ね、母親にドラマ一通り見てもらって、内容をいろいろ聞くの。次の日に、学校で友達と話したり出来るように。おかしいでしょ?」
あまりにも突然に涙目で、そして早口に急に告白されて、私は戸惑ってしまう。
「学校だと疲れちゃう、友達とか嫌いじゃないけど、自分じゃなくて人形みたいだし、自分のいる場所じゃない気がする。でも、彼にだってこんなこと言えない、きっとわかってもらえないし、今の私が好きなんだと思うと怖くて言えないよ」
私は小さく、「うん」と頷くしかできない。
「お母さんには言ったことあるの。でも、どうして私がこんなにプレッシャーかかってるのか、うまく説明できなかった。自分の気持ちをうまく伝えられないの。それどころか何でこんなに、自分の居場所じゃないところでうまくやろうとしてるのか、自分でもよくわからない」
それなら私もわかると思った。自分の居場所じゃないところに紛れ込んだとき、うまくやろうとして必死になった自分を私も好きになれなかったから。
「泣かないで」
情緒不安定なんだなと思う。高校の頃は私もよく泣いた。どうして泣いたのか、今では理由の一つ一つを思い出せないほど、たくさん泣いた。いつの間にか泣き始めていたヨリコの手に私は手を重ねたていた。
「なんで、初対面の人の前で、泣いてるんだろう、変だね」
泣き笑うヨリコがかわいかった。ヨリコは真面目なのだ。今の私よりもずっと真面目だから、自分に正直になろうとすると、苦しいにちがいない。
「変じゃないよ。ヨリコはいい子だから苦しいんだと思う」
マスカラを気にしながら、ヨリコは目元をティッシュで押さえた。
「天沢が言うと、いい子っていい意味に聞こえるね」
「いい意味で使ってるからね。言葉って使う人の気持ちによって違うものね。ねえ、多分、お母さんもわかってるよ、ヨリコがいい子だって。ヨリコががんばってるから、頼まれたようにテレビを見てるんだよ、きっと?」
「そう、だね」
「それにヨリコはちゃんと居場所、持ってるよ。ここのカウンターでコーヒー入れてたとき、すごく素敵だったよ。学校だけが居場所じゃないんだから。受験勉強で離れちゃうのは仕方ないのかもしれないけど、大学入ってからも続けられるんだから、大丈夫」
「素敵だった?」
ヨリコの口元がほころんでいる。
「素敵だったよ、なんか変?」
「素敵って言葉、久しぶりに聞いた」
「そうかな、普通だよ」
「普通じゃないよ、はまりそう」
ヨリコはもう笑っている。あまりにも気分がころっと変わるので少し驚いた。
「そうか、素敵かぁ」
歌うみたいに呟くヨリコが可愛らしくて、今度は私が笑った。

 次に関谷君と会ったのは日曜の夜だった。風が強くて特に寒い夜に私たちは彼の車で海に出かけた。
 関谷君が車を発進させた。その顔つきがあまりに真剣で、ちょっと怖い。
「免許、いつとったの?」
「夏あけですよ」
それがどうしたというように、関谷君は運転した。私はなるべく邪魔にならないように黙っていた。この道は慣れているのだろう、運転もスムーズだ。私は運転できないし、したいと思ったこともない。ただ乗り物から移り変わる景色を眺めるのはとても好きだ。そういうことが出来るのは、運転していないからだと知っている。特に夜の道路は光が流れていく様子がきれいで自転車をこいでいる頃から好きだった。
「もうすぐつきますよ」と言われる前から、何となく潮の香りがしていた。車から降りて、やはり実家の海とは匂いも違うと思った。東京湾の匂いは知っている匂いではない。この時期の海は風が冷たくて、月が出ていない今日は特に暗くて不気味だ。私たちは缶コーヒーで手を温めながら海の近くまで寄っていった。他にもカップルが来ていて、同じくらいの間隔で佇んでいる。私と彼の間は他のカップルと違って風が通り抜ける隙間が十分にある。その距離に私は安心する。
「月が出てたら、よかったのにね。そうしたら、銀波が見えたかもしれない」
「銀波?」
「そう。波が月の光できらきら光るの。ちょっと口で言い表せないぐらいきれいなの、見たことあるんだ」
天沢さんに連れていてもらった海で見たのだった。冬になると人恋しいからか、もう会うことはない人を思いだしてしまう。
「見たいですね」
「うん、見せてあげたい」
私はきれいなものを見せてあげたいという、それだけの気持ちから言葉を口にしていた。けれど、言った方と聞いた方と同じ意味をくみ取ることは難しい。寒いからと言って車に戻る途中で手をつないできた彼をはっきり断ることが出来ない私が突き放せるわけもなく、私たちは付き合うことになった。

あの時は天沢さんのバイクの後ろに乗って海へ行った。海に着くまで細い月に気づかなかった。夜の真っ暗な海と冬が始まる時の澄んだ空気を月が照らしていた。波に反射した光があちらこちらで電飾のように輝いていて、私は『天空の城ラピュタ』の飛行石がある洞窟の中にいるような気分だった。幻か夢のような景色に感動し、一緒に見たのがこの人で幸せだなとしみじみ思い、手を強く握った記憶がある。
 それでも私の思いはいつでも届かなかった。
「好かれているのか自信がない。他に誰か好きな人がいたんじゃないの」
 恋をして、その恋が破れるたびに同じことを言われる自分が悲しく、悔しく、恨めしかった。始めに振った相手を憎み、それから自分を憎んだ。私は「絹子」であろうとして、出来るだけ相手に気を遣い、幸せだということを伝えようと思っているのに、相手はまるでシャボン玉の内側と外側ぐらいの距離を私との間に感じている。相手が変わっても一様に同じことを言われるのだから、私がシャボン玉の中にいるんだろう。
 また同じことを言われるのは正直怖くて、天沢さんと別れてからよけいに誰かのそばに寄れない自分がいた。好きな人に信頼されないことが辛かった。そんな自分を変えたかった。

 ヨリコにも、付き合うことになったとは言いづらく、黙っていた。お互いに好きでもないのに付き合ったりするのは、どうかと自分自身でも思っていたからだろう。彼にはそんな素振りは見せないようにしていたけれど、あの子供みたいな目で見ていたから気づかれていたのかもしれない。自分を納得させる理由がいるならお互いが結びついたのはただの好奇心からだと、私は思った。彼を掴めない何かが心を刺激して、私に予感の夢を見せていた。彼も同じように思っていたかはわからない。好きではないと言うことだけが確かなことだった。あっさりと肉体関係を持ってしまった後で彼はあろう事かこんなことを呟いたからだ。
「人を好きになったこと、ないんだ」
私は裸の腕を彼の首に回していたが、彼の首が暖かい分、私の腕が冷えたようだった。いよいよ、私は彼がわからなかった。ただ、セックスがしたいだけなんだろうか?だったらもっとそういう風な人を選んでくれ、と幻滅してしまう。別に愛のあるセックスなんて考えてないし、私自身がその行為に冷めている。何せ私は仮想現実の中にいて、悦楽も汚されるという感覚もない。その行為をしているのは現実の、一枚外の絹子という人間のようにいつも感じてしまう。それでも礼儀というものがあると思っていたのに、それすらも通用しないとは。この言葉で私に何かを伝えたいんだとは、とうてい思えなかった。つきあい始めたばかりで、こんなに荒涼とした気分を味わうのも情けなくて、返した言葉も惨めだった。
「そういう人が出来るといいわね」
 理解しようという気が起きなかったのは、西日のせいなのだろうか。それとも私が何かに閉じこもっているから?

 その後一ヶ月、彼は私のことをどう思っているのかわからない日々が続いた。デート中に並んで歩けばいいのにどんどん先に行ってしまうし、待ち合わせの時間には必ず遅れてきた。一緒にいても携帯電話で話す。まるで私なんかいないかのようだ。今まで付き合った人、特に天沢さんとは全く違う。優しくされるのが当たり前、デートはエスコートしてもらう物だと思っていた私にとって、こんなに辛いことはなかった。
「ねえ、どこ行くの?」
機嫌悪そうに彼が振り向くたび、心の中にすすみたいな重い物がたまっていく。空が青くても、夕方のピンク色でも、夜の星空でも、私にとっては灰色の雲が広がっているようだった。
「あっちに行きたいんだけど」「あのお店が見たいんだけど」
そんな言葉も言えないほど私は萎縮していて、また黙って彼の後を歩く。昔から、人にこうしたいとか、ああしたいとか言えない性格は何とかしたいと思っていた。矯正を後のばしにしたことがずいぶんと重くなっていた。
苦しい日々が続いて彼のわからない部分に対する興味も色褪せてきて、もうだめだと思いかけていた。それでも私は、「別れたい」と言い出せずにいた。何にしがみついているのか、自分でもわからない。でも口に出せない憚る何かがあったとすれば、変われるかもしれないという期待だった。私はとりあえず、電話もメールも自分からすることをやめた。そうすることで、自分が苦しくなったとき、「ああ、この人が好きなんだ」と初めてわかったのである。好き、と一緒にいることが楽しいということは別のこともあるんだなと思っておかしかった。
「どうして、電話くれないの?」
「少し冷静になろうかと思って。一緒にいていらいらしている自分を好きになれないんだもの」
しばらくぶりに電話をかけてきた彼は私の言葉に驚いていた。鈍感なのか、全くの無関心なのか計りかねる。それとも私の心の中は嵐のようだったのに、外側の『野田絹子』は平静を装っていたのだろうか。
「どうしていらいらするの?」
「あなたが優しくないから」
考える間もなく言葉が出ていた。私はそのことに、また胸を突き刺されたような気持ちになる。他のどこでも味わうことのない痛みに、私はなぜか甘い味を覚えてしまう。
「そうかな、優しくないかな」
「そうよ、優しくない」
私は更なる痛みを欲して彼に追い打ちをかけた。私はマゾヒストなのかもしれない。
「僕は僕なりに努力してるつもりなんだけどな。ねえ、絹子の言う優しいってどういうこと?」
不覚にも、私は瞬時に答えることが出来なかった。今までさんざん「優しい」と言われ続けてきた私が求める「優しい」を言葉に出来ないなんて、衝撃的なことだった。
「親切ってことかもしれない。気を遣って欲しいっていうだけかもしれない」
「わかりやすい優しさなんて本物じゃないと思うんだけど」
私はさらに衝撃を受けた。今まで、人にわかりやすい「優しい」を実行してきたのに、偽物だと言われてしまうとは。
「誰が本物とか偽物とか決めたの?私はわかりやすい優しさが欲しい」
彼はしばらく考えた末、私に言った。
「じゃあ、絹子の言う優しさを小説に書いて、読ませてよ」

 それからの私は優しさについて考え始め、近くにいる友人たちにどういうことを優しいと思うか、また自分が優しいという行動をしているときはどういうときかを尋ねて回った。もちろん、ヨリコにもチャットで聞いた。
『優しいなんて、自分で思わないよ。優しい行動をしてるって思ってたら、偽善じゃない?』
ヨリコの言葉には頷かされる。
『じゃあ、優しいは誰かから行動されたときに感じることなの?受け身ということ?』
『そうじゃないの?一人ぼっちの人は優しさを感じないと思う』
『ヨリコが最近優しさを感じたのはどんなとき?』
しばらく間があってレスが返ってきた。
『いろいろあってさ。それはまた会って話したいな。その時、「優しさ」についての小説も持ってきてよ』
私は時間がかかるけど、必ず読んでもらうと約束した。
 友人は優しくしようとしてるときは自己満足だと言っていた。
「相手を思いやっている行動がお節介になるか優しいになるかは紙一重のところがあって、相手によっても違うと思う」
思いやりと気遣いと優しさ、そして親切。どれも相手に「何かしてあげたい」と思うところから始まる。その気持ちの中に自己満足だってもちろんある。その言葉にはひやっとさせられる。私は自己満足が悪いとは思わないけれど、弱い者を救って強い者が満足するという偽善も感じてしまう。別の友人に本物と偽物の優しさがあるかと尋ねると彼はこう答えた。
「相手を思いやっていればみんな本物じゃないの?それに行動を受けた側が感じることなら、本物も偽物もないよ」
なるほど、と思う。本物や偽物、自己満足や偽善は行動を起こす側にあるのか、と一応理解したところで、私は小説を書き始めた。

シャボン玉の中のお姫様

  ひとし君は一人でベランダからシャボン玉を飛ばしていました。お空は真っ青で、シャボン玉は日の光を受けて虹色にきらきらと輝いていました。ひとし君は細かい小さなシャボン玉の吹き方も、大きなシャボン玉の吹き方も最近教わったばかりで、シャボン玉に夢中なのでした。風がそよそよと吹いてきたのでひとし君は大きな大きなシャボン玉を作って風に乗せようとゆっくり静かに吹き始めました。
「大きく大きく」
ひとし君はゆっくり吹き続けているうちに、シャボン玉の中に何かいるのに気がつきました。シャボン玉が大きくなるにつれて、中の何かは大きくなり、ついには女の子の姿になりました。
ひとし君はびっくりして吹くのをやめようとしました。
「やめないで、ちゃんとシャボン玉を作ってよ」
女の子が口をきいたではありませんか。ひとし君はシャボン玉をちゃんと吹いてから、ふっともう一本のストローにシャボン玉を止めてみました。
「あなたは誰?」
「僕はひとし。君はどこから来たの?」
「私はシャボン玉の国のお姫様なのよ。シャボン玉の国から出てきて、これから世界を巡るところなの。シャボン玉の中から見える世界は虹色に輝いて本当に素敵なんだから。ひとし君にも見てもらいたいな」
そう言うお姫様の姿が虹色に輝いていて、ひとし君は世界がみんな虹色に見えたらどんなに素敵だろうかと考えました。
「僕も中に入れないかな」
「だめよ。ひとし君は大きすぎるもの。それにね、シャボン玉の中には一人しか入ってはいけないの」
「じゃあ、お姫様は一人でこれから旅をするの?寂しくない?」
お姫様は少し俯いて言いました。
「そうね、寂しいわ。きれいな物を見ても誰も一緒に喜んでくれないんだもの。でも仕方ないわ、私はシャボン玉の中のお姫様なんだもの」
ひとし君はお姫様って大変なんだなと思いました。
「それじゃあ、ひとし君、私は行くわ。私をそっと吹いてくれる?そうしたら、私は旅に出かけられる」
「いつか、戻ってきて、僕に虹色に光る世界を教えてくれる?」
「いいわ。約束する。その代わり私のことを忘れないで待っててね」
ひとし君は指切りげんまんをお姫様のために歌ってあげました。
「それじゃあ、行くよ」
ひとし君はお姫様のシャボン玉をゆっくりと吹きました。
「さようなら、ひとし君」
お姫様が手を振りながらそよそよと風に揺られて飛んでいきました。ひとし君はお姫様の乗ったシャボン玉が見えなくなるまで、ずっと手を振りました。青い空に高く高く上っていったシャボン玉は最後に光の粒となって消えてしまいました。

  それ以来、ひとし君は天気の良い日は空を見上げています。お姫様が今どこにいるのかな、と思いながら、ベランダで待っているのです。

「これって誰が優しいの?」
彼の質問に、私は動揺してしまう。
「ひとし君のつもりで書いたんだけど」
「ふうん、絹子の優しさってこういうのなんだ?」
まるでそれは間違ってると言われているような気分になって、背筋ではなく、心の裏側がぞっとする。その時に私は、この人と今話しているのだと確認している自分に気がつく。
「優しさについて、いろいろな人から話を聞いたの。どういうものを優しさっていうのか、亮に聞かれて初めて考えた気がする。優しいなんて、当たり前のように使っていて、あまり考えたことなかったから。こう言ったらなんだけど私自身、人から優しいって言われてきて何も疑問も持たなかったし、当然のように受け止めてきてたなんて、変な話よね」
私の一生懸命な話を彼は黙って聞いてから、私に微笑みかけた。
「絹子は優しいと思うよ、そこが好きなんだと思う」
私の心の中にある黒い雲がさっとなくなって妙にすっきりしてしまった。好きだと言われたことに舞い上がってしまって、私はその時に彼の優しさというものを聞きそびれてしまったし、私の思う優しさが伝わったのかもわからなかった。でも、それからの彼の態度は変わった。今までは私を見ていなかったのに、今はきちんと注目されている。私は満たされた気分になって、彼に「優しくない」などと言わなくて済むようになったから、私の問題は解決した。あまりにも自分が単純で少しばかばかしいくらいだった。

 その時になってやっとヨリコに報告できるような気がして会うことになった。この話も持って、例の喫茶店に行くと今日はお店はオープンしていて、ヨリコは客として私を待っていた。「ごゆっくり」と笑うオーナーは三十過ぎの優しげな女の人で口元がどこかヨリコに似ていた。
「これ、優しさについて聞いたでしょ?あの、答えみたいなもの」
「ねえ、そもそもどうして書くことになったの?レポートかなんか?」
ヨリコは私の物語を片手にコーヒーを飲む。
「それが、私彼氏出来てさ」
「え、何それ?初耳なんだけど」
「うん、黙っててごめんね。なんか、ようやく言ってもいいかなぁっていう気分になったんだよね」
「なにぃ、なんかやましいとこあるんでしょう?天沢の言い方、いつもと違うじゃん」
どきりとする。いたずらっぽい笑い方をしていてもヨリコの目は真剣でうそをつけない。「やましいって言うほどでもないよ。でもようやくお互いが好きなんだって分かり合えたみたい」
「好きじゃないときもあったの?」
頷くとヨリコは首を傾げる。
「天沢は妥協じゃなく付き合うタイプかと思った」
「今は妥協じゃないよ。つきあい始めたばかりの時は何で付き合うことになったのかよくわからなかったけど」
「変なの」
ヨリコの変な顔に私は笑ってしまう。オーナーが「理奈ちゃん、サービスよ」とクッキーを持ってきてくれた。
「このクッキーおいしいんだよ。いとこが焼いてるんだけど」
ヨリコはクッキーをほおばりながら私の物語をぱらりとめくった。
「ヨリコは理奈っていう名前なの?」
「うん、そう。言わなかったっけ?どっちだっていいよ。私にとって天沢は本当の名前知ってても知らなくても変わんないし」
「ヨリコって、なんの名前?」
ヨリコはコーヒーを置いた。私はヨリコの触れては行けない部分に触ったのかと思ってびくりとする。
「猫。家で飼っててもう死んじゃったけど。私、何にもなりたくなかったけど、猫にならなってもいいなって」
ヨリコは手帳を取り出し、写真を見せてくれた。真っ白な猫がこちらをじっと見ていた。「天沢は笑わないね、こう言うこと話しても。だから言ったんだけど。学校じゃこんなこと言えないし」
「ヨリコってば私と似てるとこあるから」
私は写真を返した。ヨリコは頷いて私の物語を読み始めた。その間私は亮のことを思いだしていた。別れたいと言わなくて良かったと、今は思う。今までの恋はみんな出会った瞬間に始まっていたか、興味もないのに一緒にいたかだった。でも、亮は違った。興味があって一緒にいて多少辛くても、好きになれた人だ。外側の自分と内側の自分をつなぐ痛みと相手のことが全くつかめない自分に初めて出会ったきっかけも亮だった。今までうやむやにしていた自分に向き合えるのかもしれない。ずっと変わりたいと願ってきた。それが叶うかもしれない。
「ねえ、お姫様は天沢でしょう」
「え?」
突然言われて何のことだかさっぱりわからなかった。ヨリコは物語を私に渡した。
「これの、お姫様。お姫様がひとし君にしてもらいたいことを書いてある」
「そう、だね」
自分の小説を誰かに分析してもらったことがないので、どぎまぎしてしまう。
「天沢は何かにがんばっていきたいんだね。それを受け止めて待っててくれる人が欲しいんだ、あたり?」
「うん、怖いぐらい。ああ、そうかも。なんだか人に言われて気がつくのも情けないね」「今の彼はそういう人なの?」
私は亮を思いだして笑ってしまった。
「ううん、逆だと思う」
と言ってから疑問符が浮かんだ。天沢さんは亮とは正反対のタイプで私を待っていてくれそうなのに最終的には裏切られた形になった。今のところ亮は私に甘える態度をとっているけれど、本当は私が変わるのを待っていてくれるのかもしれない。
「何とも言えない。よくわからない人なの」よほど神妙な顔をしてしまったのか、ヨリコは不安そうに私を見ている。
「おかしな人じゃないでしょうね」
「ううん、悪い人ではないよ」
私の笑顔につられて、ヨリコの頬が緩む。
「そう、それなら良かった。なんだか最近変な人多いから気をつけてね。この前もチャットに変な人来てたよ、自己実現スクールのお誘いとか言って。最近天沢は来てないから知らないだろうけど」

 確かにチャットにも行ってなくて、メールもチェックを怠りがちになっていた。メールを見たら、一件それらしい物が来ていた。私は見ないでそれをゴミ箱に捨てた。亮にそのことを話すと、強く釘を差された。
「絹子はぼーっとしてるところあるし、断るのも苦手なんだから心配だよ、その手の誘いとか宗教とかそういうものには気をつけないと」
断るのも苦手だと知っていてこの男は付き合うことにしたのではないかとばかばかしくなってしまう。私がむっとしていると電話の向こうでそれを察したらしく下手に「何で怒ってんの?」と聞いてくる。
「別に。宗教になんか行かないよ、お金もないし。確かにぼーっとしてるけどそんなあからさまなのにはひっかかんないよ」
「いや、どうだか。絹ちゃんは世間知らずだからね」
「ボックスってこと?」
「そうそう」
箱入り娘のことを私と彼はボックスと呼んでいる。
「それに絹ちゃんは余分なこと考えるじゃない。ここできつく断ったら悪いかな、とか。そんなのさ、断られること前提にやってるんだから無視しろってことだよ、街頭のキャッチと一緒」
私は街頭のキャッチが苦手で、東京に来た初めのうちは断るのにえらく時間がかかった。確か、年齢を言えばいなくなったような気がする。今では、聞こえなかった振りをして通ることが出来るが、中には強引に腕をつかんできたりする輩がいてむっとすることでやっと無視できるのだ。もともと鈍くさい私は街を歩いていると人にぶつかられたりする。一緒に歩いていると亮はそういうとき私にくどくどと注意するのだ。
「危険察知能力は低いと思うんだよね、田舎から出てきたから?」
「関係ないよ、ただのお人好しだよ」
随分はっきりときついことを言ってくれると思う。こういうことで私が傷つくとはこの人は考えないのだろうか。またむっとしていると「何怒ってんだよ?」と聞く。怒っていることはわかっても、怒っている理由まで結びつかないらしい。私は聞こえないように受話器を塞いでため息をついた。
「でも、自己実現スクールって何するとこなのかな」
「きっと何かの勧誘だよ。お金取られるのが落ちだな、そうだったら絹子は絶対断れないよ。僕も勧誘にあったことあるけど、あれを断るのはすごいエネルギーいるし。えらい目に遭ったよ」
本当に大変だったらしく詳しく話してくれた。英会話の勧誘で面と向かって、相当論を戦わせたらしいのだ。しかもはじめは下っ端だったのが、チーフみたいに強力な人が最後にはお相手しにきたという。亮のように嫌いな物や人がはっきりしていて、徹底的に寄らない人がこんな目に遭うのは珍しい。それぐらい世の中は勧誘という落とし穴が多いということなのか。
「亮がえらい目に遭うぐらいなら、私に断れるわけがないわ。触らぬ神にたたりなし、無視しとく」
改めて都会の怖さを知る羽目になった。

「食べたい物とか、ないの?」
デートの度に聞かれる。私は今まで、一緒にいる人に食べる場所や物はお任せしてきていたので、自分で選ぶことがほとんどなかった。一人で出かけるときは、一人でいても恥ずかしくないお店を選んでいる。
「おなかは空いたんだけどね」
「いつもそんなんじゃ困るよ。連れて行って、『またラーメン?』とか言われると腹立つし。大体僕は今まで付き合ったこともないし、男子校だったし、どこに連れて行ったらいいのかわかんないんだから、どんどん言ってもらわないと」
「ううん、ラーメンはね、食べたらすぐ出なくちゃ行けないじゃない?それが嫌なのよ」
「それはわかったから、何食べる?」
生きていくことは選択することだと何かで見たことがある。こうして選べ選べと言われると、それが苦しいことだとわかる。特に今まで人任せで生きてきた自分には。
 欲求が減退しているのよね。もう面倒くさいから、食べなくていい、と言いたくなってやめる。言えば機嫌が悪くなることは間違いない。
「なんかリハビリしてるみたい」
「リハビリ?」
「自分で選ぶ練習。亮がお医者さんなのよ」
「絹ちゃんは精神的に病んでるからね」
本当に失礼だな、と思う。
「じゃあ、スパゲティーが食べたい。もういい?」
「あの、絹ちゃんじゃない?」
さっきからちらちらと見ている人がいるな、とは思っていたのだ。その人が近づいてきてようやく私に声をかけたのだった。目はいいはずなのに近づくまで誰かわからなかった。
「ああ、井上君だ。気づかなかった」
井上君は彼に気遣ってるようで、かなりにこやかだ。
「彼氏?」
「うん、そう。こっちの大学だったんだね」
「そうなんだ。今度同窓会しようよ、こっち来てる人も多いじゃん?」
「そうらしいね。でもこんなに人が多いのによくわかったね」
「まあね。携帯教えてよ、連絡するから」
「ええと、私、携帯電話持ってなくて。メールアドレス教えるからこっちに連絡ちょうだい」
彼をちらりと見ると何とも言い難い表情をしている。
「それじゃあ、また連絡するよ」
「うん、じゃあね」
井上君が去った後、私は慌てて説明をし始めた。
「今の人は高校の同級生でね、そんなに親しかった訳じゃないんだけど。声かけてくるような人だったかな。珍しいよね」
「高校の同級生?」
「そうなの」
「ふうん、なんか気の弱そうな人だね」
「ごめんね」
何で謝っているのか、自分でもよくわからない。ただ、彼が怒っているのがわかるので、つい口から出てしまう。
「別に」
彼はさっさと歩き出した。私は後をついていく。
 友達と喧嘩したとき、自分が悪くないと知っていても必ず先に謝ってしまう。そうすれば早く丸く収まると思っていたから。
 苦手な人と話していても周りにも苦手だなんて気づかれることは全くなかった。気づかれて、ぎくしゃくするのが嫌だった。
 周りの人との間に波風を立てるのが嫌いだった。何が怖かったのか、自分でもわからない。今でも彼を怒らせるのが一番辛いのに、井上君に対しても邪険に出来ない。優先順位が決まっていないから、いつも失敗してしまうんだと悲しく思う。
「何泣いてんの」
「別に泣いてないし」
私のぶっきらぼうな言い方に彼が足を止めた。隣に並んで顔を見ればさらに不機嫌な顔をしている。
「何で俺がむかついてるのに、泣かれるわけ?」
ぶっきらぼうな言い方でもしなければ、本当に泣いてしまいそうだった。だから、今も答えられなかった。人の目が気になるから、泣かずに済んでいるのだ。どうしてこんなに泣きそうな気持ちがこみ上げてくるのか、自分でもわからなかった。
「ああ、もういいよ」
黙っている私にあきれたのか、嫌気がさしたのか彼は歩き出した。でも私はついていけなかった。早く一人になりたくて、彼に背を向けて、その場を逃げ出してしまった。急いで電車に乗りながらこの嫌な気持ちはどんどん膨らんでいった。
 その日、電話が三回なった。一回目は長く。二回目はその半分。三回目は三コールで切れた。私から彼にならかけることが出来る。でも何をどう話していいのか冷静になれない。番号が何度も何度も頭の中で回っているのにどうしてもかけられなかった。亮じゃなければこんな風に逃げたりしなかったと思う。いつもいつも相手の気持ちがいいように考えてきていたのにこんな傷つけるようなことをしてしまったのだ。あんな子供みたいな目をした人は傷つきやすいとわかっているはずだったのに。

 かわりにヨリコにかけていた。ヨリコに話しながら、涙が出た。ヨリコは頷きながらずっと聞いてくれた。何も言葉を挟まないで聞いていてくれたことが私を安心させ、落ち着かせた。私は涙の締めくくりに大きなため息をついた。
「ありがとう、なんか落ち着いてきた」
「ううん、いいよ。それにしても天沢もあんな風に泣くんだね。なんか、泣いたり怒ったりしなそうな人だったから、今日、ちょっと安心した」
確かにあまり泣いたり怒ったりしない。泣いたのも久しぶりだったし、電話とは言え、人の前で泣いたのは思い出せないぐらい昔のことだった。
「うん、私も出来なくなったんじゃないかと思ってた。私も安心した」
「変なの。でも、彼のこと好きなんだね。天沢をそんな風にさせるなんてさ」
その言葉にはっとした。こんなに取り乱したのは彼が初めてだった。
「そうらしい」
「メールでも何でも、謝ったらいいよ、早いうちに」
「そうだね、ありがと」
電話を切った後、出来るだけ正確に自分の言葉を伝えようと、メールの文面を長い間考えた。彼の場合、遠回しに含ませるようなことではきっと伝わらないだろう。随分考えたが結局書いたメールは謝罪と言い訳になってしまって、本当に言いたいことはかけなかったような気がした。その日のうちには彼からの返事はこなかった。
 
次の日の夜遅く、電話がなった。びくびくしながら出ると、彼だった。
「昨日、絹子のメールの後に、ヨリコって子からメールが来た」
「え?」
「僕、そんなひどいことした?」
ヨリコは一体彼になんとメールを送ったのだろう。
「何で僕に直接言わないの?」
「胸がいっぱいになって、何も言えなくなっちゃうの。言うと、泣きそうになるの。ヨリコがなんて書いたか知らないけど、昨日は本当にごめんね」
「うん。ついてきてないんで、びっくりした。迷子になったのかと」
私はやっと笑えた。
「それじゃ」
あっけなく電話は切れた。それでも私は今日は安心して眠れるのでほっとした。

 天沢さんと別れたときは春間近の寒い日だった。田圃の土が黒々と冷たそうで、別れた後は雨が降ってきた。私は泣きながら傘も差さないで帰ってきて、吐きそうになるまで泣いた。その前の前の日あたりに、バスで置いてけぼりにされた夢を見てから不安にはなっていたのだが、いざ来るとどうしようもなく、ただ泣くしかなかった。泣きながらゴミ袋にプレゼントや写真や手紙なんかを詰めていたら、私に用事のあった妹が私の部屋のドアを開けた。妹が驚いてそのままドアを閉めたとき泣き笑いになって、そのときの自分の不細工な顔を想像して、また泣いた。
   
 彼から別れを告げられたときも、泣いた。ただ、予想していなかったので、驚いた。
「どうして?この前のことがあったから?」
「そういうわけじゃなくて、好きな子が出来たんだ」
それなら仕方ないと、私は思った。気持ちは割とあっさりしていても、涙は出てくる。
「私は別れたらもう会わないことに決めてるから、家に置いてある荷物全部持っていって」「え?もう会わないの?」
「うん、もう二度と会わないことにしたいの。それがけじめだと思って」
私は泣きながら彼に言った。ティッシュで顔を拭いても拭いても涙が出てくるのでタオルを持って、彼の荷物を取り出し始めた。
「ちょっと待って。何で、二度と会わないの」
「嫌じゃない、昔の彼と会ったりしてると、新しい恋ができない気がして。新しい彼ができたら、彼に悪いし。亮だって新しい彼女が気にするかもしれないと思うでしょ」
「そうかもしれないけど。本当にもう二度と会わないの」
「会わないってば」
そう言って彼を見たとき、私の涙は完全に止まった。彼が泣いていたからだ。ずきりという痛みが体の中心を貫いた。それは彼のあの目で見つめられたときよりももっと痛くて甘かった。
「何で泣いてるの?」
この前と逆の展開になったことに驚きながら、私はタオルを手渡した。
「何で二度と会わないなんて悲しいことが出来るの?そんなの寂しくてやだ」
「やだって言われても」
私は今まで泣いていたことも、彼から別れようと言われたことも忘れて、彼を抱きしめてしまった。そして、この人がかわいくて好きなんだなと思った。
「じゃあ、別れないでよ、私だって耐えられないよ。もうしばらく一緒にいて、考えて」
私は自慢じゃないけど、今まで別れようと言われて引き留めたことは一度もない。天沢さんのときも言わなかった。これが初めてだった。彼は答えないで泣いていた。そんな彼を抱きながら、泣いている自分がちょっとばかばかしかった。でもそんな自分はおもしろくて好きになれそうな気がした。
 その夜彼は帰っていき、次の日の早朝五時頃に電話がかかってきた。
「やっぱり別れるのはやめる」
「ずっと今まで考えてたの?」
「うん、昨日の夜からずっと」
ちなみに私は泣き疲れてその夜は眠っていた。電話で話しながら半分眠っていたので、夢じゃないかと疑ってしまった。でも、その後気持ちよく眠って目が覚めたら、本当だとわかっていた。私の心の空はだいぶ晴れていて、彼を失わなくて良かったと思った。

 忘れた頃に井上君からメールが来た。今度みんなで会おうというメールで暇な日を教えて欲しいと書いてあった。私はこの前の亮のこともあるし、何となく気後れして井上君に会いたくなかった。この前会ったときも、そうだったのだがなんとなく印象が変わってしまったのはお互い環境が変わったからなのだろうか。亮が「気の弱そうな」と言っていたが、私は「妙に下手の」と感じていた。それほど高校でも親しかったわけではない。クラスは一緒だったけれど、学校以外で会ったことのない人だ。好意を持っていたわけでも持たれていたわけでもないのに、あの日声をかけられて本当に驚いたのだ。それでも他のクラスメイトも来るのだろうと思って返信した。
 亮にはこのことは相談しなかった。あの時から、何となくぎこちなさがつきまとっていて、彼に接するときまた笑顔仮面を付けている自分がいる。そうやってまた笑顔仮面を付けてみて初めて、この人の前ではとっていたのかと、正直驚いたのだった。今では何が食べたいかすらりと言える。それは相手が望んでいて困らせたくないから言えることで私がきちんと選んでいるのではない。笑顔仮面とはなんて便利なのだろうと思うけれど、この人の前でもまたこうしていなければならないのかと息苦しかった。
 息苦しくなる度、私はアパートのベランダからシャボン玉を飛ばした。眠れなくて暗い考えにおぼれてしまう深夜二時頃、冷たい手すりに寄りかかりながらストローを吹いた。ひとし君のように楽しげな気持ちにはなれなかった。都会の夜は明るいけれど、シャボン玉の中には私の息苦しさがつまっていて暗かった。私はまるでどこかに行きたくても行けないお姫様だった。夜の風が冷たくても私は深夜のシャボン玉をやめられなかった。ひとしきりシャボン玉を吹いて、気がつけば一時間もベランダにいることがある。あまりにも病的すぎて、どんどん暗い夜に飲み込まれているのにやめられなかった。

 井上君と約束したのは渋谷だった。私にとって渋谷は新宿よりも池袋よりも苦手な町である。ヨリコと会う以外利用しないので、よけいに肩肘が張っている気がする。
「絹子さんじゃん?もしかして井上に呼び出された?」
私の中で『その他大勢』と思われていた男の子はよく見れば同級生の森君だった。井上君よりは随分仲が良かったこともあり、一気に肩の力が抜けた。
「呼び出されたよ。ああ、よかった。なんか心細くて、帰りたくなってたんだよね」
「そうだよなぁ、僕も井上とそんなに親しくないのに、声かけられて。いったい何の話があるんだか」
約束した時間を少し過ぎている。お互い見つけられないだけなのかもしれないと思ってあたりを見回していると、森君の携帯電話が鳴った。
「井上?呼び出しといて遅れんなよ。絹子さん来てるよ。うん、ああ、そう。わかった」
携帯電話を持っていない私は便利だなと思う反面、しょっちゅう呼ばれてはたまらないと面倒くさく感じる。私にとって電話はいつも、相手の邪魔にならないかどうか気にしながらかけるものだった。携帯電話はそんな都合などお構いなしのように見える。
「井上だったよ。なんか文化村の方まで来て欲しいんだって」
「文化村ってどこ?」
「僕も一回しか行ったことない。とりあえず行ってみてわかんなかったら、また電話すればいいよ」
人混みの中、歩きたばこをする人が気になって、下ばかり見てゆっくりと歩いていると森君に笑われた。
「何で下ばっか見てんの?ぶつかるよ?」
「歩きたばこの人多いから気になっちゃうんだよね、一回服にやられたことあって」
「まじで?危ないなぁ。絹子さんぼーっとしてるから心配だよね。渋谷に馴染めてない感じ。さっき一発でわかったし」
「彼にも言われた、ぼーっとしてるって。そうだったんだ、都会に馴染めてないから、この前井上君に見つかったんだ」
「高校の時はしっかりしてるように見えたけどね」
森君は私の歩調にあわせて、守るように歩いてくれる。これが共学出身の男の子なのか、単に私の周りにいた男の子が紳士なのか、彼との違いを感じてしまう。
それにしても高校の時は、生徒会にいたりしたから、しっかりしているイメージは誰にでもあったと思う。先生たちからも一目置かれていて自分でさえ、しっかり者だと思っていた。高校という世界が狭かったから、自分を信じきっていたのかもしれない。都会は大きすぎて私のエネルギーは足りなすぎる。
「森君は井上君と偶然こっちで会ったんじゃないの?」
「うん、一応卒業するときに連絡先だけ交換してはいたんだ。でも、ずっと連絡なかったし、こっちも無精だからしなくってさ。急に来たから驚いてるとこ」
「なるほどね。あれが文化村?あそこにいるの、井上君みたい」
森君は井上君に気がついて手を振った。井上君も気がついて笑っているようだった。
「ごめん、こっちの方まで来てもらって」
「そうだよ、初めからこっちで待ち合わせにしてくれれば良かったのに」
「でも私、場所わかんなかったからちょうどよかったよ」
井上君はとりあえず近場の喫茶店に入った。私たちも後に続く。
「他の奴らは来ないの?」
「うん。今日は二人だけ。実は僕の友達にあって欲しくて」
私と森君は顔を見合わせる。
「いきなりでびっくりするかもしれないけど僕、こっち来てからなんかしっくりこなくてサークルに入ったけど飲み会ばっかりでちっとも楽しくなかったし、勉強もこんなのがしたくて受験した訳じゃないと思ったし。大学がつまんなかったんだ。高校の時の彼女とも別れちゃったし。やっぱ遠距離恋愛は続かないもんだね」
「で、今日来るのって新しい彼女かなんかなの?僕たちに会わせたいなんて、まるで結婚考えてて、会って欲しいとか、そういうこと?」
森君のちゃかし口調に井上君はのってこない。俯き気味でコーヒーを覗き込んでいる。
「いや、違う。友達から紹介してもらったスクールで出来た友達なんだ。近いからそっちに直接行ってもいいんだけど、そういうの嫌がる人もいると思ったから友達に来てもらおうと思って」
森君は複雑そうな顔をしている。私は何とか嫌な顔にならないよう、そして会話を続けようと頭を働かせ始めた。
「その人は女の子?」
「うん、絹ちゃんが来るから女の友達にしたんだ。いい子だよ、多分仲良くなれると思う」
私はヨリコを思いだしていた。それから彼も。以前話した『自己実現スクール』の勧誘ではないのかと、恐ろしい。断れる自信がない。隣の森君をこっそり見ると、森君もこっちを見ていた。タイミング良く井上君の携帯電話が鳴る。森君は手帳を取り出し、私に携帯番号と一言書いたメモをよこした。『やばくない?』私が頷くと、井上君が話しかけてきた。
「今の電話、来てくれることになってる城戸さんだったよ。もうすぐ来るって」
「その人、いきなり僕らと会って気まずくないの?紹介してくれるのは嬉しいけどさ」
「大丈夫だよ、あの人社交性あるし。あ、きたきた」
井上君は嬉しそうだった。私と森君が振り返ると、割と普通の女の子がにこりと笑った。
「こんにちは、城戸です」
「ああ、どうも」「こんにちは」
私と森君も同時に言葉を返していた。明るくて元気そうな、いい人のように見える。私はよっぽど観察するような表情をしていたのかもしれない。城戸さんは吹き出した。
「スクールっていうと、ちょっと変なイメージあるから、変な子が来ると思った?」
「いえ、そう言うつもりはないです」
私の固い返事に城戸さんは笑った。井上君は笑わずに一生懸命話し始めた。
「スクールって、そんなつもりじゃないんだ。勉強する訳じゃないし。何でも相談できる友達作って、スポーツ大会やったり、バンドやってみたり、自由な時間を共有するだけなんだよ」
城戸さんは井上君の後を続けていかにも楽しそうに話す。
「私はここで知り合った友達とクラブを借り切ってライブやったんだよ。すごく達成感あって楽しかったなぁ。ただそういう友達を作る場なの。アメリカから輸入されてきた考え方とシステムでできたスクールなのね。腹割って話し合ったり出来る機会もあってね。よかったら、どうかな?きっといい友達が出来ると思う」
城戸さんの視線は私に向けられている。城戸さんの目の奥に何かしらの意図が読みとれるような気もした。でもここは見ない方がいいと思って森君の方を向く。城戸さんは森君に話しかけた。
「井上君とは高校の同級生なんだよね?同じ高校から何人か来てたよね、井上君?」
「え、誰きてんの?」
「B組の菊池さんとか、D組の遠藤とか来てるよ。会ったことないけどC組の笹川さんも来てるんだって」
私はちょっと息をのんだ。私の実家は中部地方にある。東京に出てくる同級生は多いがこんなスクールみたいなところで、同じ高校の人に出会うと思わなかったから正直怖かった。
「絹子さん、笹川さんと委員会一緒じゃなかった?」
「うん、あんまり話さなかったけど、一緒だった」
「笹川さんと知り合いなの?笹川さん、今日の四時頃来ることになってるよ。会っていかない?」
「いえ、でもそれほど親しかった訳じゃないから」
井上君が一生懸命森君に話しかけている。城戸さんはにこにこと私を観察している。私の頭は井上君の話を聞いていない。一生懸命な井上君の姿がどうにも悲しかった。なぜこの人はこんなに一生懸命なのだろう。そんなにいい学校なのか。それとも彼にはノルマがあるのか。高校の時の井上君を思いだしてみる。それほど目立つ人ではなかったけれど、よく笑ってたし、サッカーが好きだったし、英語が得意だった気がする。
「どうしたの?」
私は急に立ち上がっていた。どうにも気持ち悪かった。
「お手洗い、行ってきていい?ここ、暖房効きすぎで、気持ち悪くて」
森君の目が何か言っている。『逃げないでくれ』?『大丈夫』?
「すぐ、戻るから」
私はお手洗いで大きく息をついた。手を洗うとほんの少し気が引き締まった。亮のことを思い出す。薄い甘い青い空と亮のことを。胸の中がすっとして何とか切り抜けられそうな気がした。お手洗いを出て、お店のスタッフにお水をもらってから席へ戻ると城戸さんはいなくなっていた。井上君は多少気落ちしているように見えた。
「城戸さん、用事があるからって帰ったよ」
「そうなの。ご挨拶もしないで、悪かったわ。よろしく伝えてね」
私が井上君に謝ると、彼は首を振った。
「実は僕も用事があって。せっかく会ったのに、悪いんだけど」
「いや、いいよ。僕はもう少し絹子さんとしゃべってから帰るし」
「じゃあ」
言葉少なに席を立った井上君を見送り、森君と同時にため息をついた。
「疲れたね。なんだったんだろうね」
「場所変えよう。ここにいるの嫌じゃない?あ、気持ち悪いの治った?」
「治った、城戸さんが帰ってたから」
私の言葉に森君は苦笑いしていた。道を歩きながら、森君は鬱憤を出来るだけ晴らそうとしゃべっていた。
「大体友達を作る場って何?友達なんかサークルでも出来るじゃんなぁ。自分とあうような友達も作れないのかよ。スポーツ大会とかバンドだって大学なんだし、やりたきゃ勝手にやれって、思わない?」
「思うよ、でも、そういうエネルギーないときに勧誘されてたら、私もどうだったかわかんないなぁ。それに入れってしつこく言われなかっただけ、いいと思うよ」
「怖いこと言わないでくれよ。あれ、金払って入るスクールなんだろう?いくらぐらい払ってんのかな、井上」
それは私にもわからない。ただ、渋谷の町がいっそう汚く灰色に見えた。私がそのスクールに入る入らないに関わらず、知った後では気分は重い。私は井上君も笹川さんも助けられず、自分を守るのに精一杯だった。何に対してか、悔しかった。
「まあ、井上にとっては本当にいいのかもしれないし。悪いことばっかりは言えないよな、僕は入ってなくて知らないんだから」
「うん、よくてしてるのかもしれないもんね」
私は森君と結局、お茶も飲まないで別れた。二人とも渋谷にいたくなかったのである。
そのことを、その夜、亮に電話して話した。彼の感想は至ってシンプルだった。
「絹ちゃんが引っかからなくてよかったよ」
「亮のおかげかもしれない。誰にでも腹割って話して、友達が大勢いるのもいいけど、わかってもらうのは少なくて大事な人だけでいいと思った。それにお金払って友達作るのって、ちょっとね」
亮の鼻歌が聞こえる。亮はよく鼻歌を歌ってることが多いが、そのときも大体はちゃんと聞いているらしいので、最近はあまり気にならなくなった。初めの頃はこういった亮の行動がいちいち辛い辛いと思っていたのに今はちゃんとわかるようになっている。
「私ね、亮といると笑顔仮面を外していられたの。自然な自分になれる。だから泣いたりしちゃうし、嫌な行動もとったりしちゃう。嫌だけどその方が自然なの。誰にでもにこにこしているとき、随分心が遠くて、まるでシャボン玉の中にいるみたいだった。誰にも想いが届かないのかと思って、自分のこと嫌いだった。でも、亮といるときは違ったの。意地悪な自分もおもしろいと思えたし、好きだと思えた。自分を出せる人がいるってことが、今日つられてスクールに入らずに済んだ勝因なのかなって思う」
「へぇ」
言葉少ななときは、彼は大体照れているのだ。でも私は早口でまくし立ててしまったからきっと半分もわかってないだろう。それならそれでいいのだ。また、何度でも言えばいい。
「それだけ。それじゃ」
そう言って私は電話を切った。今まで誰との電話でも私から切ることはいたずら電話以外になかった。他に話したい大事なことはないのだから、適当な話をして内容を薄めたくなかった。きっと亮にはわからないだろう。それでもよかった。わからないからひかれるのだと私は知っている。

 久しぶりにヨリコに会ったら、ヨリコの髪の毛が真っ黒でさらに短くなっていた。
「どうしたの?イメチェン?」
「そうだよ、似合う?」
私の知っているヨリコは初めからこうだった気がする。にこりと頷くと、ヨリコはカウンターの中に戻っていった。私はカウンターの席に座って、ヨリコのきれいな手を眺めた。
「そう言えば、天沢の彼氏に会ったよ。『絹子さんがお世話になってます』とか言ってた。天沢の名前が絹子って知らなかったから、笑っちゃったよ」
ヨリコのこちらを見ないにこやかな笑顔が、実は私の頭を殴りつけていた。少し気が遠くなって、何も話せないでいるとヨリコがこちらを見た。
「聞いてないの、彼氏から?」
「初耳ですが」
「何で、黙ってんだろうね。がつんと言ったのがよっぽど応えたのかな」
「え、何を、がつんと?」
動揺している私がおもしろいのか、ヨリコはなかなか教えてくれなかった。ヨリコのいとこが「遊んでないの」と叱るまで、ヨリコはゆっくりとコーヒーを入れていた。ようやくコーヒーが出来て私の隣に座ったとき、ヨリコは教えてくれた。
「天沢が泣きながら電話してきた日にね、思いあまってメール出したのよ。天沢がこんなに泣いてて、どうやらすごく好きらしくて、言いたいことが言えなくなっちゃうような、気の優しい人なんだから、いじめるなって。それから、天沢は傷つけられたくないから、傷つけるようなこと言わない人だよって。だから、ちゃんと察してあげて欲しいって。他にもいろいろ」
ショックだった。ヨリコがそんなに自分のことを知っていたことと、それを亮に伝えていたことがびっくりした。
「メールが来たっていうのは聞いたんだけど。まさかそんなことヨリコが言ってたなんて、聞いてない。何で直接言わないんだって悲しそうな声で怒られたよ。しかもその後しばらくして別れようって言われたんだよ」
ヨリコはびっくりして、コーヒーカップをがちゃんと鳴らした。それよりも声の方が大きくて、お店が一瞬騒がしい。
「まじで?もしかして会ったの、その前かもしれないよ。なんか相談したいことあるって言われて、この店に来てもらったんだもん」
「理奈ちゃん」
オーナーが近くを通りかかり、厳しくヨリコの名前を呼んだ。ヨリコはオーナーに手を合わせてから小声で話し始めた。
「天沢の相談だと思って。でもあまり天沢のことしゃべらなくて、女の子が好きそうなお店とか、プレゼントとか聞いていったよ」
「そうなの。女の子の好きなお店、知らないってこと気にしてたんだろうけど。でも、別に好きな子が出来たってあの時言ってたから、その子のことだったのかもしれないな、プレゼントは」
「でも、でも今はうまくいってるんでしょ?」
ヨリコの慌て方がかわいかった。亮の顔を思い出してみる。何かがある度、亮に絡めて考える癖が今はついてしまっている。亮がどう思っているのかわからない。でも、毎日電話をくれるし、亮がわかりやすく甘えてくれることで円満な気がする。
「うん、大丈夫」
「随分間があったなぁ。でも大丈夫ならよかった。実は今日、来てもらったのは違う理由があってね。これなんだけど」
ヨリコはカウンターの下からパンフレットを取り出した。
「カンボジア?アンコールワット?ヨリコ行くの?」
「うん、行きたくて。実は彼が旅行好きで、今、カンボジアにいるの」
ヨリコの口から初めて彼の話が出て驚いた。
「へえ、そうだったんだ、じゃああまり会えない?」
「うん、まあ。ここでバイトしたのと、おこづかいとか貯めて、ようやく行けそうなんだけど、一人で行くの怖くて。しかも初海外旅行にカンボジアだし、彼がいるって言ったらよけい親は許してくれないと思うの。だから天沢に一緒に行って欲しいの。天沢なら、いとこも知ってるからオーケーでやすいし」
面食らってしまった。パンフレットをまじまじと覗き込んでみる。今年はバイトもがんばったし、出せない額ではなさそうだった。それに、アンコールワットというところが私の気をひいた。海外旅行に行くなら、買い物中心の旅行より、遺跡などを見る方が好きなのは確かである。
「アンコールワットかぁ、いいなぁ。でも私、海外旅行いったことないよ。大丈夫って言えるほど安心な人でもないんだけど」
「いいの、親に了解してもらえたら。それに向こうに行ったら、彼が一緒にいてくれるから、大丈夫だし。じゃあ、いいよね?手続きしないと、あ、パスポートも作らないとね」
ちょっと雰囲気に飲まれてしまったところはあると思う。でも、行ってみたい気持ちは強かった。初めての海外にアンコールワットは私にとっていいような気がした。
「うん、じゃあ計画たてよう!」

亮は私がヨリコと一緒にカンボジアに行くことを喜んでくれた。
「気をつけていきなよ。絹子はぼんやりしてるから、変な人に引っかかったり、変な物買わされたりしそうだからね。まあ、ヨリコちゃんはしっかりしてるから大丈夫だと思うけど」
日差しの暖かい公園でデートしていた。
「そう言えば、ヨリコに会ったこと、どうして黙ってたの?別にいいんだけど」
「いや、一番絹ちゃんに優しそうだったから」
相変わらずよくわからない。私のためだというのだろうか。でもこんなにも穏やかな公園で、言い争いするのは私自身がつまらなかった。「ヨリコのこと、好きになったの?」と聞けなかった。
「あ、これ。カンボジアに行くとき付けていきなよ。あまり高くないから大丈夫だと思う」
亮はもごもごと言いながら私に小さい箱を渡してくれた。
「何?開けてもいい?」
今までになくどきどきした。箱を開けると青い石のついたネックレスが入っていた。
「うわ、嬉しい。すごく、嬉しい。付けていい?」
私がネックレスを付けたときの彼の嬉しそうな顔が、眩しかった。

「あ、雨降ってきたよ!狐の嫁入りみたい」
「スコールだね、これ。延君いないなぁ。ここの空港に迎えに来てくれるって言ってたのに」
シェムリアップ空港は日本の空港みたいに大げさではなく、天井の高い小さな駅のようである。入り口のところでタクシーの運転手たちが口々に声をかけてくる。私とヨリコは手を振りながら、日本人の男の人を捜した。
「あ、あれだ、延君!のぶー」
ヨリコの大声に雨の中傘を差さずにびしゃん、びしゃんとこっちにやってきた汚い男の人が、ヨリコの延君だった。
「無事ついたね。よかったよかった」
延君はヨリコの荷物をすぐに担いで、私に笑いかけた。汚そうと思ったことをすぐに後悔するほど、笑顔に清潔感が漂っている人だった。
「野田絹子です。お世話になります」
「こちらこそ。理奈がいつもこういうお姉さんが欲しいって言ってたから、なんか他人の気がしないんだよね、天沢さん」
ヨリコは慌てている。今までに見たことのないヨリコの様子がかわいらしい。
「じゃあ、さっそくだけどアンコールワットに行こうか。雨は、すぐ上がるから今急いでいけば虹も架かるよ」
延君の車で、私たちはアンコールワットへ向かった。空が随分広くて、赤い道がまっすぐに伸びていた。何もかもが物珍しく、ずっと外を見ていた。
「この車、どうしたの?」
「君らが来てるときだけ借りたんだ。仲良くなったこっちの友達が貸してくれたの。クーラーついてないと辛いからなぁ」
「むあって暑いよね。ねえ、何でここにこんなに長くいるの?」
「そうだなぁ、日本語が結構通じるからかなぁ。日本人、多いんだよカンボジアって」
「ヨリコ、あれ、バイクに何人も乗ってるよ!」
「ほんとだ!3人乗ってるから三ケツだよ」
「こっちじゃ珍しくないんだよ。みんな免許も持ってないし」
「そうなの?」
驚いているうちに、アンコールワットが見えてきた。黒々とした塔がジャングルの中から頭を出している。
「本当は、アンコールワットから離れられないのかも。すごくいいんだけど、まあ話すより実際に見る方がいいと思うから」
私とヨリコを下ろしてちょっと待っててと延君は車を起きに行った。もうとっくに雨はやんでいて空は晴れている。この青い色はどこかで見たような気がした。
「はあ、あれがアンコールワットなのね」
「なんか足下がふらふらする気がしない?浮かれてるのかな」
「うん、実感があるんだか、ないんだか」
私とヨリコが記念写真を何枚も取り終わった頃、延君がやってきた。延君は私たちをせかし、物売りの人たちをうまくよけながら、私たちを一番中心の塔へ連れて行く。
「他のところは明日、友達が案内してくれるんでね、今日は僕のお薦めだけ先にね」
石の彫り物や、石仏や石の像を本当はじっくり見たかった。でも、延君はどんどん先に進む。石の階段は思ったよりずっと急で雨のせいで滑りそうだった。
「あの階段だけ手すりがあるから、あそこから上るよ。理奈、もう息上がってない?」
「う、るさいな。平気っ」
それぐらい急だった。幸い私もヨリコも高いところが好きだったから、怖くはなかった。それでもとうとう上まで上ったときは息が切れた。そして、延君に続いて一番景色のいいところまで連れて行ってもらった。石の柱の間から外が見えた。
世界が急に広がった。雨に濡れて瑞々しく光る道がまっすぐとここの麓まで来ていて、周りのジャングルの木々も光って見えた。
「ねえ、ちょっとすごい。これ」
私は口もきけないほど圧倒されていた。今なら何もかもわかってしまいそうだった。私という生きている存在があまりにも小さくて、今持っている悩みはそんな私よりももっともっと小さく、ここから眺める景色に比べたら本当にとるに足らないものなのだろう。このとき私は何か大きなもの、それは神かもしれないし、自然かもしれないし、運命かもしれないけれど、そんな大きなものに対して圧倒されていて思考能力を失ってしまうようだった。そんな呆然としている自分とは別にちゃんと私はジャングルの中の赤い花を見つけたり、南の方から聞こえるお経に耳を澄ましたりしていた。
「ここは他の人も見たいだろうから、こっちにおいで、座ろう」
延君はちゃんとわかっていて西の門が見えるところから、北側へ移動した。こちらに廃止の柱はなく柵もなかった。随分と高いから、ふわふわした気分の私は落っこちてしまいそうだった。座って、何かにしがみついて初めて、カンボジアのアンコールワットに来てるのだと思った。
「ここならいつまでいても飽きないね。だから延君は気に入ったのね」
「うん」
私もヨリコも延君も黙っていた。話していたのかもしれないけど、思い出せないぐらいのたわいもない話だったのだろう。言葉は必要なくて、思考もなくてただ何かに圧倒されて自分の存在をそれぞれに感じていたのだと思う。そうやって空を見ていて、ようやくここの空に似た空を思い出せた。亮の小説に出てきた、高層ビルから登場人物が見ているあの青い空だった。私がずっと憧れていた空だった。こんなに遠くにいても亮は近くにいるとわかる。大事なものが何かがわかってなんだか涙が出てきた。
どれぐらい経ったのか、いつの間にか日が傾き初め、オレンジ色の衣をまとったお坊さんが鐘のような物を鳴らし始めた。それと一緒に警備員が「帰れ」と言い出したようだ。
「いつも、気がつくとこの時間なんだよね。アンコールワットには電気がひいてないから、階段は危ないんだ。もう降りるよ。明日も来るからね」
私たちは急な階段を用心しながら足早に降り始めた。降りながら、私はヨリコに話しかけた。
「ねえ、ヨリコ。私、天沢っていうハンドルネーム、やめようと思うの。あのチャットに行くのはもうやめようかなって」
「そっか。私もそろそろ必要なくなったような気がする。もう、ヨリコじゃなくて理奈でもいいな」
私もヨリコも同じことを考えていたのかもしれない。自分を隠す場所はもう必要ないことがここに来てよくわかった。これから少しずつ変わっていくのかもしれない。東京とは違う笑顔をふたりで交わした。
「それと、あの『優しい』について書いた小説、書き直すことにする。もう、シャボン玉の中に閉じこもったお姫様でいたくないの」
「やっぱり天沢、じゃない、絹子だったのね、お姫様は。できたら読ませてね」
実はもう展開は、考えてあるのだ。ひとし君が私のシャボン玉の中に手をさしのべてくれて、お姫様はシャボン玉を自ら割って出てくる。そして二人で青い空の下、世界を見に行くのだ。さっき青い空を見ていたとき、二人の乗ったシャボン玉が飛んでいくのが見えたのだから。

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