『やさしい愛』前編





「急にお休みになっちゃうなんて…」
少々頬を膨らませた少女が歩いている。
彼女の名はアリーナ。
一貫教育で有名な某私立校の8年生だが、
本日の予定であるダンス教室が中止になってしまったため、
体を動かすことが大好きな彼女としては、もっかご機嫌斜めといったところか。

「あ〜あ、時間が余っちゃった。どうしようかな…」
今から学校に戻ってクラブに行っても中途半端だし、
ひとりで街を歩いてもつまらないし、、、などと
思案にくれていた彼女だが、
やがて、空をさまよっていた蘇芳色の瞳が輝く。
(そうだ、クリフトは今ごろ明日の練習をしているはず。
 終わるまで待っていて、それから宿題でも教えてもらおう!)
そう思いつくと、なんだか急に楽しい気分になってきた。
耳を済ませば、彼のピアノが聞こえてくるような気さえする。

アリーナは微笑むと、
茜色の髪をなびかせながら深緑の中を駆けていった。


それより少し前。
アリーナの自宅であるハイム家の音楽室には、
心地よい調べが流れていた。
いくらか質素ではあるがきれいに整えられているその部屋で
グランドピアノを奏でているのは、ひとりの少年。
いや、もう青年というべきか。
彼の名はクリフト。
アリーナの幼馴染である彼は、彼女より3つ上の11年生。
今は明日の準備に余念がなかった。

明日は、身寄りがない子供たちが生活している施設での小さな演奏会。
初めは学校のボランティア活動として訪問したクリフトだったが、
幼い時に父を亡くした彼にとって、子供たちの境遇は他人事には思えなかった。
いつしか、クリフトはそこで定期的に演奏を行なうようになっていた。

曲が終わる。
手をとめたクリフトが安どの息をもらす。
「ふう…」
仕上がりはどれも自分なりに満足のいくものだった。
巨匠達には遠く及ばないだろうけれど、子供たちには楽しんでもらえるだろう。

子供たちの反応を想像したクリフトは、その端整な顔をほころばせた。
が、やがて彼の思考は違う方向へと流れていく。

彼らに比べると自分はなんて恵まれているのだろう。
自分にも父がいない。
しかし、父の友人であったというハイム氏の援助によって、
国内有数の名門校で学ぶことが出来ている。
さらに自分が希望すれば、大学進学までも後押ししてくれるという。
そればかりか、音楽に興味を持った自分に高名なピアノ教師をつけてくれ、
亡き夫人の形見であるこのピアノさえも自由に使わせてもらっている。
これ以上、何を望むことが出来るのだろう。

そう、これ以上を望めば罰があたる。これ以上は。

けれど、そんなクリフトの虚勢を嘲うかのように、
彼の脳裏にひとりの少女の笑顔が鮮やかに描き出される。

アリーナ…。

いつからだろう、自分の中で彼女が特別な存在になってしまったのは。
何ものにもかえ難い、愛しい少女。
しかし。
彼女は、世界に名立たるハイムコンツェルンのただ一人の後継者。
自分は、彼女の父親から援助を受けているただの幼馴染。
それも父との縁があったからこその恩恵であり、
今の自分には何の力も、まだない。
彼女の強い希望があるからこそなのだが、
本来は、ファーストネームで呼ぶ事など許されないはずなのだ…。

思考の迷宮から抜け出るかのように、青褐色の頭を左右に振ると、
傍らに置いてあるリストで明日のプログラムを確認する。
と、ある一点で視線が止まった。
「これは…」
施設の職員からぜひにとリクエストされたその曲は、
はじめて自分から弾きたくなって練習したもの。
だけど、結局弾けなくなってしまって、そして…。
年月が経つほどに心の奥へと押しこめてきた。
その歌詞の意味もわかってしまったから。

(だけど、今なら…)
クリフトは時計に目をやった。
アリーナは、今日はダンスの教室があるはず。
ここにくるまでに、まだだいぶ時間がある。
(それなら…明日の練習もしなければいけないし…)

クリフトは再びピアノに向き合った。
楽譜は必要ない。

やがて、グランドピアノから再びやわらかな音が流れ出す。
今度は違う音色も乗せて。