『やさしい愛』後編




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自宅の庭に入った茜色の髪の少女は、軽やかに芝生の上を駆け抜ける。
彼女の行く先は玄関ではなく、勝手口。
幼馴染の青年がいるはずの部屋は、そのすぐ脇。
しかし、いつも開いているその部屋の窓は、
今日に限ってぴっちりと閉じられていた。

「?」
少し訝りながらも勝手口を入る。
そこからは呼吸を整えて、抜き足,差し足,忍び足。
彼の演奏を邪魔しないように気をつけて、お目当ての部屋の前へ。
扉を通して聞こえてくるのは、いつもの音色。
それと今日はもうひとつ。
かすかに聞こえてくるテノール。
「この声…、クリフト?」
少女はいつもにもまして、そーっと扉を押し開けた。
彼に気付かれないように。

丁度、曲が終わるところだった。



演奏を終えたクリフトは、ふと気配を感じて扉の方を見やり…驚愕した。
「アリーナ!?」

まだ帰ってくるはずのない少女が、ニコニコしながらそこに立っていたから。

慌てて立ち上がり、彼女を中へ招き入れる。
「どうしてこの時間に?ダンス教室はどうされたんです?」
「急にお休みになっちゃったの」
クリフトが引いた“自分用の”椅子に腰掛けたアリーナが、嬉しそうに答える。
「だからね、絶対クリフトが明日の練習していると思ったから、ここに来てみたの!」
「そうでしたか」
努めて平静を装った返事をしながら、いつものように扉が少し開いたままであることを確認する。
次いでアリーナのために飲み物を用意しようとしていた、その時。
「ね、クリフト。さっき歌っていたのは明日の曲?」

思わず動きが止まる。
クリフトは、ひそかに嘆息してから振り向き、彼女にグラスを渡す。
「ええ、そうです」
「クリフトの歌声を聴いたのって、初めて。どうして普段は歌わないの?」
「声楽を本格的に学んでいませんし、ピアノに専念したいですから」
これは、本当のこと。
「そっか〜。でも明日は歌うんだね。楽しみ!」
「いえ、明日歌うのは職員の方々です。私は伴奏だけです」
「そうなの?だったら、さっきは何故?」
グラスを傾けたまま、ストレートな質問を浴びせる彼女。
「伴奏だけとは言え、実際に歌ってみないと感じがつかめませんから…」
苦しまぎれの言い訳。
「そうなんだ…。えらいね、クリフトは」
「いえ、そんなことは…」
疑いもせずに納得してくれた彼女の様子に安心する。けれど。
「ね、よかったら、もう一回最初から歌ってくれる?」
(ああ、やはり…)
ある程度、予測していた展開とはいえ、やはり躊躇する。
「しかし…、よろしいのですか?」
この曲は、彼女にとっても特別なはずだから。
「どうして?」
グラスを置いて、首を傾げる彼女。
自分の様子が腑に落ちないと言わんばかりのその様子に、
「アリーナ…。この曲を覚えていないのですか?」
思わず口に出してしまった疑問。けれどそれが仇となる。
「だって、最後しか聞いてなかったもの。私が知っている曲なの?
 だったら、尚更聴いてみたい。お願い!」
「ですが…」
「どうして?…ね、どうしてもダメ?」

両肘を机の上に乗せて、両手は組んで顎の下。
ちょっと上目遣いで、じっとクリフトの濃藍色の瞳を覗き込む。
満面の笑みを浮かべて。

この表情には、もうかなわない。

「わかりました」
ピアノへと戻り椅子の位置を調整する。そのまま、顔だけを彼女に向ける。
アリーナは今度は横向きに座り、背もたれに肘を乗せてこちらをみている。
蘇芳色の瞳を煌かせて。

「お聞き苦しいところがあるかもしれませんが…。
ベートーヴェンの歌曲より『Zartliche Liebe(やさしい愛)』です」
一般的な曲名で言うことは出来なかった。
あまりにも自分の気持ちそのままだったから。

両手を鍵盤の上に乗せたまま、しばしの瞑想。
ややあって、静かに目を開けた彼の指が、ゆっくりと動き出す。

口に出すことは出来ない想い。
でも、彼女相手に偽りの演奏など、出来はしない。
だから、クリフトは湧き上がる感情のままに音を紡ぎ出していく。
全身全霊を込めて。     

Ich liebe dich, so wie du mich, am Abend und am Morgen,
"愛する想いは 朝夕絶えず "

(あ…)

noch war kein Tag, wo du und ich nicht teilten unsre Sorgen.
"ふたつの心は 離るる日なし"

(この曲…お母さまの…)
アリーナは思い出した。
そう、これは彼女の母がよく歌っていた曲。
最後だけ聴いてもわからなかったのも無理はない。
何故ならいつも、歌が終わる頃はすでに彼女は夢の中だったのだから。
(それにしても…。クリフト…、歌を正式に習っていないなんて、嘘みたい…)

Auch waren sie fur dich und mich geteilt leicht zu ertragen;
du trostetest im Kummer mich, ich weint in deine Klagen,
in deine Klagen.
"悩みも涙も 互いになぐさめ
 憂きも楽しきも共に分かたん 君と共に"

いつもの穏やかで静かな話しかたとは違う、クリフトの歌いかた。
音楽に対して天賦の才を持つ彼の声は、
やわらかく豊かでありながら、どこか力強くもあって……。
まるで、初めて聴く声のようだった。

音楽室いっぱいに、クリフトのテノールが響き渡っていく。

Drum Gottes Segen uber dir, Du, meines Lebens Freude.
Gott schutze dich, erhalt dich mir, schutz und erhalt uns beide.
"愛しの君よ 真心愛でて 御神は君をば 護りたまわめ"

そして、アリーナの心も“何か”でいっぱいになっていく。

Gott schutze dich, erhalt dich mir,
"御神は我らを"

彼の声とピアノとが、一段と激しく豊かな響きを帯びた。
「!!」
瞬間、アリーナの身体を電撃のようなものが走る。

schutz und erhalt uns beide. erhalt, erhalt uns beide.
erhalt uns beide!
"恵みたまわめ 恵みたまわめ 我らを!"

最後の和音の余韻が消えていく―――

(日本語訳:堀内敬三)

BGM Piano MIDI by 連れ
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クリフトは手を鍵盤から離して、いつもより大きな息をひとつついた。
そして、ただひとりの聴き手であるアリーナの方へと向き直る。
「!」
クリフトの表情がこわばった。
彼の右手がゆっくりとアリーナの顔へと向かう。
が、その手はふと虚空で止まって戻り……、
彼は、ポケットからハンカチを出すとアリーナに差し出した。
「あ…、ありがとう…」
それを受け取った彼女の瞳からは、いくつもの大きな滴が頬へと零れ落ちていた。

「申し訳ありません。やはり思い出してしまいましたか?エリアス様のことを」
「うん……。お母さまがよく歌ってくれた曲だもの…。…でもクリフト、“やはり”って?」
「…昔、エリアス様が亡くなられた頃、
 あなたがこの歌を聴いて泣き出してしまったという話を聞いたことがあるものですから…」
「…だからクリフト、さっき歌うのを躊躇っていたの?」
まだ少し潤んでいる大きな瞳が彼を見つめる。

「ええ」
多少の後ろめたさを感じながら、肯定の言葉を返す。
それも理由のひとつではあるから。

あの頃、
病が重くなった母親に、なかなか会えなくなって寂しそうだった
小さな彼女を慰めたくて、代わりに歌ってあげたくて。
一生懸命練習して、やっと弾けるようになったその矢先に、
彼女の母であるエリアス様は、亡くなってしまわれた……。
母親を恋しがる彼女に歌ってあげても、想い出と共に会えない哀しみを呼び覚ましてしまうだけ。
幼いながらにそこまで考えたかは、もう確かではないけれど…。
とにかく彼女を哀しませたくなかったから、楽譜をしまい込んだ。

後ろめたいのは、躊躇った理由が他にもあるから。
今はそちらの方が大きいかもしれない。
でも、それは言えない。
彼女に気付かれてしまうのを恐れていただなんて。

それきり、黙ってしまったクリフト。

後悔の念に駆られているのかと、不安になったアリーナが懸命に声をかける。
「でもね、お母さまのことを思い出したのは本当だけど…、
 何でこうなっちゃったのかはよくわからないの。
 ただ、涙が勝手に出てきちゃって…、おかしいね…。
 だけど、哀しかったからじゃないと思うの」

アリーナ自身も戸惑っていた。
今、彼に伝えようとしていることは、確かに自分自身が感じたことなのだけど、
でも、それだけじゃないような気がして。
何かもっと大事な理由があるような気がして。
だけど、いくら考えてもわからない。どうして泣いてしまったのかが。
ただ、彼の歌は素敵だった。後悔なんかしてほしくない。それだけは彼にわかってほしくて。
「ごめんね、泣いちゃって。でもクリフトの歌のせいじゃないよ、きっと。
 だってクリフトの歌、すごく上手だったもの。だから…、また歌ってくれる?」

そう言って、ふたたび彼の顔をじっと見つめる。
濃藍色の瞳がゆっくりと自分に向けられて、
「ええ、アリーナがそう言うのなら…」
そして、いつもの微笑み。
「よかった!」
心からそう思う。
いつもどおりのクリフトの表情が見られたのが嬉しくて。
胸につかえていた“何か”は、いつの間にかもう気にならなくなって。


「あ、ごめんなさい。明日の準備の邪魔をしちゃって」
「いいえ。明日の曲は一通りさらい終わりましたから、もう大丈夫です」
「ほんと?それなら、数学を教えてもらってもいい?課題でわからないところがあるの」
「ええ、構いませんよ」
「嬉しい!ありがとう。じゃあ、テキストをとってくるね」
普段どおりの会話なのに、何故かそれを心地よく感じながら、アリーナは音楽室をあとにした。

(…………)
見た目はもう、いつもの彼女。
気付かれなかったことに対する安堵なのか、それとも落胆なのか、
自分でもよくわからない感情をもてあましながら、
クリフトはそんな彼女を見送った。



彼は知らない。
彼がその曲に、詞に、歌に込めた強い想いが、彼女の心を揺らしたことに。
でもそれは、彼女自身もまだ気付いていないこと。

彼女は知らない。
彼が躊躇った理由の全て。彼が伝えなかったもうひとつの曲名。それが彼の本心。
―――『Ich Liebe dich(我、君を愛す)』


彼女にそのことがわかるのは、
そして、彼の想いが通じるのは、
まだ、先の話―――。



Fin.