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庶民にとってはお茶を飲むことすらかなわない高級料亭。
特に奥座敷は町の喧騒から一切隔絶されており、その雅な佇まいと相まって、
まるで極楽にいるかのような風情を味わえると噂されている。
今宵、そこを利用している客人はふたり。
いかにも善良そうな顔をした恰幅のよい小物問屋の主人と、
顔半分が真っ白い髭で覆われているかくしゃくとした当地の藩主。
贅をつくした膳を前にして、いと和やかに談笑している。
しかして、その内容と言えば……。
「まったく、あれほどの品をそのような値で買い叩くとは……。お主も悪よのう、越後屋」
「いいえ、私なぞ、とてもとてもお代官さまには敵いませぬ。
お聞きしましたよ。あの偏屈の用心棒を手中におさめたとか。
いったいどんな手をお使いになったんですか?」
「いや、それは言えぬぞ。いくらお主が全てをその腹にしまっておく奴だとしても
こればかりはな……。許せよ」
「いいえ、長い付き合いですから大抵のことは予想がつきます」
気を悪くするそぶりも見せず、にこやかに相槌をうつ主人。しかしその瞳は底意地悪い光を放っている。
「そうか、さすがよのう」
感服したかのようにうなずく老藩主。
けれど、その表情は髭とシワとに隠れていて、真意を読み取ることは難しい。
数年前、先代藩主が不可解な死を遂げ、何故かその家老であった彼が名跡を継いだ。
以来、彼はここにいる商人とともに、この地の富と権力とを私欲のままに操っている。
それを糾弾するものは誰もいない。彼らが全てもの言えぬ世界へと葬ってきたからだ。
「おお、そういえば腹で思い出しましたよ。
お代官さまはこれが殊のほかお好きですゆえ、今宵も持参してきました。ささ、こちらを」
「おお!これは山吹色の……。いつも悪いな、越後屋」
「いえいえ、その代わりといってはなんですが、例の件……」
「しっ」
髭と同じくらい白い眉を潜めた老藩主は、主人の言葉を制すると、やおら傍らの刀を天井につきさした!
「いったい…何を…ひっ!」
老藩主は無言で刀を主人の前に突き出す。
思わず息を飲む主人。
冷たく光る刃先に微かに残っている、赤。
「こ、これは…」
「どうやらネズミが一匹天井裏に入り込んでいるようじゃな」
「ネズミ…ですか…」
「さよう、うろちょろと目障りなネズミは退治するに限るな…。おい!誰かおらぬか!」
時をおかずして外に控えていた屈強な男たちがどやどやと入ってくる。
「天井裏にネズミが一匹入り込んでおる!好きなようにして構わん!逃がすな!!」
その言葉を合図に、いっせいに辺りが騒がしくなった。
「く……」
天井裏では、足首を押さえた少女が必死に痛みをこらえていた。
さすがに直撃は免れたものの、歳の割には早かった老藩主の刃を完全にはよけきれなかったのだ。
傷口から流れ出る血が埃まみれの床に滲みこんでひろがっていく。
自分を狙っている男たちの怒号が近付いてくる。
敏捷さが自分の最大の武器なのに……。この足じゃ…逃げ切れない。
「ここで、こんなところでおしまいだなんて…」
自らのふがいなさを悔いるかのように亜里がつぶやいた時、
「亜里!」
背後から自分の名を呼ぶ声。
場合が場合だけに大分潜めてはいるけれど、それは聞き違いようのない人のもの。
「久理……!」
振り向くと、亜里と同じような忍び装束を纏った若者が近寄ってきた。
「大丈夫ですか?!」
「久理、足が…」
「診せてください」
久理と呼ばれた若者は亜里の傷ついた足に慎重に触れる。
「ああ、これなら固定すれば動けます。少し痛いですが我慢して下さいね」
そういうと久理は自らの袖を裂き、それを亜里の足にきつく巻く。
唇を噛み締めて耐える亜里。
「…これで大丈夫でしょう」
「久理…。どうしてここへ?」
「…今はそれよりもここから逃げることが先です。さ、こちらへ。抜け道を見つけておきましたから」
久理に手をとられた亜里は、そのまま彼に導かれるように闇の中に消えていく。
一瞬の後、天井裏に踏み込んだ男たちが見つけたのは黒ずんだ血の跡だけであった。
それより小半時ほど経った城下町。
夜更けの通りに聞こえているのは、足音がふたつだけ。
歩いているのは、まだ歳若な薬師と娘。
「大丈夫ですか?」
薬師が娘の耳元でささやく。
「うん、こうやってゆっくり歩いているぶんには…」
娘は、薬師と同じような小声で答える。
その腕は薬師の腕にしっかりとつかまっていて、
仮に道行く人がいたならば、なんとも仲睦まじげなふたりに見えたであろう。
いや、実際はそんな穏やかなものではない。
辛くも追っ手を逃れた久理と亜里は周囲に気を配りながら隠れ家への道を急いでいるところだった。
「ね、さっきも聞いたけど…どうしてあそこにいたの?
私、誰にも言わなかったのに…」
「討議の後、彼らの予定について美音さんに伺っていたじゃないですか。
…あなたの考えていることがわかったので、後をつけてきたんです」
「………」
「無茶ですよ。独りで乗り込むなんて。勇さんも言っていたじゃないですか。時を待て と」
「だって!」
亜里が甲高い声をあげる。
長屋の上の猫がぴくりと耳をそばだてる。
久理はひそかにその形のよい眉をひそめるが、幸い、声を聞きつけて駆けつける者はいない。
なので、彼は諌めることもせずに彼女の次の言葉を待った。
「いつもいつも皆そう言うわ。まだ早い、時を待て、自分を磨けって。
でも、いつまでそうしていればいいの?
こうしている間にも、あの男たちに泣かされる人が出て来てるかもしれない。
いいえ、もうどこかで泣いているかもしれないわ。
私のような人がどんどん増えていくなんて、私……」
話しているうちに感情が高ぶってきてしまったのだろう。亜里は足を止めてうつむいてしまった。
久理は亜里と向き合うと、空いている方の手で彼女のきっちりと結い上げた髪にそっと触れる。
夜目にもわかる鮮やかな茜色の頭をやさしく撫でながら彼は言った。
「……亜里の気持ちはわかります。
早急に彼らを何とかしなければならないと考えているのはあなただけじゃない。
けれど、彼らはこれまでのやり方が通用しない手強い相手です。知恵もまわる。
きっちりと計画を練らないと、彼らは網から逃れてしまう。
そうなると、彼らを裁くことは二度と出来なくなるでしょう。失敗は許されないのです。
…どうか、わかって下さい」
久理の言うことは正しい。全くの正論だ。
押し付けるのではなく諭すような、その穏やかな言葉を聴いているうちに
心のささくれが取れていくのが亜里にはよくわかった。
「う…ん…」
「それに、亜里が心配していることにならないように、私たちもそれなりに努力をしているんですよ」
「そうなの?」
「ええ。ご存知のように私は薬師です。
名芸妓である真奈さんのようにはいきませんが、それでも様々な人から話を伺うことができます。
彼らの毒牙にかかりそうな方がいた時は、まず美音さんと話すように仕向けてみます。
私たちでは無理でしょうが、占師として評判高い美音さんの助言なら聞き入れてくれるかもしれませんからね。
勇さんは…、ああ見えて結構、あちこちで彼らの息がかかった荒くれどもの蛮行を抑えているんですよ」
「……知らなかった」
「敢えて教えていませんでしたから」
「どうして?!」
「あなたには心置きなく鍛錬をしてほしかったからです。
いくら素質があるとは言え、あなたはこの世界に入ってからまだ日も浅い。それに……」
よどみなく流れていた久理の言葉が止まる。
彼は不思議そうに自分を見上げる蘇芳色の瞳を見つめ返すと、言葉を紡ぎ直した。
「それに、その方があなたが本懐を遂げる日も早くなる。だから、そうしようと皆で決めたのです。
決してあなたを軽んじたわけではありません」
「………」
わかっている。
久理はいつも自分のことを考えてくれている。彼の言うことはいつだって正しい。
けれど、あまりにも彼が冷静で完璧だから。自分が子供扱いされているようで少し悔しかったから。
亜里はささやかな反撃をしてみたくなった。
「わかったわ…。私は、今私に出来ることを精一杯する」
心もち俯いて、神妙に告げる。
「ええ」
「もっと、もっと努力して自分の技量をあげるわ。例えば、こんなふうに…」
そう言うと亜里は久理を見上げた。
大きな瞳は愁いを含んだかのように潤ませぎみに。
唇は半ば開いたまま、やや突き出すようにして。
頬の力を抜いて、じっと上目遣いで濃藍色の瞳を覗き込む。
「!」
ぎくりと硬直した久理の、端整な顔がたちまち見事に赤くなる。
たっぷりとした、間。
「いったい、どこでそんな表情を……」
「この前、真奈に教わったの。“あんたも女なんだから一応は覚えておきなさい”って。
ごめんなさい。久理がそんなにびっくりするとは思わなかったの。
でも、それってこれもいざという時に使え…」
「いけません!!!」
今までにないような久理の大声が通りに響く。
長屋の上でうたたねしていた猫が飛び上がってどこかへ駆けていった。
先ほどの危機でも見せなかったその慌てぶりに、亜里はきょとんとする。
「どうして?」
「どうしてって……。わかっているんですか?
さっきの表情がどんな意味を持つのか、いざのいう時とはどんな事態なのか…」
わかっているのだろうか?
この可愛らしい少女があんな表情をしたならば、大抵の男は放っておくはずがないことを。
ましてや、彼らを筆頭にその取り巻きたちは揃いもそろって色事を好む輩ばかり。
もし彼女が何も知らずにこの手を彼らに使ったとしたら……身の毛がよだつ。
どうして、真奈はこんなことを彼女に教えたのだろう?
彼女だって亜里を大事に思っていたのではなかったのか?
実は、真奈はその時意味ありげな笑いをしつつこうも言っていたのだ。
“ただし、あんたの場合は使う相手をよく選ばなきゃダメよ”と。
しかし、亜里はそれを忘れていた。
亜里はためらうことなく、まっすぐに彼を見つめて答える。
「あら、真奈は“これがあたしの武器なのよ”といっていたわ。
それを私も使えるようにするのがそんなにいけないことなの?
勇だって、“使えるものは何でも利用しろ”といつも言っているじゃない。
大丈夫よ、私には“すばやさ”というもうひとつの武器もあるんだから」
「…………」
わかってない。
真奈は職業柄、彼らのような人間の扱いに長けているからこそ、そのような振る舞いが出来るのだ。
彼女はおそらく、いやきっとそんな場面にでくわしたことがない。
いくら身のこなしが軽くても、その時には驚きで足がすくんでしまうことだってあり得る。
もしそうなったら………想像するだけで、胸が締め付けられる。
確かに、“使えるものは何でも利用する”これは自分たちの鉄則である。
けれど目の前のこの少女だけには、そんなことをして欲しくない。
……それは、自分の勝手な願いであるということはよくわかっている。
でも、どうしても。
だから、口に出来たのは強い否定の言葉だけだった。
「とにかく、絶対に、だめです」
「どうして!どうして真奈はよくて私はダメなの?!」
こう答えれば彼女の怒りを買うことはわかっていたけれど、でも他にいいようがなかった。
「彼女とあなたとは違うんです」
「……わかったわ」
「亜里…」
「それほど、真奈と私との差は歴然としているわけなのね」
「亜里、それは違います。私は……」
「もういいの、よくわかったから…」
「亜里」
「お願い、ひとりにして!」
亜里は自分を引き止めようとする久理の腕を振り払って、踵を返した。
その瞬間。
「!」
亜里の足首に激痛が走る。急に動いたため、負荷がかかりすぎてしまったのだ。
「亜里!」
そのまま地面に倒れこもうとした彼女を、久理が支える。
そして、彼はそのまま彼女を抱え上げた。
「く、久理!いいわよ、自分で歩けるったら!降ろして!」
「駄目です。これ以上歩いたら悪化します」
「さっきは急に動いたからよ。歩くくらいだったら大丈夫だってば!……久理?!」
久理は、自分の腕から逃れようと躍起になっている亜里に構わず、その華奢な体を強く抱き寄せた。
驚きで目を見張る亜里の耳元に、彼はささやく。
「お願いです。どうか、自分をもっと大事にして下さい。あなたを、つまらないことで傷つけたくないんです。
あなたの代りには誰もなり得ないのですから。ですから、どうか…」
始めは、彼女の動きを止めるつもりだけのはずだった。
そのはずだったのに。
今まで押さえ込んでいた感情が暴れだしてしまって、もう、抑えがきかない。
このぬくもりが愛しくて。失いたくなくて。護りたくて。
久理の声は、震えていた。
……知らなかった。
こんなに、彼の腕が力強かったなんて。
そんなに、自分のことを心配してくれていたなんて。
洋行先から偽書簡で呼び戻され、疑いもせずに父の屋敷に入ろうとしたのを、止めてくれたのは彼だった。
真実を知らされて悲嘆にくれた時も、ずっと傍にいてくれた。
平穏な日常が過ごせるよう、色々力を尽くしてくれていた。
その想いを無にするかのように、いまやろうとしていることを決断した時は、一番強行に反対されたけど、
いざこの世界に入った自分に、生きぬく術を一番熱心に教えてくれたのも、彼だった。
久理はいつも自分のことを考えてくれていた。
それはわかっていた……つもりだった。
本当に心配してくれる人なんて、自分にはもういないと思っていたのに。
この人は……。
「久理……」
彼を呼ぶ。
青褐色の頭がゆっくりと動いて、濃藍色の瞳に自分が映る。
「ごめんなさい。……でも、やっぱり私は私の目的を果たしたいの。
でも…、無茶をすることがないように、久理が見ていてくれる?」
彼女らしい正直な言葉に、思わず笑みがこぼれる。
そのまま、自分を見つめる蘇芳色の瞳に向かって久理は言った。
「もちろんですよ。その日までずっと傍につかせてもらいますよ」
そう、“その日まで”。
「よかった」
亜里も、安堵の笑みを浮かべる。
「……今夜は色々ありましたから、このままお休みになってもいいですよ」
「そんな!悪いわ」
「大丈夫ですよ、追手もいないようですし。何かあったら起こしますから」
「……いいの?」
「ええ」
「ありがとう…」
そう答えると、亜里はおとなしくその身を久理の腕に委ねた。
やはり、相当疲労していたのだろう。
ほどなく眠りに落ちた亜里を、久理はその場に立ち止まったまま見つめていた。
自分の腕の中で安心しきったかのように休む、大切な少女。
彼女はまだ知らない。
いずれ、自分たちは彼女から離れていかねばならないということを。
彼女をずっとこの世界においていてはいけない。
何故なら、全てが終わった後、この地を治めるのは先代の忘れ形見である彼女なのだから。
それは、確実にやってくる避けようのない、必然。
だから、無理に伝える必要もない。
……自分のこの想いと同様に。
最初から、自分とは生きる道が違うのだ…。
だけど、それまでは。
例え仲間になんと思われようと。
彼女の傍にいたい。見つめていたい。誰にも触れさせたくない。出来れば…、傷つけたくない。
久理は彼女を抱く腕に力を込めた。
再び、今度はひとつになった足音が、通りの静寂を破り、そして小さく遠くなっていく。
……やがて、少し気の早い一番鶏の時を告げる声が彼方より聞こえた。
終
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