強圧

 どこかで電話が鳴っている。 何かの発端を告げるように病的にしつこく鳴り響く。 世界が微妙に震えている。 そのうち音の切れ目もぼやけてきて、角砂糖が溶けるように 時空に吸い込まれて要った。 が、いつまでも飽和しそうになかった。 重々しい陰惨な 澱みが辺り一帯に立ち込める。 音は次第にその執拗さを募らせた。

  −−−−−− 戦場全体が何かしら目に見えぬもので圧迫されていた。 鋭い太陽光線は 既に乾涸びてしまった大地を否応もなく照り付ける。 砲煙を飲み込んだ重い不吉な大気は 滞ったまま全く動く気配を見せない。 極度の暑さが僕の全身を貫通する。 味方の軍勢は もう大分前に首尾よく退散し僕だけが取り残されてしまった。 言い知れぬ恐怖が体の中を 駆け巡り僕の五体を縛り上げる。 疲労感と虚脱感は僕からどうにか動こうとする最後の力 を徹底的に吸い取ってしまった。 敵軍の凱歌は蹄の音とともに物凄い勢いで高まり雪崩と なって僕に襲いかかる。 僕の体は破裂寸前だった・・・・。

  僕は布団の中で目を擦り耳を澄ませた。 一瞬部屋全体に殺気が漲る あっ、僕の部屋だ! 電話は数日前に付けてもらったばかりなので、僕はまだ自分の部屋でベルが鳴るというこ とに慣れていなかった。 というよりこれが最初の電話なのだ。 その瞬間勝ち誇ったよう に自分の電話番号を友人たちに触れ回っていた自分の姿が思い出されて急に顔の筋肉が弛ん でいくのが感じられた。 ベルの音が段々速くなる。

  ・・・・・夕陽の差し始めた喫茶店の中で僕は確かに興奮していた。しかし、窓の外で 一枚の枯れ葉が(初夏だと言うのに!)そよ風に煽られながらゆっくりと舞い降りていく様 だけは見逃さなかった。 僕はそれを友人の肩越しに見ていたのであるが、友人も背中でそ れを感じていたに違いない。 夕陽に照らし出されたその枯れ葉は一瞬きらめいて僕に何か を語りかけたように思えた。 僕はその意味を探ろうと必死になったが、それは徒労に終わ った。 もし植物が口をきくとすれば、きっとこんな時ではないだろうか。 それにしても 不吉な沈黙の会話だった。 僕の視線と枯れ葉の反射光線が接触した、その辺りは微妙な雰 囲気を醸していた。  そしてそれは煙草の煙のようにゆっくりと滑り出し、店全体に拡が っていった。 店にいた人は自分の心が何か不可解な巨大なものに徐々に支配されていくの を感じた。 その空間はあらゆるものを超越していたかに見えた・・・。

  突然、電話が怒りをぶちまき始めた。 僕は布団を投げやりちょっと伸びをして恐る恐る 受話器に手を伸ばした。

− もしもし、青木ですが..。

− ああ、青木? 俺だけどさ

− なんだ、君か。

II

 それは島田からの電話だった。 島田は僕の同級生で(もっとも彼は僕より一つ年上だっ たが)、僕の数少ない友人のうちの一人だった。

 彼の父はある中企業の会社の社長をして いて都内にりっぱな邸宅を構えていたが、彼は半ば勘当の形で(彼に言わせると「独立」の ためだったが)、家族とは別居し、学校の近くにアパートを借りていた。 どうして勘当さ れたのか彼は一度も僕に話したことがないし、僕もどうでもいいことだったので敢えて聞こ うとはしなかった。 彼は背も高い方だったが横幅が目についた。 彼も幾分それを気にしていたようで、ある 日学校のトレーニング・ルームでたまたま彼を見かけたことがあったが、そのとき彼は柄に も合わずいかにも恥ずかしそうだった。 しかしはたから見ればその「横幅」は彼に所謂貫 録を与えているのには違いなかった。 その上色黒の溌剌とした顔には、物に動じない目が 居坐っていたし、髭も延び放題にしていた。 彼を一目見たことがある人はその威風堂々と した風貌にまず驚くだろう。 まさに自分の生きる道は自分で切り開くといった風貌だった。 そしてそれはそのまま彼の行動に表れていた。 こう言うと彼は時たまとんでもない間違い でもしでかしたりしそうな風来坊のように思われるかも知れないが。 しかし彼はそうでは なかった。 彼は何をやらせても上首尾だった。 カッコよかった。 そして僕はそんな彼 に憧れ何度か真似をしてみようとしたが、いつも失敗に終わった。 田舎出の僕は生来内向 的、閉鎖的でまた極度に憶病だった。 そしてそのために大抵不利な立場に立たされるのを 感じ始め、自分の欠点を改めようと努めたが、所詮彼とは余りにも違い過ぎた。 その結果 僕が帰結した結論は彼には彼の生き方があり、僕には僕の生き方があるのだ、ということだ った。 単なる妥協に過ぎなかったかも知れないが、僕はそれを妥協だとは思いたくなかっ た。

 僕と彼は同級生だったにもかかわらず、僕が彼と最初に会ったのは、しかし教室では なかった。 同じクラスだったのだが半年余り僕は全然彼を知らなかった。 僕の生来の小 心でクラスの者と余り話をしなかったせいもあるが、それより彼がほとんど学校に姿を見せ なかったからである。 彼は例によってクラスの連中や教授連を見下していた。

 ところで、 彼と初めて会ったのは僕のもう一人の友人である川口と一緒にライブ・ハウスに行った時で ある。 僕がライブ・ハウスに行ったのは後にも先にもそれ一回きりであった。 ハウスの中は薄暗くて、と言うよりほとんど真っ暗で赤や黄や緑のけばけばしい閃光が始 終点滅していた。 演奏者たちは何かに憑かれたように激しい曲を大音響で演奏していて客 たちも(得意客が多いようだった)、これまた何かに憑かれたように踊り狂っていた。 館 内にはアルコールと煙草の煙と汗の入り混じった異様な臭気が立ち込めていた。

 川口はウ ィスキーをグラスで2、3杯ゴクゴクと信じられない速さで飲み干すといきなり僕の腕を掴 んで踊ろうと言い出した。 僕は仕方なく引っ張って行かれるままに彼の後をついて行って、 ぎこちなく踊り始めたが、どうも今一つ乗り切れない。 五分位して僕だけが席に戻った。ウィスキーをちびりながら煙草をふかしていると誰か がグラスを持って僕に近寄って来た。

− あのう、青木君じゃないですか。

 今まで知らない人に声を掛けられたことのない僕はすっかり動揺してしまった。

− えっ、どうして僕を。

− やっぱりそうだったのか。 君もこんな所に来るの。

 と彼は僕のすぐ隣に坐って煙草を探りながら言った。

− いや、今日が初めてです。 でも....。

  僕は反射的にライターを彼の前に差し出して火をつけながらくり返した。

− でもどうして僕を。

  彼はグラスを持ち上げてテーブルの上に置いてある赤いランプにかざした後、深く吸い込んだ煙を少しずつそれに吹き掛けた。 かれはすこしじらした。

− 君も英文科のA組だろ? 僕も実はそうなんだよ。 学校へはほとんど行ってないけどね。

  彼はいかにもうれしそうな表情でそう言い、続けて、

− 一人で来たの?

− いや、友だちに無理矢理誘われて。 一度位どんなとこか来てみたいと思っていたし。

− 友だちって川口のことだろ?

  ウィスキーを飲みかけていた彼は言った。

− えっ、どうして。

 僕の目はますます丸くなるようだった。

− やつは同じ高校の後輩なんだよ。

− と、いうと?

− どうしてやつが後輩になるってことかい? うん、まあちょっとよんどころない事情があってね。

  彼は急に笑い出した。 そして、僕に問い掛けた。

− こういうとこ、どう?

− うん、まあまあだね。

− なかなか厳しいんだな。

− よく来るの?

− まあな。 君は踊らないのかい?

  彼は立ちかけた。

− ちょっとまだ酔いが回ってなくて。 初めてだから少し恥ずかしいのかな。

− 踊ろうよ。 僕たちは川口の近くへ行って踊り始めた。 川口は僕をちらと見た後、島田に何やら目で 合図したようだった。

  初対面はこんな具合であった。 そして今その島田から電話が掛かって来たのである。

III

− 起こして悪かったな。 全然出ないんでどこかへ出かけたのかなと思ったんだけど、朝早くからお前が外出するはずもないからな。 電話はこれで何度目。

− 君が最初だよ。

− ああ、俺が最初か。

− うん、もう少し掛かってくる思ってたけどね。 ところで、こんな朝早くから一体何の用?

− 用ってほどでもないけど、今日高尾山へ行こうと思ってさ。 おまえも一緒に行かないかい。

− 高尾山って、あの...

− 奥多摩のだよ。 今日は天気も良さそうだし、学校へ行く気にもならないからな。 どうする? 一緒に行く?

− うん、行っても悪くないけど....。 ちょっとだるいなあ。

− じゃあ、行こうよ。 行けば直るさ。 都会の真ん中で何もせずに悪い空気ばかり吸ってりゃ、誰だってだるくなるよ。 じゃ、俺の下宿へ来いよ。 待ってるから。

  と言うなり、いきなりガチャン。

  何ともすっきりしない、一日の始まりだった。 欠伸をしながら時計を見る。 まだ、6時半じゃないか。 確かに大自然の偉容に接すれ ばこんなけだるさなんて吹っ飛ぶかも知れない。 しかし、こんな早くからラッシュをかき 分けながら奥多摩くんだりまで行く気にはとてもなれない。 それに一人で行くのならまだ しも、要らぬ注釈ばかり聞かされながら金魚の糞みたいに彼の後をついて行くのだけは絶対 いやだ。 もう少し寝ようかとも考えたが、彼を待たせておくのも悪いからとにかく彼のア パートへ行くことにした。

  こんな時間に部屋を出るのは初めてだった。 外はもう疾っくに白んでいた。 空には雲一つなく今日も暑くなりそうだ。 途中商店街 を通る。 商店街といっても細くてカーブの多い道の両側にいろんな店がこまごまと軒を 並べているだけのものだったが、それでも僕が通る時はいつも結構賑わっていた。 それが 今は店のシャッターが皆下ろしてあって、異常に静まっている。 これがいつも通るあの同 じ商店街とはとても思えなかった。

  突然雄犬同士の格闘で静寂が破られ、そしてまたすぐに静寂がのさばる...。ああ無気 味だ。 僕はいつしか走り出す。 幼い子供が暗闇を恐れて走り出すように。 足音が僕を 追い駆ける。 僕はますますスピードを出す。 しかし次の瞬間僕ははっとして立ち止まっ た。 誰もいないと思っていた商店街に人の気配がしたのだ。 煙草の自動販売機の前に一人の浮浪者風の男が眠っていた。 傍らには安物のウィスキー の空瓶が転がっている。 ひどく酒に酔っているらしく、何か言葉にならぬ吐息が感じられ た。 元の色が判別できないほど汚れてよれよれになった服を着て、壁に寄り掛かったまま 首を垂れている。 肌は煤けたようにどす黒く、くしゃくしゃの髪の毛は長いこと床屋に行 ってないことを証明していた。

 僕は何か胸から込み上げるものを感じた。 それは嫌悪で も憐憫でもあり得なかった。 そしてその感情は次第に僕の心に、僕の生に重くのしかかっ て来た。 (彼の場合生に占める死の割合が毎日余りにも高すぎた!)

  もう決心はついていた。 島田のアパートまでは5、6分だった。 僕が彼の部屋に入ったとき、彼は向こうを向い て鏡を覗き込みながら珍しく髭を剃っていた。 僕は開けてあったドアからそっと部屋に入 って来たので、彼は僕の姿が鏡に映って初めて僕の来訪に気がついた。

− いやー、電話って奴はなかなか便利だな、

  彼は髭を剃りながらそう言った。

− お互い部屋の中にいたままで一方の者をもう一方のところへ呼び寄せることができるんだからな。

− それが僕に対する歓迎の挨拶かい?

− 僕は少し不満げに言った。

− いやいや御免、御免。

− 何で髭なんか剃ってんの? 髭があった方がカッコいいんじゃない?

− ちょっと考えるところがあってね。 ところで最近余り会わなかったなあ。 下宿で何をくすぶっててたんだい?

− ちょっと考えるところがあってね、僕も。

 彼は笑いながら剃った後を鏡で点検していた。 そして僕の方を振り返って言った。

− なかなかさっぱりした、いい顔になっただろう?

 と、彼は言いかけ、すぐに僕の手許を見て驚いたような顔をして言った。

− あれっ、荷物は?

− 荷物って?

− カバンとか...

− あっ、忘れちゃった。

  僕は彼に気づかれないように芝居をした(僕にとっては非常な努力だったのだ!)。

− ちょっと急いでたもんで。 あっ、そう言えばお金を持ってくるのも忘れたよ。

− 本当かい? しかし、忘れるかねえ、遊びに行くって言うのにお金も持って来ないなんて。

− じゃぁ、もう一度帰って取って来るよ...。 うーん、何か面倒臭くなっちゃったなあ。 あんまり行きたくないんだけど...。

− ええっ。

− いや、どうも体はだるくてね。

− だから、行けば直ると言っただろう? 金なら俺が出してやるよ。

− でも、風邪のひき始めって気もするし...。 やっぱり僕行かないよ。

− そうかい。

  彼は少し落胆したようだった。

− 無理に一緒に行こうとも言えないからな。

− 悪いね、せっかく...

− いや、いいよいいよ。 残念だけどさ。 また、別の機会に一緒にどこかへ行こう。 そして、僕は彼のアパートを後にした。 僕にしては上出来だった。

IV

気が付いてみると、僕はさっきの所に来ていた。

 もう七時前だったが、相変わらずシャ ッターの閉まったままの商店街はまだ全く人気がない。 もっとも嵐の前の静けさといった 感じで、辺りの雰囲気は異常に張り詰めていた。 僕はその男に近寄ってちらと顔を覗き込んだ。 先程からずっと気に掛かっていたのだが、 やはりその顔には見覚えがあった。

 僕がこの近辺に引っ越して来て以来、夕暮れ時の往来 でよく見かけることがあった。 そのときいつも彼は段ボールの束や、みごとに擦り減った ゴム長靴の片割れや、外枠だけの電気釜など、ありとあらゆる瓦落多を満載したリヤカーを 重そうに引いていた。 夕方人通りの激しい、特に夕食の材料をあちこちせわしく買い回っ て歩く主婦たちで溢れた商店街にそんなリヤカー引きが出没していたのであるから、彼の存 在は紅一点のごとく際立つはずだが、ほとんどの人は別段気にも止めず(もっとも彼らは自 分自身のことだけで手一杯であったのだが)、そばを走り去って行った。 そして不思議な ことに彼の姿はその場の情景にぴったりと収まっていたのである。

 急に後ろの方で人の気配を感じ、僕は体を硬張らせた。

− おい、そこで何をしているんだ。

  僕は振り返った。 道の向こう側に背のすらりとした警官が僕を見下ろすようにして立っていた。

− ああ、警察の方ですか。 いやちょっとこの人が....

 と、僕がその男を指差すと、彼は近づいて来て僕の指差す方向を見据えた。

− 知ってる人?

 彼は不躾に僕に訊いた。

− いいえ、今ここを通りかかってるとこの人がいて...。 大丈夫かなと思ってたんです。

− あ、そう。

− 僕はもういいですか。

− 何が? − 帰っても....

− いいよ、君には関係ないだろう?

  僕は一刻も早くその警官のそばを離れたかった。 僕は帰りかけた。

  警官は彼に近寄って何か話し掛け始めた。 しかし、それは結局無駄 だったらしく、彼の片手を肩に取って彼を運ぼうとした。 僕は歩みを止めた。

− 僕も手伝いましょうか。

− いいって言うのに。 君には関係ないんだから。

  僕は彼らの後ろ姿を見えなくなるまでずっと見ていた。

 もう太陽はすこし高くまで上っ ていたが、それでも影はかなり長く延びた。 向こうから目をきょとんとさせた小学生がランドセルを鳴らしながら駆けてきた。

(1977.06.13)