『Anniversary』

その家のドアにもうあと十メートルほど近づいた頃だろうか、
いきなり何かがまろぶように飛び出してきて俺にぶつかった。

「うわっ、何だ?ちび、おい、海里、どうした?」

俺の背後にしがみつくように隠れた子供に声をかける。
なにやら黒っぽい物を抱えたまま、上気した顔をしているコイツが零一の長男ってワケ。

「ゆうしゅけ、だっこ!はやく、かいりのことだっこして!」

俺が抱き上げるのとほぼ同時くらいに、ドアから零一が半身を出してこっちをにらむ。

「海里!お父さんのズボンを返しなさい。悠介、早く入ってくれ。」

ドアの方に歩を進めると、腕の中の海里は足をばたばたさせてエビぞりになる。
もうすぐ四歳になる海里は、反抗期真っ盛りらしい。
今日は零一たちの結婚記念日で、久しぶりにオペラを見に行くので俺がベビーシッターというわけだ。

「ほら、海里、とーちゃんにズボン返しな。寒いってよ。」

「いやっ!おかーさんはかいりとおでかけするの!おるすばんは、おとーさん!」

「なあ〜んだ、じゃ、これはいらないな?」

ポケットから取り出した小さなウサギのぬいぐるみをひらひらさせると、ズボンを床に落として
それを掴もうと小さな手を伸ばして目をキラキラさせている。
落ちたズボンを拾い上げた零一が、ふうっと息をついた。
きっちりブラックタイを締めた下半身がパジャマ姿というのは結構笑える。

「ねえ、このうさちゃん、かいりの?」

頷くとさも大事そうに抱きしめて、頬をすり寄せる。こう見る分には天使なんだけどね。

「海里、俺と留守番してようぜ。たまにはとーちゃんとかーちゃんラブラブにさせてやらないとな?
 色々持ってきたから、いっぱい遊べるぞ。おやつも作るんだぞ、二人で!」

「昨日までは納得していたんだが、今日私たちが出かける支度をし始めたとたんにこの騒ぎだ。
 最近は、何かにつけ私をライバル視して、全く・・・。」

「そういう年頃なんだろ。とーちゃんがライバルってわけでヤキモチやいてんだろ?海里。」

「おかーさんはかいりのおよめさんになるんだもん。おとーさんはゆうしゅけとけっこんしなさい!」

思わず二人で顔を見合わせて吹き出してしまう。
その時、髪を結い上げて淡い桜色の訪問着を身に纏った彼女が寝室の方から出てきた。

「ごめんなさい、マスターさん。こら、海里、だめでしょう?ちゃんとご挨拶して。
 悠介お兄さんってお呼びするのよ。零一さんも早く着替えないと・・・。」

「海里が私のズボンを奪って逃げたんだ。」

少しすねたように零一が訴える。まるで子供のような甘えた表情で可笑しい。
お互いに彼女を少しでも独占したくてしょうがないんだろう。どっちもどっちだなあ。
母親の姿を認めた海里が身を捩って、俺の腕の中から床にすとんと落ちた。

「おかーさん!きょうのふく、とってもきれいだね。おはなみたい!」

膝をかがめた彼女の首にすがるようにして、海里が話しかける。

「そう?どうもありがとう。ね、いい子でお留守番お願いね。マスターさんの言うこと聞いて
 あんまり我が儘いわないでね?大丈夫かな、海里?」

「う〜・・・うん、わかった。いいこでまってる・・・。」

ぷっくりした頬をますますふくらませて、口をとがらせて答える様がすねた零一によく似てる。
身支度を終えた零一もやってきて、海里の顔をのぞき込んだ。

「大丈夫か?海里。おみやげ何がいい?」

「んとね、えっと・・でんしゃ!」

「電車だな?わかった。悠介のいうこと聞いて待ってるんだぞ。」

ポンポンと海里の頭を撫でて、零一たちは出かけていった。
その後ろ姿がちょっと得意げなのは俺の気のせいか?

「さ、海里、おやつでも作るか。」

キッチンの大きなテーブルに、クーラーボックスに用意してきた材料を並べる。
ふわふわにホイップした生クリームとヴァニラをきかせたカスタードクリーム。
二十枚ほどのクレープ生地。そして真っ赤な苺。
海里は目を輝かせて、材料と俺を交互に見ている。

「ゆうしゅけ、ぼくはなにをおてつだいすればいいの?」

「そうだな、とりあえずこの苺うす〜く切れ。」

小さなペティナイフを預けると、こわごわといった感じで苺を切り始めた。

「ああ、ダメダメ。ホラ、苺を押さえる手はにゃんこみたいに、こう少し指先丸めないと。」

教えてやると小さな手をますます小さく丸めて、真剣な顔つきで作業に没頭している。
小一時間ほどたった頃、海里が出来た!と声をあげた。

「じゃ、次は組み立てだ。この丸い生地に白いクリーム塗って苺並べたら、もう一枚生地乗っけて
 今度は黄色いクリーム塗って苺並べて・・・って繰り返すんだ。分かるか?」

「わかった!!」

顔も手も、そしてテーブルもクリームでべとべとにしながら嬉々としてやっている。
零一が見たら悲鳴を上げそうだ。

「ゆうしゅけ、できた!これ、おいしいね〜。」

自分の手のひらを子猫のようにぺろぺろなめながら海里がこちらを見る。

「ゆうしゅけは、なんでもできちゃうんだね。すごいね〜。」

「お前のとーちゃんも割と何でもできるだろう?お勉強とか、ピアノとか。」

「うん、でもおりょうりはおかあさんとゆうしゅけにはかなわない、っていうよ。」

「ははは、ありがとな。どうする?これ、すぐに食べたいか?」

「ううん、まってる。おかーさんたちがかえってくるまで。」

「そっか、じゃサンドイッチ作ってきたからそれ食べて電車で遊ぶか!」

「うん、やった〜。ぼくね、おかーさんとおとーさんのつぎにゆうしゅけがだいすきだよ!」

パタパタと子供部屋にかけていく後ろ姿がウサギのように可愛らしかった。
まあ、そのあと昔の二人のことを面白可笑しく話して聞かせたのはご愛敬、ということで。

零一たちが戻ってきたのは海里が夕飯を食べて目をごしごしこすり始めた頃だった。
玄関がカチャリ、と開く音を聞きつけて眠気が吹き飛んだように走っていく。

「おかえり!おとーさん、おかーさん。ねえねえ、はーやーくー。こっちきて!」

二人が靴を脱ぐのももどかしいように、じれた様子で海里が零一たちを引っ張ってきた。
そして冷蔵庫の中から宝物のように苺のミルクレープを抱えて運んでくる。

「けっこんきねんび、おめでとう。はい、どーじょ。」

二人は驚いたように顔を見合わせて、にっこりと微笑んで両側から海里の頬にキスをした。
くすぐったそうに照れた顔で俺を見ていた海里が手招きをする。

「なんだなんだ。」

そう言って膝をつき、海里の視線の高さに合わせると俺の頬に海里がチュッと口付ける。

「きょうはあそんでくれてありがとう。」

身内以外でもこんなにも愛しく思える存在があることを何かに感謝したい気分だ。
零一が弾き始めた優しげなピアノの音色と、ほのかに漂ってくる彼女の入れた珈琲の香り。
俺はもう一度海里を抱き上げてリビングへと向かった。




fin.