「Collarbone」


練習が終わった音楽室から戻る途中、私は小さくため息をつく。

・・・厳しいのは分かっているけど、コンクール前だとオーラが違うよ。・・・

コンクール直前の強化合宿、練習は夜遅くにまで及び指導には一層熱が入り檄が飛ぶ。
一年生などは厳しく叱咤されると涙ぐんだりしてる。

・・・私もあんな頃があった。ただ怖くて、怯えるように先生のタクトを見上げていたっけ。・・・

緊張のあまり、まるで機械仕掛けの人形のように勢いよく立ち上がって譜面台を倒し、
先生が目を白黒させたこともあったっけ。
ソロパートを担当するストレスから過呼吸の発作を起こして倒れたこともあった。

クスクスと思い出し笑いをしたとき、後ろから声をかけられた。

「部長、ちょっといいですか?」

振り向くとホルン担当の後輩が眉根を寄せて立っている。

「先生の様子が変ですよ。」

「変?変ってどういう?」

「アンドロイド故障って感じ。」

「へっ?どうしたって??」

「多分具合が悪いんじゃないかな〜と思うんですが、私達が何か言っても

 ”問題ない”の一言で片づけられちゃうし・・・。顔赤かったですよ。」

・・・全く先生ったら・・・

生徒の前で具合の悪いところなど見せられないと無理をしてるのだろうが、
目に見えて具合が悪くてバレバレの時ぐらい、誰かを頼ってもいいのに。

「わかった。様子見てくる。」

「はい〜、頑張ってください〜。」

間延びした声に送られて、合宿所の教員室へ向かう。
ノックをしても返事がない。部屋の灯りはぼんやりとついているようだけど。

「失礼しま〜す。先生大丈夫ですか?」

わっ、部屋に入ったとたん何かにつまずいた。乱雑に散らかった譜面やタクト、
脱ぎ散らかした・・・といった様の衣服。普段の先生からは考えられない様子だ。

ひとつひとつ拾い上げながら先生を捜す・・・。

いた!薄暗い部屋の奥、合宿所の薄い布団がこんもりと盛り上がっている。
枕元に座って覗き込むと、この世の苦しみを全て背負ったような苦悶した表情で目を閉じていた。

悪いとは思っても笑いがこみ上げてくる。・・・お、鬼の霍乱だ。・・・

「先生、先生?おかげんいかがです?」

「・・・問題ない・・・」

「問題大ありでしょう!こんなに苦しそうなのに。変な意地張らないでください!」

「どんな具合か教えてください、必要なもの持ってきますから。」

「頭が重い・・・節々が痛い・・寒気がする・・・。」

叱られた子供のようにポツリポツリと自分の症状について語る先生は、
普段より幼く見えてなんだか微笑ましい。本人には絶対言えないけど。

「風邪・・・もしかしたらインフルエンザとかかもしれませんね。そんなに寒いんじゃ。
今夜、熱上がってくるかもしれませんし・・・。ちょっと外出してきます。」

「・・・夜間の外出は・・・厳禁・・だと・・・」

「非常事態、ということで部長権限で行って参ります!」

後輩の一人に自転車を借り、夜の街へとこぎ出す。
学校へは歩いて通っていたので夜気にあたりながら自転車を走らせるのは久しぶりだった。
たどり着いた一軒の薬局、シャッターはおりていたが私は構わず新聞を差し込む口を開け叫ぶ。

「おーい!!おねえちゃーん!開けてー!私、私ー!!」

ややあってキイキイと音を立ててシャッターが開き、白衣を着た女性が出てきた。
私の年上の従姉妹。口は悪いがいざというときに頼るのはこの人、ということが多い。

「あんた、何なのこんな時間に。尽が熱でも出したの?それともあんたが腹でもこわしたとか?」

「違うよ、あのね・・・。」

私は先生の症状を手短に話し、どういう手当をすればいいか尋ねた。

「ああ、がたがた震えて関節が痛いんだったらインフルエンザってコトも考えられるけど、
何でもっと早く病院に行かないの?発症してすぐなら効く薬あるのに。バカか、そいつは。」

「バカじゃなくて意地っ張りなの。それと我慢強いんだよ。」

「我慢して具合悪くなって周りに迷惑をかけるのは、バカっていうのよ。まあ、待ってて。」

相変わらずの毒舌だ。一度先生と論戦してもらいたい。ちょっと怖いけど。

「はい、漢方薬ね。あんたの話じゃまだ汗出てないみたいだから、少し汗が出て楽になる処方に
してあるから。汗が出てきたらちゃんと体が冷えないように着替えさせんのよ。
熱が下がれば楽になるでしょ、きっと。スポーツ飲料とリンゴと冷えピタと・・・着替え。
 安静にさせとくのよ。・・・あんた、うつらないように気をつけなさい。」

何のかんのといっても細々と用意をしてくれた紙袋をかごに入れて、一路学校に戻る。

みんなはもう消灯時間になっていたので、生徒が休む部屋の明かりは消えていた。

台所で従姉妹から借りた土瓶で漢方薬を煎じ始めると、独特の香りが漂う。
ことことと静かに沸き立つ音を聞きながら、先生のことを考える。

生徒に厳しく、自分にも厳しい。視線は鋭く震え上がる生徒も多いが、その奥に宿る優しい光。
そんな光を初めて見つけた日はいつのことだったろうか。

授業でも部活でも常に自分を導く立場だったヒト。私の遙かな先を歩いているヒト。

その距離を縮めたいと願い始めた日はいつからだろうか。

好き・・・という気持ちなのかもしれないと考えたこともある。でもよくわからない。
学校という特殊な環境の中の一時的な気持ちの高ぶりかもしれないと、思ったりもする。

だけど何かの拍子にトクンと胸の奥が疼くのは・・・。

いつの間にか丁度いい具合に煎じ終わった。それを持って先生の部屋に向かう。
熱を測ると39度近い。額に手を当てれば苦しそうに目を開けた。

「戻ってきたのか・・・無事に・・・私に構わなくて・・いいから・・・早く・・休みなさい。」

「ハイ、戻りました。楽になると思いますからこれ飲んでください。」

差し出した湯呑みの中の液体を、怪訝そうに見ながらも飲み干してくれた。

「汗が出れば熱も下がってきて、楽になるそうですよ。これも貼りましょうね。」

シート状の熱冷ましを額に貼ると、眉間のしわが少し緩んだような気がした。

しばらくたってから首筋に手を当てると、しっとりと汗ばんでいる。
台所に戻って蒸しタオルを作り、先生をそっと揺り起こした。

「先生、先生・・?汗をかかれたようですからこれで体拭いて、着替えてください。
私、外に出てますから。立てますか?何か飲み物お持ちします。」

背後から抱えるようにして先生を起こす。
汗と熱を帯びてしっとりとしたからだが重く、ほんの少しドキリとした。

「・・・すまない・・・」

まだだいぶからだがだるいのだろう。物憂げな声。
自分の動悸を隠すように、自然口調が少し乱暴になる。

「ほら、しっかりしてください!汗かいてそのままだとよくありませんから!
 じゃ、台所行ってきますからね。ちゃんと着替えてくださいね!」

ああ、わかった・・。と先生の声を背後に聞いたような気がした。
十分ほど後、スポーツ飲料とリンゴをむいたものを持って部屋へと戻る。
枕元にはかろうじて脱いだらしい衣類が丸めてある。
先生は・・・着替えてくれて、少し乱れた前髪をいじりながら布団の上でぼーっとしていた。

「良かった、起きられるんですね。ハイ、のど乾いたでしょう?」

「ありがとう・・・少し、楽になったようだ。」

よく見ればパジャマのボタンが掛け違っている。
そのことをそっと指摘すると、恥ずかしそうにボタンを外していった。
襟元が大きく開いたとき、首筋から鎖骨にかけてが目に飛び込んできて思わず硬直する。

普段スーツ姿ばかりで決して目にすることがなかった場所。
ネクタイできっちりした印象しかなかったが、露わになってみれば全然違う印象を与える。
「先生」ではない一人の「大人の男」が感じられる場所。

一気に心拍数が上がり、頬が赤らむのが分かる。

「も、もう大丈夫ですね!では、これ飲んで、リンゴ食べて・・・おやすみなさい!!」

脱兎のように部屋を飛び出そうとした瞬間、指先が捉えられた。

「わわっ、どうしました?あの、その・・・。」

「今日は本当にすまなかった。・・・その、次週日曜予定はあるだろうか?」

「へっ?」

思わず間抜けな返事を返してしまう。

「あの、あの土曜がコンクールだから、日曜は暇なはず、ですけど。」

「今日の礼、ということで君を連れて行きたいところがある・・・。」

「ハイ・・・。よろしくお願いします。」

「では・・・。」

捉えられていた指先が解放されて、私は先生の部屋をあとにした。

部屋に戻る途中に見上げた窓からは、煌々とした蒼白い月の光が差し込む。
あの鎖骨をかいま見たことで自分の中の何かが少し変わったような、
それすら見透かされているような凛とした光。

想いが定まるきっかけなんて、きっとホントに些細で、時には単純で、
馬鹿げたことなのかもしれないとぼんやりと考えていた、そんな夜。





fin.