
「Moon Shadow」
20歳。
もう誰に憚ることなく飲酒も喫煙も出来る年齢。
高校生だった頃はとても大人だと思っていた年齢。
(実際の私の中身はまだ10代の頃と少しも変わっていないと思うけど)
はそう思いながら薄くルージュを塗った唇をとがらせた。
彼女の眼前では氷室がグレープフルーツを搾っている。
白いカッターシャツの袖をまくった彼の姿は恋人の
でさえ見とれてしまうほど魅力的だ。
(マスターさんがここを貸し切りにしてくれていて、本当に良かった。
他の女の人にはこんな素敵な零一さん見せたくないから)
彼女はそう思いつつうっとりと氷室を見つめていた。
ここは氷室の友人がマスターを務めるジャズバー。
ここで二人がカウンタを挟んで向かい合っていられるのも、開店から1時間この店を貸しきりにしてくれた彼のおかげである。
そしてカウンタの向こうにいる氷室は、今日20歳の誕生日を迎えた
の誕生日プレゼント−カクテル−を一生懸命作っている。
彼女が10代の頃は飲酒を許さなかった彼が、である。
「誕生日には何が欲しい?」
と氷室に尋ねられた時、
「零一さんが私のために何かをする姿が見たい」
そう言い張った自分を
は誉めたくなっている。
メジャーカップで慎重にグレープフルーツジュースやアルコールを計量している氷室。
真剣な表情と慣れた手つきでシェーカーを振る氷室。
その動作の全てが
にとってはたまらなく愛しい。
おもむろに氷室がグラスを
の前に差し出してきた。
そしてゆっくりとシェーカーの中身を注ぎ出す。
「どうぞ」
氷室は低い声で
にグラスを勧めてくる。
「・・・いただきます」
はそっとグラスを持ち上げた。
ふわっと独特のアルコールの香りが漂ってきた。
どこかでかいだことのある香り。
懐かしい、と言うには記憶に新しい香り。
「零一さん、これ・・・」
「よく気がついた。私がよく飲む酒と同じドライジンを使っている」
氷室はこの店に来ると必ずブルームーンを頼む。
薄紫色をした綺麗なカクテル。
氷室の雰囲気にとてもよく合う透き通ったカクテル。
(私がグラスに口を付けようとして零一さんに怒られたことがあったっけ)
は氷室の怒った顔を思い出して少し笑った。
「何がおかしい」
「あ、いえ。・・・いただきます」
彼女は氷室に向かってグラスを少し掲げると、一気に飲み干してしまった。
「
、無茶をするな!大丈夫か?」
氷室は心配のあまり青ざめた顔で、彼女を見つめる。
「おいしいです〜」
彼女の言葉に嘘はない。
確かにグレープフルーツのおかげで口当たりはさっぱりしている。
だがドライジンが存在感を持っているため、彼女にはアルコール分が強かったようだ。
の顔はすぐさま赤くなった。
目がとろんとし始めている。
身体がふらつき始めている。
どうやらアルコールが回り始めたようだ。
「・・・大丈夫か?」
氷室の問いかけには
「平気です」
と答える
だが、平気でない事は見ればわかる。
その時。
「
ちゃん。酔い覚ましのお茶でも飲むか?」
二人に声をかけたのはこの店のマスター、その人であった。
マスターは
に熱いアッサムティーを淹れた。
紅茶を飲むにつれ、彼女の酔いが少しずつ冷めていくのが傍目にもわかる。
「零一、ピアノを弾けよ」
彼女の酔いが覚めつつある様子を見てほっとしている氷室にマスターは命令した。
「何故」
「
ちゃんの誕生日なんだろ。一曲プレゼントしたって罰は当たらないから。なあ、
ちゃん」
とマスターは彼女にウインクをする。
もそれをにこやかに肯定している。
「・・・では一曲だけだ」
彼はこの二人には弱い。
それはおそらく二人が氷室にとって大切な人間だからなのだろう。
氷室はバーのピアノの前に座った。
何度か感触を確かめるように鍵盤をはじいた氷室はふと動きを止める。
「
」
突然自分の名前を呼ばれ、彼女はとまどった。
どう返事をしていいのかとまどう彼女に氷室は優しく微笑みかける。
「この曲を君に捧げる」
言い慣れていないセリフを口にしたため照れているのか彼の顔は少し赤みを帯びていた。
咳払いを一つして氷室はピアノを奏で始める。
静かな始まりを見せたその音色は、時に冷たく冴え冴えと。
時に優しく美しく、時に激しく荒々しく響いている。
「あいつがドビュッシーを選ぶとは。珍しいな」
小声でマスターが
に話しかけてくる。
「『月の光』ですよね」
こちらも小声で
が応じる。
「本当に素敵な音色です」
それだけ言うと彼女は、幸せそうに微笑んで恋人の演奏を見守り続けていた。。
演奏が終わり、氷室は熱心な観客二人から大きな拍手を持って迎えられた。
素晴らしい演奏と最高のプレゼントを受け取った証として。
「幸せになれよ、お二人さん」
そんなマスターの冷やかしとも声援ともつかない言葉を背に浴びながら、二人は並んで店を出た。
を家まで送る途中、二人は公園に立ち寄った。
酔い覚ましのため少し休んだ方が良いだろうという氷室の提案からなのだが、
あいにくベンチがふさがっていたためブランコに並んで座る形になっている。
「零一さん、あのカクテルの名前を教えてください」
上気した顔を軽く手で仰ぎながら
は何気なく尋ねてみた。
「・・・何故?」
氷室は困ったような声で問い返す。
「何故って知りたいからですけど」
「名前はない」
「?」
不思議そうな顔をする彼女に氷室は簡潔に結論のみ答えた。
「・・・私のオリジナルだ」
「オリジナル?」
「・・・君のために考えた。以上」
恥ずかしくなったのか畳みかけるようにそう答えると、彼は横を向いた。
彼女が初めて飲むアルコールだからと、1ヶ月以上友人の店でカクテルの研究をしたこと。
ベースをドライジンにしたのは、彼女が以前「いい香りですね」と微笑んだからだということ。
(とても口に出せるはずがない・・・)
氷室には彼女に対して言葉に出来ない事が多すぎる。特に今日は。
「じゃあ、私が名前を付けていいですか?」
彼女はさり気なく提案してくる。
「・・・まあ、いいだろう」
オリジナルカクテルに名前がつく、それ自体に不都合はない。
まして彼女のためのカクテルなのだから彼女自身が名付けることは至極当然の行為かもしれない。
氷室は口の両端を上げ、にこやかな笑みを作って承諾した。
はしばらく真剣な顔で悩んでいたが、やがて何かひらめいたのかにっこりと氷室に口を開く。
「“Moon Shadow”。は、どうでしょう?」
「ムーン・シャドウ?」
いぶかしげな顔をする氷室に
は得意げに説明する。
「零一さんが今日演奏してくれたのは『月の光』ですよね。
月光を昔の言い方で月影とも言うんですよ」
「英訳が多少間違えている気もするが、まあよいだろう」
あのカクテルは、ムーンライトというには色が濃すぎる。
だから、月の影。
月明かりであり、月光が照らす物の影の意でもある月影。
(あのカクテルにはぴったりの名前かもしれないな・・・)
氷室は立ち上がり、
の正面に歩み寄った。
月の光に照らされて氷室の眼鏡が一瞬光る。
それを
はじっと見つめている。
「どうした?」
「零一さんに見とれました」
ぼうっとした顔で返事をする恋人に氷室はため息混じりに苦笑した。
「・・・全く。君は」
氷室は彼女の手をとり、立ち上がらせた。
そして右手で彼女の肩を抱き、左手で自分の眼鏡を外しポケットにしまい込む。
「・・・誕生日おめでとう」
氷室は
の耳元に一言呟くと、彼女の柔らかな頬に手を添える。
彼女は静かにまぶたを閉じた。
月の光は二人を照らす。
冷たく、静かに。
優しく、時に雲間に隠れながら。
そして二人は一つの月影になった。
★藤村 涼様のサイト「起きたら草紙」のキリ番3000番でいただいたSS。
シェーカーを振る先生が目に浮かぶような素敵な私の宝物です。
さらに素晴らしいことに、オリジナルカクテル「Moon Shadow」のレシピまでいただきました!
〈補足です〉by藤村様
●カクテル「Moon Shadow」
オリジナルです(爆)
行きつけのバーのマスターに頼み込んで作って頂きました
←実際に作って頂いたものはコチラ
【材料】
・ドライジン:20ミリリットル
・グレープフルーツ:20ミリリットル
・クレームドカカオ:20ミリリットル
【作り方】
材料と氷を氷室先生のようにシェイクします。以上(笑)
バーなどでオーダーするとしたら
「“ルシアン”のウォッカをグレープフルーツに変えてください」
と言えばOKかと思います。
口当たりはさっぱり系なのですが、さり気なくきついです(爆)
ちょっと初心者向きとは言い難いカクテルかもしれないです。
●ドビュッシーの「月の光」
「ベルガマスク組曲」の第3曲です。
かなり有名な曲なのでどこかで耳にしたことがあるかもしれないです。